14.前を向くために
芝生の上での話し合いもだいたいまとまったので、私たちは屋敷に戻っていた。そのまま一緒に私の部屋に入る。
「ふふ、この部屋に招かれるのは初めてですね。少し、くすぐったい気分です」
ルクスがにっこりと笑いながら、嬉しそうにつぶやく。
彼の言う通り、彼がこの部屋に足を踏み入れるのは初めてだった。私に用事がある時であっても、彼はいつも扉の外に立ったまま私と言葉を交わしていたのだ。夫婦であっても、礼儀は大切にしたいですから。彼はそう言っていた。
私も、彼に入れとは言わなかった。最初の頃は、まだ戸惑っていたからだった。ルクスは魅力的で優しいし、しかも私の夫だけれど、それでも彼を自室に入れるのはちょっと恥ずかしいような気がしたのだ。
そして彼への恋心を自覚してからは、彼が私の部屋に入ると考えただけで、猛烈に恥ずかしくなってしまったのだ。というか今も、そわそわしているのを隠すのに必死だ。
特に散らかしてもいないし見られて困るようなものもないけれど、いつも一人でくつろいでいる場所にルクスがいる、ただそのことだけで、叫び出したいくらいに胸がどきどきしている。
しかし今は、とにかく我慢だ。ルクスの妻として、彼がきちんと悪魔としてやっていけるよう、できることをすると決めたのだから。なんだかおかしなことを決めてしまったような気もするけれど、深く考えないことにする。とにかく、ルクスのためなのだ。
入口の扉にきっちりと鍵をかけて、カーテンを閉める。二人きりの薄暗い部屋の中で、私とルクスは向き合った。
「それでは、いきますね。すぐに済みますから、楽にしていてください」
そう言ってルクスは手を伸ばし、そっと私の腕に触れた。ほんの一瞬、ひやりとした風が全身をなでていったように感じた。
「はい、できました。……どうでしょうか?」
机の上の燭台に明かりをともしながら、ルクスが自信なさげな声で尋ねてくる。部屋の片隅の姿見に近づいて、のぞきこんだ。
そこに映っていたのは、一風変わったドレスをまとった私だった。部屋着と同じように体をしめつけないそのドレスは、薄い布が幾重にも重なって、肩から膝の下まで流れ落ちていた。軽くて着心地がいいのに、ため息が出るくらい美しくて、豪勢だった。
「素敵……ぜんぜん苦しくないし、動きやすいのに、とても優雅で、綺麗……」
ほうとため息をついていると、ルクスもほっとした顔で近づいてきた。鏡の中に、二人の姿が並ぶ。彼は、とても優しい笑みを浮かべていた。
「そうですか、良かった……魔法をこういったことに使うのは初めてで、緊張していたんです」
ルクスは私の着ていた部屋着に魔法をかけて、新しいドレスに作りかえたのだ。大まかな形は話し合って決めたものの、色や細部はルクスに任せた。
軽やかなこのドレスは、私の瞳に合わせたのか、白に淡い紫や、青みを帯びたすみれ色など、様々な紫色が散りばめられていて、全体としては淡い紫色をしていた。春の花のような、優しい色合いだった。
「魔法って、本当にすごいのね……」
「僕は、魔法はあまり得意ではないんです。得意な悪魔であれば、ぽんと屋敷を一軒建てたりもできますよ」
とんでもない話に、思わずぶるりと身震いをする。その拍子に、ドレスの薄布がさらりと揺れた。綺麗だなと見とれたその時、ふとあることに気づく。
「ところで、魔法って無言で使えるものなの? 確か昨夜は、何か命令のような言葉を口にしていたような……」
あいまいに尋ねたが、私はあの時の言葉をはっきりと覚えていた。オ・ルクスの名において命じます。彼はそう言っていた。きっとその『オ・ルクス』というのが、彼の本当の名、悪魔としての名前なのだろうと、私は半ば確信していた。
「基本的には、ちょっと手をかざすだけで使えるんですよ。例外的に、人や血の温かい生き物を操る時だけ、ああやって命じてやる必要があるんです」
「そうなの。面白いわね。昨夜のあの幻もとっても綺麗だったし」
思ったままを答えると、ルクスは困ったように眉を下げた。
「貴女は理解が早いですね。……普通はもっと戸惑ったり、混乱したり……少なくとも、悪魔という存在をあっさりと受け入れはしませんよ。僕の両親も、そうでしたから……」
悲しそうに目を伏せるルクスに、そっと手を伸ばす。私がついているから、という思いを込めて、その胸元に触れた。彼はその私の手を握って、静かにつぶやく。
「僕は侯爵家の一人息子として生まれました。僕の悪魔としての初仕事は、両親を堕落させ、領民を不幸に陥れることだったんです。でも、僕はどうしてもそれができなくて……僕は、ずっと両親の自慢の息子でした」
それはいいことだと、私はそう思う。でも彼ら悪魔の基準では、きっと駄目なことなのだろう。励ますことも慰めることもできずに、ただ彼の話に耳を傾ける。
「その関係が変わってしまったのは三年前。僕は両親が年を取ってから生まれた子供だったということもあって、両親は当時十八の僕に跡目を譲って、引退することにしたんです」
ルクスの声が、どんどん暗くなっていく。彼の手を、両手でぎゅっと握り返した。
「……僕は思い切って、自分の正体を両親に打ち明けました。でも二人は、すっかりおそれをなしてしまって……」
ルクスは何かをこらえているように、歯をかみしめた。とても辛そうな表情だ。
