第03話 言えなかった形
午後の六間道は、朝や昼と同じように輪郭を持たないまま続いている。開いている店と閉まった店のあいだにある空白が、そのまま通りの形になっていて、人はその隙間を通り抜けていくだけで、どこかに集まる気配はない。
遠くで荷台を押す音がかすかに届き、店の奥で何かが擦れる気配も続いているが、それらは一つの流れになる前に途切れてしまい、通りには連続した時間ではなく断片のような時間だけが残っている。
その断片は均一ではなく、長く残るものとすぐに消えるものが混ざり合い、つながらないまま並び続けているように見えるが、それでも完全に切り離されているわけではなく、わずかな重なりだけが途切れずに続いている。その重なりは意識しなければ見落とされるほど小さいが、確かにそこにあり、通り全体をわずかに支えている。
屋根が残っている区間と、空が見える区間が混ざっているせいで、光は一定に落ちてこない。明るい場所と暗い場所がはっきり分かれ、その境目だけが妙に強く目に残るが、そこに留まる理由はなく、すぐに別の明るさに押し流されていく。境目を越えるたびに、同じ通りの中で別の場所に入ったような感覚が一瞬だけ生まれるが、それも長くは続かず、通り抜ける動きの中で消えていく。光の違いはそのまま温度の違いのようにも感じられ、足を止めるほどではないが、通り過ぎるあいだに何度も小さな違和感として積み重なっていく。
その違和感は強く残るものではないが、積み重なることでわずかなずれとなり、同じ場所を通っているはずなのに、毎回少しだけ違う場所にいるような感覚を残す。
入口のベルが鳴ったとき、その流れが一度だけ切れた。
音は小さいが、それまで続いていた断片の連なりの中に、はっきりとした区切りが入る。顔を上げると、中年の男が戸口に立っている。入ることを決めて来たというよりも、通りの流れの中で足を止め、そのままここに残ったような立ち方だった。
中に入ってからもすぐには座らず、周囲を一度見てから椅子の前で止まり、少しだけ間を置いて腰を下ろす。その動きは流れに乗っているというより、一度外れてから戻ってきたようにも見え、遅れて追いつくような不自然さだけがわずかに残っている。その遅れは大きなものではないが、通りの流れとはわずかにズレていることが分かる程度には残っていた。
「ここ、話を残してくれるんか?」
「はい。聞いた内容を記録として残します」
短いやり取りのあと、男はすぐには続けず、両手を膝に置いたまま指先だけを動かしている。動きは小さいが止まらず、同じ位置で繰り返されていて、言葉にする前の時間だけがそのまま続いているようだった。その指先の動きは意識して止められているわけではなく、むしろ止める必要がないものとして続いているように見え、そこにある時間がそのまま外に出ているようでもあった。
「たいした話やないんやけどな。それでも残しといたほうがええ気がして」
「どんな内容ですか」
問いかけに対して、男はすぐに答えず、一度だけ視線を上げてから戻す。その短い動きのあいだに、言葉の位置が探られているようで、すぐに出てこないこと自体が内容の一部になっているようにも見えた。言葉が整っていないことが、そのまま話そうとしている内容と重なっている。
「言うたかどうか分からんことや。昔な、仕事で一緒やったやつがおってな。毎日会うわけやないけど、顔合わせることは多かったんや。特別仲が良かったわけでもないし、悪かったわけでもない。そんな関係やった」
言葉はそこで一度落ちるが、完全に止まるわけではなく、少し間を挟んで続きが重なる。その間は短いが、前の言葉が消えずに残ったまま次につながる。
「あるとき、そのやつが急に辞めてな。最後に会うたとき、何か言われた気がするんや。でも、それが何やったか思い出せん。内容が思い出せんのか、最初からよう聞いてへんかったんかも分からん。ただ、言われた感じだけは残っとるんや。はっきりせんまま残っとる」
残っているのは言葉ではなく、そのときの位置だけだった。
「重要なことやったんかどうかも分からんけどな。でも、何もなかったわけやない気はする。ほんまに何もなかったなら、こんなふうに引っかからんと思うんや」
