第04話 書かないで欲しいもの
午後の六間道は、時間帯が変わっているはずなのに、その違いが通りの表情としてはほとんど現れないまま続いている。開いている店の前にはわずかに人の動きがあり、買い物袋を提げた人が足を止めることもあるが、その流れが通り全体に広がることはなく、少し先に進めばまた閉まったシャッターが続き、同じような景色に戻る。変化は確かにあるはずなのに、それが積み重なって一つの流れになることはなく、断片のまま散らばっている。そのため、どれだけ時間が進んでも、ここでは何も起きていないように見えるが、完全に止まっているわけでもなく、わずかな差だけが残り続けている。
遠くで金属が触れ合うような音が短く響き、すぐに消える。別の場所から聞こえてきた声も、途中で途切れて形を持たないまま消えていく。音はあるが、つながらない。その状態が続くことで、この場所の時間は連続したものではなく、切り分けられたまま置かれているものの集まりのように感じられる。その断片は重なりきらず、わずかにずれたまま並び続けている。
僕は机に向かい、ノートを開いたまま視線を落としていた。前のページには書き終えた記録があり、その下に余白が続いている。書かれた部分よりも、書かれていない部分のほうが広い。その余白に何があったのかは分からないが、何かがあったはずだという感覚だけが残る。ペンを持たずにその空白を見ていると、書く前の状態に戻っていくような気がして、手を動かす理由を見失いそうになる。書かれていない部分が広いほど、そこにあったものの輪郭だけが強く残る。
それでも、何も書かなければ何も残らないという事実だけは変わらない。
入口のベルが鳴ったとき、その意識が外に引き戻された。顔を上げると、若い女が戸口のところで立ち止まっていた。入ること自体には迷いがないように見えるが、入ってからの動きが止まる。店の中を見回し、机の上のノートに視線を落とし、それから僕のほうを見る。その順番にわずかなためらいがあり、決めてきたはずの動きと実際の動きのあいだに小さなずれが残っている。
「ここ、記録してくれるんですよね?」
「はい、話を聞いて、それを文章として残します」
女は小さくうなずき、椅子に座る。背筋を伸ばし、手は膝の上に揃えられている。何かを持っているわけではないが、持っていないことを意識しているような姿勢だった。その整え方は、さっきの言葉と同じ方向を向いている。
「話すことは決まってるんですけど、どう残すかは決めてません」
「内容を教えてもらえますか」
僕がそう聞くと、女は視線を少し横にずらし、そのまま戻さない。迷っているというより、順番を決めているような間だった。
「書かないでほしいことがあるんです。でも、それも含めて残したいんです」
「『書かないでほしいこと』ですか?」
「はい。書かないっていうこと自体を、残したいんです」
言葉は揺れているのに、条件だけは崩れない。
「書かない部分があることを含めて、記録にすることはできます」
「それでお願いします」
依頼の輪郭ははっきりしているが、その中心は最初から空白として置かれている。
「何を、書かないんですか?」
そう聞くと、女はすぐには答えず、視線を机の上に落とす。そのまま少しだけ間を置き、言葉を選ぶようにしてから口を開く。
「……人のことです。その人のことを書くと、全部変わってしまう気がするんです。でも、その人のことがなかったわけでもないんです。だから、書かないで残したいんです」
言葉は整っているが、その内側にだけ揺れが残っているように感じる。
僕はノートを開き、ペンを持つ。
「話せる範囲で大丈夫です」
そう言うと、女はゆっくりと話し始めた。
「ある場所に通ってたんです。最初は理由もはっきりしてて、ちゃんと意味があったと思うんです。でも、途中から分からなくなって、それでもやめる理由もなくて、そのまま通い続けてました。気づいたら、思ってたより長くて、区切りもつけないまま終わった感じで……」
「その場所には、他にも人はいましたか?」
「いました。でも、どんな人だったかって聞かれると、ちゃんとは言えなくて、全体の雰囲気だけが残ってる感じです」
「通っていた理由は、思い出せますか?」
「最初の理由は分かります。でも、途中からは違ってたと思うんです。ただ、それが何に変わったのかは分からなくて、言葉にしようとすると、どれも違う感じがして」
会話は続くが、中心にあるはずの部分だけが語られない。
僕はそのまま書いていく。語られた部分だけを置く。空白になっている部分には触れない。だが、触れないという判断をしている時点で、その部分の存在は強く意識される。書いている内容よりも、書いていない部分の位置のほうがはっきりしてくる。
書き進めるうちに、その空白が中心になっていることに気づく。書かれている内容は、その周囲をなぞっているだけで、本来あるはずの核には触れていない。それでも、その核を補うことはできない。
触れた瞬間に、それは別のものになる。
途中で手が止まる。
書かないことを前提にした記録は、何を残しているのか分からなくなる。抜け落ちている部分があることで、残っているものの意味が変わる。だが、その抜け落ちている部分を埋めれば、それは依頼とは別のものになる。
どこまでが記録で、どこからが補完なのか。
その境界が曖昧になる。
それでも、書かなければ残らない。
僕は一度息を吐き、ペンを動かす。語られた範囲だけを置く。空白は空白のまま残す。理由はつけない。意味も補わない。ただ、そのままの形で並べる。並べられた断片は完全にはつながらないが、つながらないまま並んでいる状態そのものが、この記録の形になる。
書き終えたあと、ノートを閉じる。
少し間を置いてから引き出しを開け、紙を取り出す。ペンを持ち替え、清書する。ノートに書いたものをそのまま写すのではなく、残す部分を選び、順番を整える。
そのとき、書かないと決めた部分をどう扱うかが問題になる。
書かないことを、どう残すのか。
その選択をしなければならないが、選び方によって意味が変わる可能性がある。
それでも、何も示さなければ、空白はただの欠落になる。
わずかに位置だけを残す形を取る。
「できました」
差し出すと、女はそれを受け取り、中身を取り出して読む。読み進める途中で、一度だけ視線が止まる。その停止は短いが、そこに何かがあることは分かる。それでも戻ることはなく、そのまま最後まで読む。
「……これでいいです。書かれてないですね」
「はい」
僕は答えに女は小さくうなずき、紙を封筒に戻す。その動きは崩れず、読み始める前と同じ姿勢のままだった。
「ありがとうございます」
それ以上は言わない。立ち上がり、そのまま店を出ていく。扉が閉まると、通りの空気が戻る。音は少ないまま続いている。
僕はノートを開く。そこには書かなかった部分の痕跡が残っている。書かなかったという選択だけが、はっきりと形になっている。
だが、その部分が消えたわけではない。
残っている。
ただ、意図的に外されただけだ。
外では同じ通りが続いている。何も変わらないように見えながら、少しずつ何かが減っていく。その減り方ははっきりしないが、前と同じではないという違いだけが残る。
書かれなかったものは、そのまま残る。言葉にはならないが、消えることもない。形を持たないまま、そこにあり続ける。
それでも、記録にしたことで、それは一度外側に出された。
その外に出された形が、何を残しているのかは、まだ分からないままだった。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




