11.さらに事態はややこしく
ウェルは悪魔としての力、魔法のようなものを使い、私からこの夜の記憶を奪おうとした……のだと思う。たぶん。
めまいを起こしてぐらりとよろめく私を、すかさずルクスが支えようとした。けれど私はすぐに体勢を立て直して、自分の足で立つ。
「……何だと?」
「どういうことなのでしょうか……」
そんな私を、ウェルとルクスが呆然と見ていた。ウェルはさっきまでの不敵な笑みが嘘のようなぽかんとした顔で、ルクスはしきりにまばたきしながら。
「まったく、いきなり人の頭をつかまないで。あと、忘れろとか眠れとか言ってたみたいだけど、おあいにくさまでした」
どうやら、魔法は失敗したらしい。ウェルが大いにうろたえている。そのことがちょっぴり嬉しくて、胸を張って言った。
きっと彼はすぐに魔法をかけ直してくるだろうし、だったらその前に少しくらい威張ったって、ばちは当たらないだろうと思ったのだ。
しかし予想に反して、ウェルはルクスを連れて数歩下がり、顔を突き合わせてこそこそと話し合い始めた。
「もしかして、これは……」
「その可能性が高いとは思いますが……」
私をほったらかしにして、二人は何やら相談している。やがて、ウェルがこちらに歩み寄ってきた。険しい顔で、私に指を突きつける。
「ラ・ウェル・ナの名において命ずる、ひざまずけ」
前置きもなく、ウェルはそんなことを言い放った。背中が少しむずむずしたけれど、堂々と立ったまま彼を見つめてやった。彼の顔色が変わる。
「ならば、これはどうだ」
そう言って、彼は手を私の顔の前に突き出してきた。とたんに、むせかえるほど強烈な甘い匂いが顔に叩きつけられる。辺りに漂っているものと同じ匂いだが、はるかに濃厚だ。
こほんこほんと小さくせきこんでいると、ウェルが絶望したような表情を浮かべた。頭を抱えて、よろよろと後ずさっている。
「……眠りの霧が、まったく効いていない……」
ようやくせきが止まった私の前に、今度はルクスが進み出てきた。優しく私の両肩に手をかけて、穏やかに言う。
「オ・ルクスの名において命じます。ここは春の野ですよ。風に散る花びらが、見えますか?」
一瞬だけ、見えた。可愛らしい花が咲き乱れる野原と、そこに立つ大きな木。その木はあふれんばかりに花をつけていて、優しいそよ風に花びらが舞っている。
素敵な光景がすぐに消え去ってしまったことを惜しみながら、ルクスに尋ねる。
「……まあ……見えたわ……今のって、魔法?」
「はい、そうです」
「すっごく素敵な光景だったわ。そんなこともできるのね」
私とルクスが見つめ合ったまま、どちらからともなく微笑む。甘い空気に、またウェルの声が割り込んできた。
「まさか、天使の加護持ちにこんなところで出くわすとはな。くそっ、いまいましい」
また知らない言葉が出てきた。悪魔がいるのなら、天使がいてもおかしくないのかもしれない。首をかしげる私に、ルクスが笑いながら説明してくれた。
「ごくまれに、悪魔の魔法を無効化してしまう人間がいるんです。僕たちはそんな人間のことを、天使の加護を持つ者、と呼んでいます」
「天使なんてものが本当にいるのかどうか、俺たちも知らないがな。よりにもよって、こいつが……」
黒髪をかきむしりながらぶつぶつと悪態をついているウェルを無視して、ルクスに尋ねる。
「でも、さっきのあなたの魔法は効いたわ」
「悪意のないものだからだと思います」
「おい、ルクス。のどかに喋っている場合じゃないだろう」
この場でただ一人、ウェルだけがずっといらだっているようだった。
「俺にはこいつの記憶を消せない。悪魔なんて話を真に受けるやつはそうそういないだろうが、それでも言いふらされたら面倒なことになりかねない」
ウェルが一歩、私のほうに近づいてきた。その漆黒の目に浮かぶ剣呑な色に、思わず後ずさりする。
「……効かないのは魔法だけだ。力ずくなら、どうとでもできる」
すかさずルクスが、私とウェルの間に割って入った。私を背にかばって、厳しい声で問いかける。
「ウェル、何をするつもりですか」
「決まっているだろう。口封じだ。お前は新しい妻を探せばいいだろう。もっと堕落させやすそうな、ごく普通の女を、な」
「させません」
ルクスの声は、いつになく力強いものだった。いつもの柔和な雰囲気をかなぐり捨てたその声音に、ウェルが目を見開く。
