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<完結済み> やさしい記録のつくり方  作者: スフィーダ


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第05話 残したいものの順番

第05話 残したいものの順番


 夕方の六間道は、昼間に比べて音の数が減っているはずなのに、その減り方が均一ではないせいか、静かになったという実感だけが先に残り、どこがどう変わったのかはうまく言葉にできないまま通りの奥へと広がっていく。

 通りの半分ほどは相変わらずシャッターが閉まったままで、開いている店の前にだけ人の気配がわずかに集まり、その周囲だけがかすかに動いているが、少し離れればまた同じような空白が続き、全体としては何も起きていないようにも見える。

 西から差し込む光が床の上を長く引き延ばし、店先の段差や置かれた箱の影を歪ませながら通りの奥へと流していくが、その影がどこで途切れているのかは分からず、変化は確かにあるはずなのに、それがひとつの流れとして繋がることはないまま、断片としてそこに置かれている。


 僕は机に向かい、ノートを開いたまま手を止めていた。

 前のページには、書かなかったことについての記録が残っているが、それは内容というよりも、むしろ”書かなかった”という形そのものとして目に入ってくるもので、そこに書かれていない部分のほうが、書かれている言葉よりも強く意識に残る。

 ノートの余白に視線を落とすと、何も書かれていないはずの空白に、確かに何かがあったような感覚だけが残っていて、それに言葉を与えようとするとすぐに輪郭が固まり、扱いやすい形になってしまうが、その瞬間に最初にあった曖昧さは失われていく。書くという行為が、残すことと同時に何かを捨てることでもあるという事実を、ここ数日でようやく自分の感覚として理解し始めていた。


 

 入口のベルが鳴り、その意識が外側へと引き戻される。

 顔を上げると、年配の女が戸口のところに立っていた。入ること自体には迷いがないように見えるが、店の中へ一歩踏み込んだあとで動きが止まり、室内をひと通り見渡してから僕の手元にあるノートへ視線を落とし、その順番にわずかなためらいが混じっているのが分かる。


「ここ、書いてくれるとこやんな? 話したこと、そのまま残してくれるんやろ?」


 やわらかい神戸の言い方で、確かめるというよりは、すでに知っていることをなぞるような調子だった。


「はい。話を聞いて、それを記録として残します。内容は、できるだけそのままの形で書きます」


 そう答えると、女は小さくうなずいて椅子に腰を下ろし、手を膝の上に置いたまま少しだけ間を置く。その仕草には落ち着きがあるが、何かを持ってくるつもりだったものを手放してきたような、わずかな空白が残っているようにも見えた。


「順番が分からんようになってもうてな。何から話したらええんか、ほんまに分からんのよ」

「順番ですか?」

「うん。どれも繋がっとる気がするんやけどな、全部言おうとしたら、どこから始めたらええんか分からんようになるねん。前のこと言うたら、その前が気になるし、後のこと言うたら、その間が抜けてる気がしてな」


 言葉は続いているが、整えられているわけではなく、思い出したものをそのまま手に取るように置いていく感触がある。


「順番は決まっていなくても大丈夫です。話しやすいところからで構いませんし、途中で戻っても、そのまま書きます」


 そう伝えると、女は少しだけ視線を落として考え、それから小さく息を吐いた。


「ほな、最後から言うわ。この前な、人が一人、亡くなってな。急やったわけでもないんやけど、聞いたときに、ああそうなんやって、それだけしか思わんかったんよ」


 声の調子は変わらないまま続く。


「近い人やったんかどうかも、よう分からんねん。毎日会うわけでもないし、家族でもないしな。でも、顔はよう合わせとったし、挨拶もするし、ちょっと話すこともあった。せやから、亡くなったって聞いたときも、悲しいんかどうかが分からんかった。何も思ってへんわけでもないんやけど、ちゃんと悲しんでる感じもせえへんのよ」


 そこで少しだけ間が空き、視線が机の上に落ちる。


「それでな、その人のこと思い出そうとしたんやけど、順番がぐちゃぐちゃになってもうてな。最近のことが先に出てきたり、昔のことが急に混ざったりして、その間に何があったんかが、うまく繋がらへんのよ」


 言葉が少しずつ遅くなり、ひとつひとつを確かめるように続く。


「どれが大事なんかも分からんし、どれも同じくらいに思えてくる。ほんまは違うはずやのに、区別がつかんようになるねん」


 僕はノートを開き、ペンを持つ。


「それを、そのまま残したいということでいいですか?」


 そう聞くと、女はゆっくりとうなずいた。


「ちゃんとした順番にしたいわけやないねん。ぐちゃぐちゃなままやったってことを、そのまま置いときたいだけやねん。きれいに並べたら、たぶん違うもんになる気がするから」


 その言葉で、依頼の形がはっきりと定まる。


 僕は書き始める。順番は整えない。繋がりも補わない。話された通りに、そのまま置いていく。途中で話が飛んでも戻さず、前後を入れ替えず、そのままの順序で並べるように意識するが、書いているうちに自分が無意識に順番を整えようとしていることに気づく。読みやすくしたいという感覚や、意味が通る形にしたいという習慣が先に動き、それが記録としての形を歪めようとしている。


 ペンが止まる。


 

 ――それ、あんたが安心したいだけやろ。


 

 はっきりとした形で浮かんだ言葉は、誰のものか分からないまま、ただその響きだけが残る。


 僕は息を吐き、ペンを持ち直す。整えたい理由は自分の側にある。分かりやすくしたい、意味を通したい、納得できる形にしたいという欲求が、順番を変えようとしている。それは記録ではなく、自分の理解のための整理に近い。


 だから、整えないまま書く。順番は変えない。意味も補わない。途切れたまま置く。それでも、完全にそのままにはならない。どの言葉を残し、どこで区切るかを決めているのは自分で、その選択からは逃れられない。


 書き進めながら、自分が選ばなかった順番が同時に捨てられていることに気づく。別の並び方もあったはずで、違う順序で思い出されていた可能性もあるが、それは書かれず、残らない。残るのは、いまここで自分が選んだ並びだけだという事実が、少し遅れて重さを持つ。


 それでも、手は止めない。そのまま最後まで書き切る。


 書き終えたあと、ノートを閉じ、しばらく手を動かさずに置く。見返せば整えたくなることが分かっているから、そのままにして引き出しを開け、紙を取り出す。ノートの内容をそのまま写すのではなく、残す部分を選びながら書き直すが、ここでも順番を変えないという選択を守り続けることで、ようやく依頼の形に近づいていく。


「できました」


 差し出すと、女は封筒から紙を取り出し、ゆっくりと読み始める。途中で何度か視線が止まるが、戻ることはなく、そのまま最後まで読み終える。


「……ああ、これでええわ。順番は……、そのままやね」

「はい」


 僕が答えると、女は小さく笑い、紙を丁寧に封筒へ戻す。


「こういうの、ちゃんと並べたほうがええんやと思ってたけどな、並べんでも残るもんは残るんやな」

「そうかもしれません」

「ありがとうな」

「こちらこそ」


 女は立ち上がり、そのまま店を出ていく。扉が閉まると、夕方の光はさらに弱まり、通りの空気が静かに戻ってくる。


 僕はノートを開き、整えようとしてやめた跡が残っていることを確かめる。整えることもできたし、整えないこともできた。そのどちらかを選んだのは自分で、その結果だけがここに残っている。


 外では同じ通りが続いている。変わらないように見えながら、少しずつ何かが減っていく。


 順番を持たない記憶は、そのまま残る。整えられることもなく、消えることもないまま、形を持たずにそこにあり続ける。

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