29.かくれんぼはもうおしまい
結局ジャンは、カリーナの屋敷で使用人見習いとしてしごかれることになったらしい。ルクスが手紙を書いた数日後、オルフェオが苦笑しながらそう教えてくれた。
「娘の婿として見込みがあるかどうか、しばらく手元に置いてじっくり見極めるんだとさ。その間、ジャンはカリーナと会うことはできないとか、なんかそんなことになったみたいだ。なんつうの、愛の試練? そんな感じか?」
分かるような分からないようなことをつぶやいていたオルフェオが、不意に小さく笑った。
「これも、あんたらのおかげだな。どうしようもなかったことが、ちっとだけ良い方に動いた気がする。ありがとな」
初めて出会った頃の態度からは想像もつかないほど素直に、オルフェオが頭を下げた。そのさまに、私とルクスはちょっとだけ目を丸くして、それから同時に微笑んだ。
ティナが私たちにお母様をけしかけて、私たちが逃げ出して。その結果、ジャンとカリーナにほんのちょっとだけ手助けができた。
まったく、人生というのはどこで何がどう転ぶか分からない。それを言うなら、こうして私とルクスが今も一緒にいること自体、奇跡のようなものなのかもしれないけれど。
そんなことを考えながら、晴れやかに笑うオルフェオを見ていた。
こうして、ジャンとカリーナの件はどうにか落ち着いた。しかし私とルクスの問題は、まだ少しも前に進んでいなかった。いくら相談し合っても、お母様を説得できそうな言葉はやっぱり見つからなかったのだ。
そもそも、今までお母様は一度たりとも私の話を聞こうともしなかった。
堅苦しいドレスが辛いのだと、淑女らしくしていると息がつまるのだと何度説明しようとしても、お母様は有無を言わさずに私の言葉をさえぎって、黙らせていたのだ。そんなお母様を、説得などできるのだろうか。
暗い顔を見合わせていた私たちのもとに、ある日突然思いもかけない客人がやってきた。
「ルクス、みいつけた! あなたまでいなくなっちゃって、心配したんだからね」
そんな声と共にオルフェオの家に飛び込んできたのは、なんとティナだった。目立たないようにしているのか地味に装っていたが、彼女はそれでもたいそう可愛らしかった。
彼女はルクスを見つけるやいなや、彼に抱きついてはしゃぎだす。
「どうして君がここにいるのですか、ティナ?」
「カリーナの話を聞いたの。彼女、あたしの友達の友達の従姉なのよ」
「君は相変わらず、顔が広いですね……」
「でしょう? ああもう、ルクスが無事でよかったあ」
ティナはよほどルクスのことが気にかかっていたらしい。彼の腕にしっかりと抱きついたまま、猫のように頭をすりよせている。私のことはきれいさっぱり無視したまま。
ルクスはそんな彼女を優しい目で見守っていたが、やがてためらいがちに口を開いた。
「その、僕の身を案じてくれるのは嬉しいのですが……そもそも君が、アウロラの母君をたきつけなければ、僕たちがこうやって逃げ隠れすることもなかったのですが」
「だあってえ、避けて通れない相手じゃない? 普通になれなかったアウロラの、淑女のお手本のような母親なんて、ねえ」
ティナはルクスの腕にしがみついたまま、こちらをちらりとにらんできた。
「それに、この程度のことを乗り切れないような女に、ルクスのそばにいる資格はないわよ。まあ、乗り切ったところで、あたしはすぐには認めてやらないけどね」
「だからといって、もう少しやり方があったのでは……」
「こういうのは、がつんと一気にやっちゃったほうがすっきりするもん」
少しも悪びれることなく、ティナはそう言い切った。
「でも、二人してこんなところに引きこもってるとか、面白くなーい」
頬をぷうとふくらませて、彼女は勢い良く言い立てる。
「たかだか母親一人にしっぽ巻いちゃって、なっさけないなあ。それとも何? 二人して平民にでもなるつもり? もしそうなったら、ルクスはあたしがすぐにかっさらうからね。権力にものを言わせて、力ずくで」