「結局僕はウェルを呼んで、両親の記憶を一部消しました。ずっと僕を育ててくれた両親にそんなことをしたくなかったんですが、僕のことでおびえさせるのは、もっと辛いですから」
それで、彼は私の記憶のことを気にしていたのか。納得がいくと同時に、悲しくなってしまった。
「でも両親は、それから相次いで亡くなりました。僕が正体を明かさなければ、二人はもっと長生きできたかもしれない。そう嘆いていたら、『俺の魔法は完璧だ。あの記憶はきれいに消えている。お前の親が死んだのとは全く関係ない』とウェルに叱り飛ばされました」
「……なんだかんだ言って、いい友達なのね、ウェル。偉そうなところは腹が立つけど」
「はい。彼は悪態をつきながらも、落ちこぼれの僕を心配してくれています」
その言葉に、どうにも引っかかるものを感じた。考えるより先に、口が動く。
「ねえ、一つお願いがあるのだけれど」
「はい、なんでしょう?」
「その『落ちこぼれ』っていうの、なしにしましょう」
そう言い切ると、ルクスは状況が理解できていないという顔で目を見張る。
「でも僕が落ちこぼれなのは、ただの事実ですよ」
「事実であろうがなかろうが関係ないわ。あなたのことを悪く言う言葉を、聞きたくはないの。たとえあなたの口からであってもね」
少し強めに言い放つと、ルクスは一瞬目を見張り、それから小さく笑った。苦笑のような、泣き笑いのような、でもとても嬉しそうな笑いだった。見ていると胸がぎゅっと苦しくなる。
「……分かりました。善処してみます」
すっかりしんみりとしてしまった空気を変えようと、ドレスのすそをつまんでくるりと回ってみせる。わざとらしいくらい明るい声で、すらすらと言う。
「それにしてもこれ、本当に素敵なドレスよね。せっかくだから他のドレスも、こんな風に作り変えてくれないかしら。できれば全部。あと、靴も」
「全部のドレスと、あと靴もですか?」
「ええ。やたらときつくておまけに脱げやすくて、どうやってもちょこちょことしか歩けないあのいまいましい靴を何とかしてくれたら、とっても嬉しいわ」
「はい、それはもちろんですが……いいのですか? 貴女が家から持ち込んだドレスを、全て変えてしまうなんて」
「いいのよ。あなたとの新しい人生に、新しいドレス。ぴったりだと思わない?」
にっこりと笑って、そう尋ねる。ルクスは若葉色の目を丸くして、私を見つめている。思いもかけない問いに、うまく返事ができずにいるらしい。
そんな彼に、小声で打ち明ける。今まで誰にも話したことのない、私の思いを。
「私、きつくて苦しいドレスにどうしても慣れることができなかったの。普通の令嬢なら、みんな当然のように着ているのに。……ずっとそのことを、後ろめたく思っていた。普通になれれば良かったのにって、ずっとそう思ってた」
いつもお母様は、私を叱っていた。私のことが憎くてそうしていたのではない。むしろ、私のことを思ってくれていたのだ。けれどそれが分かっていてなお、私はお母様の言葉に従うことができなかった。ごく普通の令嬢として生きることができなかった。
「でも、あなたはこうやって、私に苦しくない素敵なドレスをくれた。とっても素敵な、私のためのドレス」
とびきり柔らかく、うっすらと透けた布がゆるやかに垂れ下がった、とても変わった形なのに驚くほど優雅なドレス。その全体にさっと目を走らせて、言葉を続ける。
「私はこのドレスを、誇りに思うの。だって、大好きな旦那様がこしらえてくれたものだから。このドレスでなら、私、前を向いて堂々と歩いていける気がする」
「……でも、その格好を良く思わない人もいると思いますが……せめて一着くらい、普通のドレスを残しておいても……」
「それこそ、私たちからすれば願ったりじゃない。あそこの侯爵家の嫁はろくでなしだ。そんな噂が立てば、あなたも落ちこぼれだなんて言われなくなるわ」
あっけらかんとそう答えてみせたものの、ルクスは目を伏せてうつむいてしまった。
「貴女が、ろくでなし……覚悟したとはいえ、やはり少々……こたえますね」
ああ、やっぱり彼はとても優しい。自分が落ちこぼれ扱いされることよりも、私が悪く言われることのほうを心配してくれている。
彼を好きになって良かったと、心からそう思う。彼が私の夫だということが、いてもたってもいられないくらいに幸せだった。
「私にどんな噂が立っても、あなたは一緒にいてくれるのでしょう?」
「はい、もちろんです」
今度の問いには、すぐに答えが返ってきた。はにかんだように微笑みながら、ルクスはふわりと腕を差し伸べてくる。次の瞬間、彼は私を優しく抱きしめていた。
「……僕が貴女を妻とした理由は、ひどいものでした。貴女になじられても、僕は反論できません」
ルクスが何か言っている。しかし私はそれどころではなかった。思いっきり抱きしめ返したい、でも恥ずかしい、そんな思いの間で板挟みになっていたのだ。
「けれど、貴女が許してくれるのなら、僕はずっと貴女のそばにいます。まぶしい貴女の一番近くで、ただ貴女だけを見つめています」
なんだか褒められている気がする。でも私はそれどころではなかった。全身で感じるルクスの体温が切なくなるくらいに愛おしくて、頭が真っ白になっていたのだ。
結局私はがちがちに固まったまま、嬉しそうに笑うルクスの声を聞いていた。




