15.ルクスは一人つぶやく
そんなやり取りがあった日の夜。ルクスは一人、自室にいた。大きく開けた窓のそばに椅子を置き、そこに腰かけて夜空を眺めていたのだ。
どこからかふわりと蛍が飛んできて、窓枠に止まる。ルクスはその蛍に語りかけるように、静かにつぶやいていた。
「……まだ、夢を見ているようです。ついこの間まで、ずっと僕は苦しんでいたのに。まさかこんな形で、解決してしまうなんて」
整ったその口元には、とても穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ウェルがアウロラの話を持ってきた時、正直気乗りがしませんでした。もともと悪い噂のある女性とはいえ、それをさらに堕落させるのだと考えたら……申し訳なくて」
彼の言葉にこたえるように、蛍がゆっくりと明滅する。
「でもそれなのに、僕は彼の提案を断ることもできなかったんです。僕は悪魔として、立派に使命を果たさなくてはいけないのだと、当然のようにそう思っていましたから」
ルクスは窓枠にひじをついて、ふうとため息をつく。
「そうして、彼女と暮らすようになって……僕は大いに戸惑いました。彼女は少々変わってはいますが、とても明るくて優しい、素敵な女性だったのですから。初めて会ったあの日から、彼女を見ていると幸せな気持ちになれるんです。不思議なくらいに」
若葉色の目を伏せて、ルクスは唇をかみしめた。それはもう、悔しそうに。
「ああ、僕はこの人を不幸にしなければならないのだなと思ったら、泣きたくなりました。罪悪感で、苦しくてたまりませんでした。もうこのまま普通の夫婦として、一生添い遂げてしまおうか。何度そう思ったことか」
つぶやきながら、彼は窓から身を乗り出して視線を遠くに向ける。そちらの山を越えたところに、彼が両親と共に暮らした屋敷があるのだ。ここからでは見えないその場所に、ルクスは思いをはせているようだった。
「僕は、両親に幸せな一生を送らせました。でもそのことを、悔いてはいません。……この姿を見せてしまったことだけは、今でも後悔し続けていますけれど」
そう語る彼の頭には、白くつややかな角が生えていた。象牙にも似たその角は、月明かりを受けて清らかに輝いていた。
「……両親は、この姿を見て青ざめたんです。口もきけないくらいに驚いて、震えながら僕を見つめて……あの時のことは、きっと一生忘れられないと思います」
ルクスの声に、涙がにじむ。蛍がふわりと飛び上がり、彼の目の前を舞った。
「ふふ、はげましてくれるのですか? ありがとうございます」
彼が手を差し伸べると、その指先に蛍が止まる。泣き笑いに顔をゆがめたまま、ルクスはまた話し始めた。
「だから、あの夜アウロラがバルコニーに来てしまった時は……絶望しました。きっとウェルは、僕たちの正体をばらしてしまう。しらを切ったって、無駄だったでしょう」
近くの森から次々と蛍が舞い上がり、ルクスのそばに集まった。ふわふわと漂う蛍をぼんやりと眺めながら、ルクスは力なくつぶやく。
「……アウロラは、いつも僕に素敵な笑顔を向けてくれました。あの笑顔がくもってしまうところを、見たくなかった。だからあの時、これは罰なのだと思いました。ずっと彼女をあざむいてきた、僕への」
うつむいたルクスの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんでいく。
「それが、あんなことになるとは思いませんでした。ウェルの魔法は効かなかった。アウロラは僕を恐れなかった。僕の角を、綺麗だと言ってくれた」
くすぐったそうに笑って、ルクスは頭の角に手をやった。そこに集まっていた蛍たちが、またふわりと飛び上がる。
「それにまさか、全てのドレスを作り変えて欲しいと言い出すなんて、思いもしませんでした。……本当に、思い切りのいい方です。そんなところも、彼女の魅力なのでしょうね」
アウロラの言動は、ルクスの想像をやすやすと飛び越えていた。ドレスを魔法で作り変えた時、彼女は心底嬉しそうに笑っていた。その笑顔を思い出すだけで、ルクスの胸は甘く高鳴る。
「ああ、アウロラは本当に強いなあ。落ちこぼれの僕とは大違いです……って、いけませんね。ついいつもの癖で。これでは、彼女に叱られてしまいます」
自分のことを落ちこぼれだと言って卑下するのは、もうおしまい。そう宣言した時のアウロラの力強い笑みを、ルクスは思い出していた。
「僕は、彼女にふさわしい夫になりたい。彼女と共に歩き、彼女を支えていく、そんな存在に。僕のために堕落してみせると、そう言い切った彼女を、幸せにするために」
さっきまで不安定に揺らいでいた彼の若葉色の目は、まっすぐに窓の外を見ていた。闇に沈んだ森と、一面の夜空。彼にとっては見慣れたその光景が、不思議なくらいに輝いているようだと、今のルクスにはそう思えていた。
ルクスは黙って窓の外を見つめ続けていたが、やがてふうと息を吐き、肩の力を抜いた。
「さて、明日の外出に備えて、僕も準備をしましょうか」
そう言いながら、彼はクローゼットに歩み寄る。中から服をひとそろい取り出して、くすりと笑った。鮮やかな赤と白の、少々目がちかちかする服だった。
「実は、ちょっとだけ気になってはいたんですよね。見た目の礼儀正しさよりも、着心地と好みのほうを優先した服をまとったら、どんな気持ちになるのだろうかと」
期待に目を輝かせながら、彼は服に手をかざす。鮮やかな赤と白は、春の野原のような穏やかな緑と茶に色を変えた。
ルクスは作り変えた服を一枚一枚手に取って、手触りや大きさ、色などをとても真剣な顔で確認している。何度か微調整を加えてから、彼は大きくうなずいた。
「よし、これでいいでしょう。色も形も、すっかり僕好みになりました。ただ、侯爵家の当主にふさわしいとは、とても言えないものになってしまいましたが」
いたずらをたくらむ子供のように無邪気な、わくわくした顔でルクスは目を細める。そんな彼の周りを飛ぶ蛍たちも、とても楽しそうに舞っていた。
「……明日の朝、アウロラの驚く顔が、今から楽しみです。きっと明日は、素敵な一日になるんだろうな」
服をクローゼットにしまうと、ルクスは蛍たちに声をかける。僕はもう眠りますから、君たちも家に戻りなさい、と。
蛍たちはまるでその言葉が分かっているかのように、すいすいと屋敷を離れていく。全ての蛍が出ていったのを確かめてから、ルクスは静かに窓を閉めた。最後にちらりと、アウロラの部屋があるほうに目をやって。
それから彼は、さっさと寝間着に着替えて角をしまいこみ、そのまま寝台にもぐりこむ。
「ああ、楽しみです。ちゃんと眠れるか心配になってきました。まるで子供ですね」
仰向けに横たわって、ルクスは苦笑する。
「これで、悪魔の使命なんてものがなければ、言うこともなかったんですけどね」
穏やかに微笑んでいた彼の顔が、不意に引き締められた。彼は大きく息を吐いて目を閉じ、小声で言う。
「僕も……変わるべきなのでしょう。僕のために堕落するのだと宣言してくれた、あの優しくて愛おしい妻のために」
さらに何事か、彼は口だけを動かしてつぶやいていた。決意に満ちた顔つきで。それから薄く目を開け、優しくささやく。ここにはいない、妻に向かって。
「おやすみなさい、アウロラ。僕の愛しい奥さん」
やがて、安らかな寝息が聞こえてきた。かすかに笑みを浮かべて眠る彼を、窓の外から蛍たちが見守っていた。