「……いずれ、お母様とはきっちり話をつけるつもりよ。今はそのための作戦を練っているところだから」
「ふうん? でもその顔色からすると、うまくいってないみたいね?」
「ええ、まあ……ですが、必ず僕たちはやりとげます。絶対に、失敗はできないんです。僕たちの、幸せな未来のために」
ルクスがきっぱりと言い切ると、ティナが一瞬だけ泣きそうな顔をした。けれどすぐに胸を張って、優雅に笑う。
「そうなんだ。アウロラ、あんたがうまくいかないことを心から祈ってるわ。じゃあね」
可愛らしい笑い声と共に、彼女は去っていく。最後にちらりと、意味ありげな流し目をよこして。
「……貴族のガキって、怖えのな……」
居間の片隅で一部始終を見届ける羽目になったオルフェオが、ぼそりとつぶやいていた。
ティナは絶対に、また何か仕掛けてくる。その予感は見事に的中した。彼女が訪ねてきた次の日の昼過ぎ、今度はお母様がオルフェオの家に押し掛けてきたのだ。
お母様は淑女のかがみのような人だから、平民の暮らす区域にはまず足を踏み入れないだろう。そう考えて油断していたところへの、この来訪だった。
オルフェオは用事で外出していて、夜まで帰ってこない。そのことだけはありがたかった。これ以上私たちの騒動に、彼を巻き込みたくはなかったから。
そんなことを考えていたら、なんとティナとウェルまでもがお母様の後ろからひょっこりと顔を出してきた。
他人を言いくるめることなどお手の物の二人は、どうやら私たちとお母様との決着がどうなるか、それを見物するためにお母様に同行してきたらしい。
お母様は、平民のなりをしている私とルクスを見てきりりと眉をつりあげる。
「アウロラ、もう逃がさないわよ。言っても分からないのなら、こちらにも考えがあるわ」
その声に、反射的に身がこわばってしまう。実家にいた頃、毎日のように聞いていた金切り声。普通にならなくてはいけないのだと、そう私に命じる声。
「今日は力ずくでもあなたを連れて帰るから。礼儀作法と淑女としての心構えを、もう一度みっちりと叩き込みますからね!」
いや、この声に負けてはいけない。昔の私は、守りたいものなんて何もなかった。お母様のお説教に耐えて、その場だけをやり過ごせばよかった。
でも今の私には、絶対に失えないものがある。勝手に震えそうになる手をぐっと強く握り、お母様をまっすぐに見つめる。そろそろと息を吸って、言葉を返そうとしたその時。
「申し訳ありませんが、それは認められません。僕は彼女に、たった一人の妻であるアウロラに、そばにいてもらいたいのです」
ルクスが私とお母様の間に割って入って、私をかばうように腕を伸ばした。
お母様は思わぬ反撃に、ほんの少し揺らいだように見えた。けれどすぐに表情を取りつくろって、首を横に振る。
「いいえ、ルクス様。アウロラは元々だらしのない子でしたが、こうも堕落しているとは思いもしませんでした。このような出来損ないの娘を嫁がせたことは、我が家にとって最大の恥です!」
堕落した娘。その言葉はそのまま、ルクスが悪魔としての使命を果たせていることを意味する。お母様は私を罵倒しているのに、その言葉が嬉しく思えてしまう。よく見ると、お母様の背後ではウェルが笑いをこらえていた。
ルクスは動かない。私からは背中しか見えなくて、不安になる。まさか、お母様の剣幕に押し負けてしまったのだろうか。
彼に加勢しなくては。そう思うものの、何をどう言っていいのか分からない。ウェルは興味津々に、ティナはちょっぴり難しい顔で、私たちをじっと見ていた。
その時、突然ルクスが叫んだ。
「アウロラは出来損ないではありません! 義母といえど、その発言は見過ごせません!」
明らかな怒りをはらんだその声に、その場の全員が凍りついていた。




