30.旦那様の逆鱗
ルクスが、怒っている。お母様が私を侮辱したことが許せないのだと、そう言って。
そもそも、彼が怒るところを始めて見た。そして驚いたのは私だけではないようだった。お母様の後ろでは、ウェルとティナがあんぐりと口を開けている。二人は、ルクスをまっすぐに見ていた。
そんな私たちには一切構わずに、ルクスが凛々しい声で言う。
「彼女は、確かに変わっています。彼女は普通の令嬢のように堅苦しいドレスを着て、しずしずとたおやかにふるまうことはできません。ですが、その心根はとてもまっすぐで、美しいものです。僕はそんな彼女のすべてを、愛しています!」
「で、ですが、この子のふるまいはとうてい貴族の社会で受け入れられるものではありませんわ」
さすがのお母様も圧倒されたらしく、珍しくも動揺を隠せていない。そんなお母様に、ルクスは落ち着き払って言葉を返す。
「社会が彼女を拒むのならば、そんな社会は不要です。僕は、ありのままの彼女と共に生きられる場所を探すだけです」
「そのような……それは、侯爵家の存亡にかかわることではありませんか? 私の娘のせいで、ルクス様の家を危険にさらすなど、とても……」
「家の存亡と、大切な女性の幸福。比べるまでもなく、答えは決まっています。亡き僕の両親も、きっと僕の決断を支持してくれるでしょう」
やはりかすかな怒りがにじんだままの声で、ルクスが次々とお母様に反論していく。
「もし、貴女が僕から彼女を奪っていくというのであれば、僕は全力をもってあらがいます。ですからどうぞ、手を引いてください。貴女にとってアウロラは、侯爵家を敵に回してまで奪い返したい存在なのですか?」
ルクスの口調は、挑発するような、ひどく厳しいものだった。
彼がこんな物言いをするなんて、思いもしなかった。普段の彼は悪魔だということがとても信じられないくらいに善良で穏やかで、もし誰かともめたとしても、じっくりと穏便に話し合って解決しようとするような人だというのに。
呆然としていると、ルクスはふと肩の力を抜いた。そうして、ひときわ柔らかな声でささやく。まるで、誘惑するように。
「貴女の家の評判が落ちることについては、心配なさらないでください。そちらは僕が、いいように取り計らいますから。貴女がアウロラをこのまま手放しさえすれば、全部丸く収まるんです。貴女はただ、このまま家に戻ってしまえばいいんですよ」
初めて、ルクスが悪魔なのだと実感できた気がする。あの夜、白く大きな角を生やしていた彼は、異形ではあったけれど、神秘的で美しくて、そして清らかだった。
しかし今の彼は、いつもとはどことなく雰囲気が違っていた。その笑みは見る者をとりこにしてしまうような甘さとなまめかしさに満ちていて、それでいて一滴の毒がほのかに香っている。
初めて彼が見せている意外な一面に、私はほんの少し戸惑いつつも、それ以上にときめいてしまっていた。私の旦那様って、なんてかっこいいの、と。
普段は優しくて、でもあんな危険な顔もできるなんて、とっても素敵。そんなことを考えてしまった私は、天敵であるお母様に立ち向かっているということも忘れて、ルクスに見とれてしまっていた。
ふと気づくと、居間の中に沈黙が満ちていた。ようやっと今の状況を思い出して、名残惜しさを感じつつもルクスから目を離す。すぐに、絶句して立ちつくすお母様の姿が目に入った。
紅をきっちりと塗り込んだお母様の唇は、かすかに震えていた。上質なおしろいに覆われた顔は、明らかに青ざめていた。今までにないくらい、お母様は衝撃を受けているようだった。
一歩前に進み出て、ルクスの隣に立つ。お母様はまだ呆然としたまま、混乱しきった目で私を見た。
ルクスはお母様の鉄壁の守りを崩すことに成功した。ならば次は、私の番だ。ずっと聞いてもらえなかった思いを、ぶつけてみよう。今なら、何かが届くかもしれない。
「お母様。……私は、分かっていました。普通の令嬢としてふるまい、どこかに嫁いでいく。それが私にとって、正しいありかたなのだと、分かっていました。でもどうしても、私は普通にはなれなかった」
不思議なくらい、心は落ち着いていた。静かに、思うままを言葉に乗せていく。
「そうして私は、幸せになることをあきらめました。普通の令嬢になることのできない私には、人並みの生き方なんてできない。だから生まれ育った家で一生を過ごし、一人ひっそりと死んでいくのだろうと、そう思っていました」
その告白に、お母様がはっとした顔になる。けれどお母様が口を開くより先に、さらに言葉を重ねる。
「だから、家を追い出された時はほっとしました。あんな山小屋で長く暮らすのは無理だと分かっていても、ずっとここにいたいと思えてしまうくらいに。あそこでなら、少なくとも心だけは自由でいられたから」
お母様の表情がさらに変わる。そちらから目をそらして、話し続けた。ここでうっかり立ち止まってしまったら、もう二度と言えないかもしれないから。
「そうしたら、ルクスが迎えに来てくれて……彼は私のおかしな言動を、そのまま受け入れてくれました。……一緒に芝生で昼寝してくれる男性がいるなんて、夢にも思わなかった」
話しているうちに、ルクスと出会ってからのことが次々と思い出されてきた。それまでの十九年間とは比べ物にならない、自由で楽しい、とっても幸せな日々。
もちろん、ルクスの正体が悪魔だったり、私と結婚した理由がちょっともやもやするものだったりと、全てが完璧に素敵だった訳ではない。
でもやっぱり、幸せだった。ルクスが私を丸ごと愛してくれたように、私も彼のことを丸ごと愛していた。とんでもない理由で一緒になった私たちは、いつしか相思相愛の夫婦になっていたのだ。
「私は、ルクスと離れたくない。私があきらめていた幸せ、いいえ、それ以上の幸せを、彼はくれました」
お母様の肩越しに、ウェルとティナが見えている。ウェルはいつになく穏やかな苦笑を浮かべ、ティナは悔しそうに唇をかんでいた。
「私はルクスのそばを離れません。たとえ、お母様の命令であっても。だって今の私はお母様の娘であるより前に、ルクスの妻なのですから」
きっぱりと言い切った私の肩を、ルクスがそっと抱いた。二人寄り添って、まっすぐにお母様を見つめる。
お母様は、苦しそうな、寂しそうな顔をしていた。私の知っているお母様は、いつも眉をつりあげて、金切り声を上げながら私を叱り続けていたというのに。記憶の中のお母様と、目の前のお母様がうまく重ならなくて、ぱちぱちと目をしばたく。
居間がまた、しんと静まり返った。それはとてつもなく居心地の悪い沈黙だったが、隣のルクスの温もりのおかげで、少しも苦にならなかった。ただじっと、お母様の返事を待つ。
吸って、吐いて。お母様は必死に、落ち着きを取り戻そうとしているようだった。ルクスも何も言わずに、静かな目でお母様を見つめている。
「……あなたたちの言い分は、そうなのね」
やがて、お母様がひどく疲れた様子でつぶやいた。




