第6章:教室の闇市場
痛み指数:[Pain Scale: ■□□□□□□□□□ 1/10]
ステータス:Underground Dealer(教室の非公認ディーラー)
小学4年。理科の授業開始を告げるチャイムまで、あと数分。そこは学び舎ではなく、欲望が渦巻く「取引所」へと変貌していた。
教室の後方で、キッズたちが群がって何やら熱狂的にわめいている。「これをくれ」「セットで頼む」「安くしろよ」。その必死な背中からは、焦燥と汗の入り混じった、資本主義の初期衝動のような匂いが漂っていた。また厄介なトラブルの予感はしたが、この「禁じられた祭典」の魔力に、私の中の野次馬根性が抗えるはずもなかった。
何だ、新作のゲームか? エロ本か? いや、もっとヤバいものか?
「豆電球だ」「乾電池だ」「セット一式、早くしろ! 先生が来ちまう!」
人垣の中心にいたのは、前山だ。彼はどこから仕入れたのか、実験に必須の小物を堂々と売り捌いていた。それも、学校前の文房具屋へ走っても間に合わない「絶体絶命のデッドライン」を狙い撃ちした、エグいプレミア価格で。理科の実験という不可避のイベントを商機に変える……物静かな男だと思っていた前山への評価が、私の中で「ただの同級生」から「愛すべきならず者」へと跳ね上がった。
(こいつ、最高にキレてる……!)
感心して覗き込んでいると、座ったまま注文書(という名の借用書)を捌いていた前山と目が合った。
「桜、ちょうどいいところに来た。計算が追いつかないんだ。お前、暗算が得意だろ。このノートに記録してくれ」
なりゆきで、私は闇市場の「レジ係」を担うことになった。心拍数は黒板の上の時計より速く刻まれる。禁忌に触れる指先の震えは、恐怖というよりは、いや、これは武者震いのような高揚感だった。
「前山、豆電球はいくらだ? ソケットは?」
「ここに書いてある。名前と金額をノートにつけてくれ。頼んだぞ」
なるほど、現ナマを持っているガキなどこの場にはいない。これは「借金の証文」だ。明日、この帳簿を元に、彼は確実に債権を回収するつもりなのだ。10歳にしてこれほどのサブスクリプション並みの回収システムを構築するとは、恐ろしい男である。
皮肉なものだ。豆電球のフィラメントが放つ、弱々しいオレンジの光。私の不自由な左目には、その輝きは境界線を失ったぼやけた光の塊としてしか映らない。そんな私自身が正しく認識さえできない「光」を、まさか売ることになろうとは。神様もなかなか粋なジョークを飛ばしてくれる。
「おい前山、先生が来たらどうする。俺も共犯だぞ」
焦燥に駆られ、私は黒板の上の時計を仰ぎ見た。秒針が無情に垂直へと近づいている。
その時だ。時計の真下、「正義の味方」気取りの委員長と目が合った。
彼女は輪に加わることも、止めることもできず、ただ強張った表情でこちらを凝視していた。その目は、規則を破る者への純粋な怒りというよりは、「秩序が崩壊していくことへの生理的な恐怖」に怯えているように見えた。彼女にとって、前山の商売は教室という神聖な揺りかごを汚す、理解不能なウイルスに映ったのだろう。
「前山、やばい、先生が来る!」
「落ち着け、桜」 前山は眉一つ動かさない。
「見られても平気だ」
「なぜだ?」
「今は金を受け取っていない。忘れ物した奴らに、親切に『貸した』だけだからな」
……絶句した。そこまで計算済みか。私の暗算能力なんて、こいつの狡猾なロジックの前ではただのオモチャに過ぎない。
教室の闇市事件はどういうわけか私が「首謀者」ということになっていて、放課後職員室でたっぷり絞られた。 「あんな外道なことをするのは桜しかいない」 あの時時計の下で震えていた委員長が、絞り出すような声で担任にデマをチクったせいだ。彼女にとって、前山は「排除できない恐怖」だったが、私は「叩きやすい異物」だったわけだ。
だが、その濡れ衣を晴らそうとは微塵も思わなかった。私は、自分の中に芽生えた「闇市の共犯者」というポジションに誇りすら感じていたからだ。
この闇市をきっかけに、私は前山と放課後を共にするようになった。夜になると家を抜け出し、カブトムシを捕りに林へ向かう。懐中電灯が描き出す円形の光のほかは、すべてを飲み込むような圧倒的な「真の闇」が支配する世界。それは、昼間の教室で見せた彼の「闇」と地続きであるように思えた。
私は、見つけたクワガタを帽子の縁に大事に収納し、その漆黒の翅や角の造形に、無邪気に酔いしれていた。だが、隣を歩く前山は違った。
彼は虫かごを4つ持参し、獲物をテキパキと選別して別々のかごに放り込んでいく。「これはSランク、これは売り物にならないBだ」。その手つきは、もはや密猟者のそれだった。
「前山、その大量の虫をどうする気だ?」
「当たり前のことを聞くな。街のペットショップへ卸すんだよ」
やはりな。お前なら、道端に落ちている小石にさえ、もっともらしい付加価値をつけて売り抜けるだろう。
当時の私は、この「普通じゃない」感覚を共有できるのが、何よりも心地よかった。不条理な痛みばかりが続く私の人生において、前山との出会いは、最高に不道徳で、最高に刺激的な「麻酔」だった。
後日談だが、彼がなぜそこまで「数字」と「対価」に執着し、成人してから、なぜ迷走するように宗教の門を叩き続けたのか。仏教から新興宗教、キリスト教を経て、厳格な神職の資格を得ながらも、結局はその座を捨てて地元の小学校の特殊学級の補助に収まった。その支離滅裂な遍歴を、私は今も「理解」できていない。
だが、それでいいのだ。 彼が私の中で「親友」という唯一無二の座を占めているのは、彼が理解可能だからではない。むしろ、その逆だ。彼は、社会が用意したどんな「正解」の型にもはまらない、絶対的な他者であり続けている。
常日頃、連絡を取り合うような仲ではない。しかし、私が仕事の不条理に押し潰されそうになったり、人生のデバッグに失敗して途方に暮れていると、彼はどこからともなく現れる。 「駅前のカフェ、新しい豆が入ったらしいぞ」 そんな、どうでもいい誘い文句とともに。
彼は私の痛みを分析しないし、安っぽい言葉で癒やそうともしない。ただ、あの闇市とは異なる穏やかな目で、ぼやけた私の視界の隣に座っている。その「理解不能な男」がもたらす、根拠のない安らぎ。
不条理な痛みばかりが続く私の人生において、前山との出会いは、最高に不道徳で、そして最高に「救い」に満ちたバグだったのだ。
……まあ、そんな綺麗な話で終わらせるつもりはない。
結局、あの日職員室で怒鳴られた私の横で、彼はちゃっかり「善意の貸主」として先生に褒められていたわけだから。
本当、食えないヤツだ。