言い切るには足りず、否定するにも足りない位置で止まる。
「それを、残したいんですか?」
そう聞くと、男はすぐには答えず、少しだけ間を置いてからうなずく。その間は長くはないが、返答として選ばれていることが分かる長さだった。
「言われたことそのものやなくてな。言われたかもしれんっていう、その感じを残したいんや。思い出せんままやったってことを、そのままにしときたい。思い出したいわけやないんや。思い出せんままでも、ええと思っとる。無理に形にしたら、違うもんになる気がしてな」
「思い出せないまま、残す形になりますが」
「それでええ。そのほうが近い気がする」
短く返された言葉に揺れはなく、そこまでの話と同じ位置に収まっている。
ノートを開き、ペンを持つ。話の順番を整えるのではなく、出てきた順に置いていく。仕事の関係、会っていた頻度、最後に会ったときの状況、そして思い出せないという事実。それぞれを無理につなげず、そのまま並べる。整えようとすると消えてしまいそうな部分があるため、そのまま残すことだけを優先する。書いているあいだにも、別の言い方に置き換えれば滑らかになる箇所が浮かぶが、そのたびに手は止まり、選ばなかった言葉が背後に残っていく。その残り方ははっきりと見えるものではないが、消えずにとどまっている感触だけが続く。
それでも、書かなければ残らない。
息をひとつ吐き、そのまま書き続ける。欠けている部分は欠けたままにして、理由も意味も足さない。どこまでを残すかを決めているのは自分だという感覚だけが残るが、その判断が正しいかどうかは確かめようがないまま進めるしかない。その不確かさは消えないまま残るが、書くこと自体は止めない。
ノートを閉じてから少しだけ時間を置き、引き出しを開ける。紙を一枚取り出し、ペンを持ち替えて清書に移る。すべてを写すのではなく、残す部分だけを選び、順番を整える。そのとき、選ばれなかった言葉がどこに残るのかは分からないが、消えているわけではないという感覚だけが残る。書かれたものの裏側に、書かれなかったものが重なったまま残っているようだった。その重なりは表には出てこないが、完全に切り離されてもいない。
「できました」
差し出すと、男はそれを受け取り、その場で読み始める。視線は一定の速さで進み、途中で戻ることはないが、一箇所だけ止まり、そのまま数秒動かなくなる。その停止は長くはないが、流れの中でそこだけがはっきりと切り取られる。
「……これでええな。思い出せんままや。これぐらいがちょうどええ」
読み終えたあと、そう言って紙を封筒に戻す。その動きは静かで、読み始める前とほとんど変わらない。
「ありがとうな」
「こちらこそ」
男は立ち上がり、振り返ることなく店を出ていく。扉が閉まると、通りの音が元の位置に戻り、断片の流れが再び続き始める。さっきまであったわずかな違いも、すぐに他の音の中に紛れていく。
ノートを開くと、そこには書かなかった部分が残っている。思い出そうとした時間や、言葉にならなかった引っかかりは、清書した紙には含まれていない。
消えたわけではない。ただ、渡さなかっただけだ。
外では同じ通りが続いている。変わらないように見えながら、少しずつ何かが減っていく。その減り方ははっきりしないが、前と同じではないという違いだけが残る。何が減っているのかは言葉にできないままでも、その減り方だけは確かに続いている。
思い出せなかった言葉は、そのまま残る。思い出されることもなく、消えることもないまま、形を持たずに続いていく。形がないまま続くものは、どこにも置かれないまま、ただ残っているだけの状態で保たれる。
それでも、記録にしたことで、一度だけ形が与えられた。その形は完全ではなく、欠けたままの形でしかないが、それでも何もなかった状態とは違う位置に置かれる。置かれたことで変わるものと、変わらないまま残るものがあり、その境目だけがわずかに意識に残る。
その形が何を残しているのかは、まだ分からないままだった。
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