第7章:浜辺の離岸流
痛み指数:[Pain Scale: ■■■□□□□□□□ 3/10]
ステータス:Oceanic Drift(離岸流による強制デバッグ)
幼少期の私は、プールや海はもちろん、ちょっとした水遊びさえ禁じられていた。その反動だろうか、私にとって「海」は未知の冒険が詰まった最高の聖域だった。
夏休み、両親の車で遠くの海岸へ連れて行ってもらう時間は格別だった。泳ぎはまるでダメだったが、海の家で借りた分厚い「タイヤチューブ」の浮き輪に身を預け、ぷかぷかと波に揺られているだけで、私の世界は晴れやかに広がった。
太平洋の開放感も良かったが、父の帰省ついでに訪れる日本海も印象深かった。近くの岬が「自殺の名所」だと教えられてからは、子供心に薄気味悪さを感じもしたが、太平洋に比べて海はどこまでも澄み渡り、浜辺には見たこともない生き物たちが息づいていた。
あの日も、絶好の海遊び日和だった。 いつものように浮き輪で波にまかせて漂っていた時のことだ。突然、何者かに足を思い切り引っ張られ、私の体は水中へと引きずり込まれた。 異変にいち早く気づいたのは、近くを泳いでいた父だった。彼は猛烈な勢いで助けに向かってきた。
……なぜ、バタフライなんだ?
溺れながらも、父の豪快な泳法を冷静に観察していた。緊急事態にバタフライを選ぶ父のセンスに疑問を抱きつつも、なんとか救助された私は、父から「危ないから浜辺で遊んでいろ」と厳命された。しぶしぶヤドカリを捕まえながら、足首を濡らす程度の「安全な水遊び」に興じていたのだが……。
本題はここからだ。私はなぜか、その「安全なはずの浜辺」で溺れることになった。
突如として、背後から巨大な波が私を飲み込んだ。凄まじい流速で、私の体は一気に沖へと運ばれていく。
うわあ! なんだこれ!
何が起きたのか理解が追いつかない。だが、直感した。このままでは確実に死ぬ。 私をさらった犯人は、当時はまだ名も知られていなかった「離岸流」というやつだ。突然現れるその死の奔流に、私はピンポイントでたまたま捕まってしまったのだ。「たま」には縁があるのだ。
うん、これは溺れるな。
不思議なほど冷静だった。周囲には誰もいない。頼みのタイヤチューブもない。 愛用していたスイカ模様のビーチボールが、視認できないほどの速さで水平線の彼方へと流されていく。
あいつとは、今日でお別れか……。 長年連れ添った相棒を見送るような、寂寥感に満ちた気持ちでボールの行方を眺めていた。
だが、しばらくしてある事実に気がついた。 あれ? ……苦しくない。 さっきは溺れたのに、今はなぜか体が沈まない。わけがわからないが、ふと閃いた。いっそ、潜ってみよう!
大きく息を吸い込み、海中へ。澄んだ水の向こうに海底が見えた。砂地だ。 カニ、発見! 私のテンションは一気に跳ね上がった。死の恐怖はどこへやら、私はカニを捕まえることに全神経を集中させた。海面で息を継ぎ、再び潜ってはカニを追う。数回のトライの後、ついにその獲物を仕留めた。砂浜で見かけるのとは明らかに形が違う、立派なカニだ。
興奮気味にカニを握りしめ、海面に浮上した。 太陽が眩しい。目が痛い。 目を見開いて潜れば海水が染みるのは当たり前だが、当時の私は、次からはゴーグルをつけようと、海との友情を深めた達成感に浸っていた。
最高だ! 気持ちいい!
顔を水面に出し、ふと浜辺を見ると、カニを追っているうちにいつの間にか岸に近づいていた。足がつく。 悠々と歩いて浜に戻ると、そこには黒山の人だかりができ、騒然とした空気が漂っていた。
「子供が溺れたぞ!」
「誰か救助を!」
大人たちが叫んでいる。どうやら一大事のようだ。
やはりな。得体の知れない何かに足を引っ張られたり、突然沖へ流されたり、この海には「何か」がいるのだな。 私はテレビのミステリー特番のレポーターのような気分で、他人事のように海を振り返った。
――騒ぎの主役が自分であることに気づくまでは。
どうやら、私が沖へ流され、そのまま海中に消えていく姿を目撃した人がいたらしい。姿が見当たらない我が子に、両親は最悪の事態を覚悟し、半狂乱になっていた。
そこへ、珍しいカニを掲げて、「これ、凄いでしょ!」と何事もなかったかのように現れた息子。
私は輝かしい冒険譚を語り始めたが、両親からは言葉にならない怒りの鉄拳を食らった。一方で、兄からは「お前、すげえな」と称賛を浴びた。結果として、私の中では大満足の海水浴となった。
残念なのは、この一件以来、二度と海に連れて行ってもらえなかったことだ。 少年時代の海遊びの記憶は、この「死の淵でのカニ捕り」を最後に途絶えている。
理由は……まあ、聞くまでもないだろう。