「アウロラは僕の大切な妻です。貴方が彼女に危害を加えるというのなら、僕は全力で抵抗します」
「……落ちこぼれのお前が、俺に勝てるとでも?」
「勝ちます。彼女のためですから、負けられません」
私から見えるのは、ルクスの背中とウェルの顔だけだ。けれど、二人の間の空気が異様に張りつめていることはすぐに分かった。
ウェルはルクスを見すえたまま、微動だにしない。夜の闇よりも黒いウェルの髪と、この暗がりでもなおきらきらと輝くルクスのひまわり色の髪が、こんな状況にはふさわしくないほど美しく見えた。
「……ちっ」
わざとらしくため息をついてから、ウェルが舌打ちをした。私が言えた筋ではないが、なんとも行儀が悪い。
「おいアウロラ、俺たちの正体について、絶対によそでべらべら喋るなよ。もし喋ったら、その時は遠慮なく口を封じるぞ」
「言わないわよ。言ったところで、まず信じてもらえないし。それに、ルクスに迷惑をかけたくないもの。……あなたには迷惑をかけてやりたいと思わなくもないけれど」
ふてぶてしい態度で低くうなるウェルに、ぽんぽんと言い返す。どうやら、この件については片付いたようだとほっとしながら。
しかし、ウェルはさらに言い返してきた。
「ルクスのため、か……だったらお前は、そいつのために堕落してやれるのか?」
「ウェル、その件についてはもういいんです。僕はまた、別の方法を考えますから」
「そう言って、二十年も無駄にしたのは誰だったか?」
その言葉に、ルクスはうなだれる。また話についていけなくなった私に、ウェルが言った。
「さっき、俺たちは人間を堕落させ、破滅に導く存在だといっただろう。人として生まれ、死ぬまでの間に、一人でも多くの人間を不幸にする。それが俺たちの使命だ」
こくりとうなずく。ただ聞いた感じでは、まだルクスは誰のことも不幸にしていないようだった。だからこそ、落ちこぼれなどと言われているのだろう。
「だが人としての一生の間に誰も不幸にできなかった場合、そいつはもう悪魔ではいられなくなる。ただの人として、そのまま死んで終わりだ。俺たちはそれを『人に堕ちる』と呼んでいる。もっとも、実際にそうなった悪魔の話を聞いたことはないがな」
ウェルの目線が、うつむいたままのルクスに向けられた。
「人に堕ちるのはこの上なく不名誉なことだ。その名はいつまでも、悪魔たちの間で語り継がれるだろう。愚か者としてな。……俺はルクスに、そんな目にあって欲しくない」
ずっと尊大な響きに満ちていたウェルの声に、ほんの少しだけ悲しげな色がにじむ。
正真正銘人間である私からすると、人間として死を迎えることがそんなに恐ろしいことのようには思えなかった。けれど悪魔である彼らにとっては、重要なことなのだろう。
ルクスは優しくて、善良だ。彼と出会ってからの日々を思い出す。
最初は私のことをひたすら甘やかしてきた彼が、日に日に悲しげな表情をするようになっていた。柔和な笑顔が、仮面のようにこわばっていった。
あれはきっと、罪悪感の表れだ。彼の事情を知った今なら分かる。
甘やかして私を堕落させようとしたものの、一緒に過ごすうちに情がわいてきて、だますような真似をしていることが辛くなったに違いない。そして、そんな気持ちを隠し通すことすら、彼にはできなかった。
そんなにも優しい彼が、誰かを不幸にする。どうにも、無理難題のようにしか思えなかった。しかしそれをやりとげなければ、彼は悪魔ではなくなってしまう。
次々と知らされる事実に戸惑いながら、ルクスの顔をのぞき込んだ。
「ルクス、あなたは……人に堕ちたくはないのね?」
「正直言って……分からないんです。誰かを不幸にするのは、恐ろしくて……」
しょんぼりとした声で、ルクスが言う。けれど彼はすぐに、顔を引きしめた。
「でも、僕だって悪魔のはしくれです。何もなせないまま終わるのは、さすがに情けないと……そうも思うんです。自分でも矛盾しているとしか思えないんですが、これが偽りない本心です」
その言葉に、ウェルがまたため息をつく。しょうがないな、という気持ちと、ルクスのことを心配している気持ちがごちゃ混ぜになったようなため息だった。
そんな二人を見つめ、大きく息を吸う。ひとまず、私の答えは決まった。
「二人とも、ちょっと聞いて欲しいの」
漆黒と若葉色の二組の目が、同時にこちらを向いた。戸惑う二人に笑いかけ、さらに口を開いた。




