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12.ひとまずこれで一段落、かしら?

 ルクスは、迷っているようだった。他人を不幸にしたくはない。けれど、人に堕ちるという不名誉な結末を迎えたくもない。


 だったらここは、私が一肌脱ぐべきだろう。というか、そうしたい。


「ひとまず、ルクスは私を堕落させていくってことでどうかしら」


 明るくそう言い放つと、二人ともけげんな顔で固まってしまった。仕方がないので、さらに説明を続ける。


「私はもともと、令嬢とは思えないほど気ままにふるまっていたでしょう? あれをもっと徹底して派手にやれば、それは私が堕落した、ということになるんじゃない?」


「……まあ、筋は通っているかもな。お前の悪名が国中に広がるくらいやらかせば、おそらくは大丈夫だろう」


 先に立ち直ったらしいウェルが、眉間に深々としわを寄せて答える。


「そう? だったら私、頑張って好き勝手やるわ。これならルクスは私を堕落させることだけに集中すればいいし、私は楽しく過ごせるし。我ながら、いい案だと思うの」


 実のところ、この案が通ればルクスはずっと私だけを見てくれるんじゃないかという、そんな打算もあった。そしてウェルにはそんな考えはお見通しだったらしく、愉快そうににやりと笑っていた。


 余計なことを言ったら容赦しないわよ、とばかりにウェルをにらみつけ、さらに言葉を続ける。


「でも今までみたいにルクスが一方的に甘やかすんじゃなくて、これからは……二人一緒に色々なことを試していければいいなって……そのほうが私も、嬉しいし」


 言いながら、上目遣いにルクスを見る。彼はまだぽかんとしていたが、その若葉色の目にはゆっくりと理解の色が浮かび始めていた。


「ただそうすると、ルクスも悪く言われるようになってしまいそうで、それはちょっと良くないかとも思うし……私のほうはもう悪い噂が立っているから、今さらどうでもいいのだけれど」


「いいえ、構いません」


 ルクスはきっぱりと首を横に振る。その顔に、もう戸惑いはなかった。


「僕は、貴女の提案に乗ります。貴女がそこまで僕を気遣ってくれたんです。僕は、その思いにこたえたい。その、僕たちは……夫婦なのですから」


 照れくさくなったのか、ほんのちょっぴり頬を染めてルクスが目をそらす。そんな表情も、とても愛おしい。


「僕はこれから、貴女を全力で堕落させていきます。二人一緒に、甘く優しく幸せな沼に、堕ちていきましょう」


 見守る私の目の前で、ルクスはくすりと笑う。さっきの照れ顔とは打って変わった妖艶な笑みに、思わず息を飲んだ。


「え、ええ。その、よろしく」


 あからさまに動揺している私を鼻で笑い飛ばして、ウェルが肩をすくめた。


「どうやら決まりのようだな。というか、結局のところ大体は今まで通り、か。なんとも拍子抜けだ」


「拍子抜けって?」


「普通の人間なら、悪魔の真の姿を見た時点で腰を抜かすぞ。それがまあ、平気な顔をしてべらべら喋ったあげく、俺たちに提案してくるとはな。天使の加護持ちとはいえ、図太いことだ」


「でもそんなところも、彼女の魅力なんです。優柔不断で迷ってばかりの僕と違って、しっかりと自分を持っているところが」


「ルクス、あなたが迷うのは、あなたが優しいからよ。相手のことを思うからこそ、強く出ることができない。私も少し、見習わないとね」


 そうやってかばい合う私たちに、ウェルは白けた目を向けている。


「……仲が良いことだ。あーあー、大いに結構だ、まったく」


 大げさに顔をしかめ、ちろりと舌を見せている。そんな表情でも魅力的に見えるのは、さすが悪魔といったところか。少々腹が立つが。


「俺はもう休む。明日の朝一番に、勝手に帰る。じゃあな」


 言うだけ言って、彼は屋敷の中に向かっていった。彼の頭に生えていた角は、また唐突にかき消えていた。




 ウェルを見送ってからしばらく、私たちは何となくバルコニーにたたずんでいた。


「……その、もう少しだけ話したいんです。僕の部屋に来ませんか」


 はにかんだような笑顔で、ルクスが言う。その頭にはもう角はない。綺麗な角だったのにな、とそんなことを考えながらうなずく。


 二人でルクスの部屋に向かい、勧められた椅子に腰を下ろした。ルクスもテーブルの向かいにある椅子に座って、まっすぐに私を見つめる。


「さっきは、ありがとうございました」


「ええと、あの提案のこと?」


「はい。……あそこまで僕のことを気にかけてくれるなんて、思いもしませんでした。僕は貴女を、ずっとだましていたのに」


「でもあなたは、そのことで苦しんでいたでしょう? あなたの態度がおかしいことには、私も気づいていたのよ」


 微笑みながらそう指摘すると、ルクスは恥ずかしそうに肩をすくめた。


「駄目ですね、僕は本当に未熟です。最低限の演技すらできなかったなんて」


「駄目じゃないわ。さっき、ウェルから守ってくれたじゃない。あの時のあなた、とても格好良くて……あんな状況なのに、見とれてしまったの」


 さっきから色々あって少々興奮していたせいか、つい本音をそのまま語ってしまった。それを聞いたルクスが、あわてて首を横に振る。ひまわり色の髪からのぞいた耳の端が、ちょっぴり赤かった。


「あっ、あれは……貴女がひどい目にあうのは嫌ですから……その、必死で……ちょっとお恥ずかしいところを見せたかもしれません」


「だから、恥ずかしくなんてないわ。とっても素敵だった。あなたはやっぱり優しいのねって思ったもの」


 そう言ってから、これは失礼に当たりはしないかとふと疑問になる。悪魔とは人間を不幸にする存在なのだと、ウェルはそう言っていた。ならば悪魔にとっては、優しいというのは褒め言葉にならないのではないか。そう思ったのだ。


 けれどルクスは全く気を悪くした様子はなく、背筋を伸ばしてきっぱりと言い切った。


「ありがとうございます。褒められるのは、やはり嬉しいですね。……僕は、大切な、最愛の妻を守りたいと思いました。僕は悪魔で、貴女は人間です。それでもやはり、僕は貴女を守りたい」


 その清々しいたたずまいに、思わず見とれる。やっぱり彼が悪魔だなんて、似合わない。誰かを不幸にするなんて、絶対に似合わない。


 そんな思いを込めて、呼びかける。自然と、優しい笑みが浮かんでいた。


「……ねえ、ルクス」


 ルクスは不思議そうな顔でこちらを見ている。急に私の声音が変わったことに、戸惑っているようだった。


「私たち、実は似た者同士なのかもね?」


 彼の若葉色の目が真ん丸になった。突然のことに、話が飲み込めていないらしい。


「私は淑女たれと育てられて、でもどうしてもその通りに生きられなくて、家を追い出された。あなたは悪魔として、人間を堕落させ、不幸にしなくてはいけない。けれどあなたはとても優しいから、そうすることをためらってしまっている」


 生まれながらに定められた生き方を投げ捨てることも、おとなしく従うこともできない宙ぶらりんな私たち。そんな共通点のせいか、私は今まで以上にルクスに親しみを感じていた。


 手を伸ばして、テーブルの向かいに座っているルクスの手を取る。彼が戸惑うように身じろぎしたが、お構いなしに彼の手をしっかりと握りしめた。


「私、あなたのことが好き。……その、初恋なの。今まで縁談がいくつも持ち上がって、何人もの男性と会ってきた。でもこんな風に、苦しくなるほど胸が高鳴るのは、あなただけ。動きを目で追わずにいられないのも、あなただけ」


 バルコニーでの告白は、しどろもどろになってしまった。だから一度、きちんと思いを伝えておきたかったのだ。


「アウロラ……僕は、悪魔ですよ?」


「悪魔とか、人間とか、そんなことは関係ないわ。私が好きになったのは、今目の前にいる人なの。あの山小屋まで私を迎えに来てくれた、私と一緒に寝転がって空を見上げてくれた、ルクスなの」


「そう、ですか……やはり、貴女を妻として良かった」


 ルクスが身を乗り出し、今度は私の手を自分の両手でしっかりと包み込む。


「僕は、貴女の強さをうらやましいと思っていました。貴族として、淑女として生きることを強いられながらも、それでも自分の道を貫く貴女は、僕には輝いて見えたんです」


「ルクス、私は無作法な令嬢よ? まともな貴族なら、目をむくくらいに。そんなたいそうなものじゃないわ」


「僕も、まともとは言いがたいですから。ともかく、貴女の生きざまは僕の胸を打ったんです」


 ふわりと笑うルクスの笑みは、ひとかけらの曇りもなく澄んでいた。


「……僕は貴女のご両親に、貴女に一目惚れをしたのだと嘘をつきました。ですが実のところ、それは嘘ではなかったのかもしれません。ただ、貴女と初めて会った場所が、少しばかり違っただけで」


 その言葉に、どきりと胸が高鳴る。嬉しさに、そわそわしてしまう。


「どうかこれからも、よろしくお願いします。僕のために、そして貴女のために」


「ええ、頑張りましょう。二人一緒なら、怖いものなんてないわ」


 どちらからともなく立ち上がり、歩み寄る。二人で並んで立ち、互いの顔を見る。


 私には、ルクスの優しい笑顔が見えている。ひまわり色の金髪に、若葉色の目。ルクスは、私のすみれ色の目をまっすぐに見ている。私が身じろぎをすると、結い上げていないミルクティー色の髪がさらりと揺れるのが目の端に見えた。


 もう一度手を取り合って、にっこりと笑う。ここから、私たち夫婦の道が始まるのだ。


 一筋縄ではいかないだろうけれど、きっと幸せな道にしてみせる。堕落したって、きっと幸せはつかめる筈だ。


 微笑みながら、私はそんな決意を新たにしていた。

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