第02話 残さなかった言葉
朝の光は昨日よりもわずかに強く、店の床に細い線を引くように差し込んでいた。
その違いは、はっきりとした明るさの差としてではなく、見慣れた景色の輪郭がほんの少しだけずれたような感覚として残っている。
シャッターを持ち上げたときに響いた金属の擦れる音も、同じ動作のはずなのにどこか違って聞こえた。それは外の空気が変わったというよりも、自分の受け取り方が昨日とは微妙にずれているからなのかもしれないと思いながら、僕はそのまま店の中へ戻った。昨日と同じ時間に同じことをしているはずなのに、完全には重ならない。そのわずかな差が、今日という日の輪郭を静かに浮かび上がらせているように感じられた。
椅子に腰を下ろしてノートを開くと、昨日書いたページは整った形のまま残っていた。
読みやすく、無理もなく、どこにも引っかかりはない。それでも、読み返しているうちに違和感が残る。書いている途中で感じていたはずの迷いや曖昧さが、きれいに抜け落ちていることに気づいた。その抜け落ちた部分がどこにあったのかを思い出そうとしても、整えられたあとの文章しか手元に残っていない。小さくも確かな違和感だけが、静かに残る。その違和感は形を持たないまま、読むたびに位置を変えながら残り続けていた。整っているはずの文章の中に、何かが欠けているという感覚だけが残り、それが何なのかを言葉にすることはできないまま、ただそこにあるものとして意識に引っかかり続ける。
「……考えすぎか」
声に出してみても納得にはならない。ただ区切りとして置いただけの言葉だった。それでも考え続けるよりはましだと思い、僕はノートを閉じた。考えを止めたわけではないが、これ以上続けても同じ場所を回るだけだと分かっているから、一度だけ距離を置くようにする。
開店してからしばらくは、昨日と同じように静かな時間が続いた。通りを行き交う足音や、遠くで何かを動かす気配だけが断続的に入り込んでは消えていく。その音は連続することなく、途切れたまま残る。そのせいで、賑わいというよりも、何かが抜け落ちたあとの空白のほうが強く感じられる。
そんな中、入口の影が一度だけ揺れた。顔を上げると、制服姿の女子が戸口の前で足を止めている。入るかどうかを決めるまでに、わずかな時間を使っていることが分かる立ち方だった。その迷いは大きなものではないが、完全に消えているわけでもない。
「……すみません」
「どうぞ」
「ここって、記録してくれるんですよね」
「話を聞いて、文章として残します」
「友だちと喧嘩して、今は話してなくて、このまま終わるのが嫌で、ちゃんと残しておきたいんです」
「順番に聞かせてもらっていいですか」
「……はい」
女子は視線を机に落としたまま、少しだけ間を置いてから話し始めた。その間は言葉を探しているというよりも、これから話す内容の形を整えているように見えた。どこから話し始めるかを決めるための時間であり、同時に、何を話さないかを決めるための時間でもあるように感じられる。
中学のときに同じクラスで知り合ったこと。
特別なきっかけがあったわけではないのに、気づけば一緒にいるようになっていたこと。
部活も同じで、帰り道も自然と重なっていたこと。
約束をしなくても隣にいることが当たり前になっていた時間。それらが途切れることなく続いていく。その一つひとつは小さな出来事でしかない。それでも積み重なることで、関係の形がゆっくりと出来上がっていったことだけが、はっきりと伝わってきた。どれか一つが特別だったわけではないが、重なり続けたこと自体が意味を持っていたのだと分かる。
「最後に喧嘩したときのことなんですけど、たいしたことじゃなくて、本当にちょっとしたことで始まったのに、そのまま喧嘩になってしまって、何を言ったかはちゃんと覚えてないんですけど、たぶんひどいことを言ったと思います。それを書いたら変じゃないですか、そのまま残るのは嫌で、ちゃんとした形にしたいというか、普通に仲が良かった感じのまま、最後もそんなに悪くなかったみたいに残したくて」
言葉はそこで止まり、短くも長くもない間が残る。その間は考えているというよりも、これ以上言葉を重ねないと決めたような静けさだった。続けようと思えば続けられるはずの言葉を、あえて出さずに止めているようにも見える。
「どう書きたいですか?」
「よくある感じでいいんです、最後はちょっとしたすれ違いで終わったみたいな形で」
形ははっきりしている。だが、その形に収まりきらないものが残っていることも分かる。その残り方は大きくはないが、無視できるほど小さくもない。
頭の奥で言葉が浮かぶ。
――それ、あんたが安心したいだけやろ。
その言葉はすぐに消えず、形を保ったまま残り続ける。
「少し、聞き方を変えてもいいですか」
「はい」
「さっきのこと、そのままじゃなくていいので、言い方を変えてもらえますか」
「なんでそんなこと言うのって言われて、それで言い返してしまって、たぶん戻れなくなるようなことを言ったんだと思います」
言い終えたあと、女子はそれ以上続けなかった。言い切ったというより、ここで止めたという感じだった。その止まり方には、残しているものと残していないものの両方が含まれているように見える。
僕はノートを開き、出てきた言葉をそのまま置くように書いていく。順番は整えない。途中で整えたくなるが、そのたびに手を止めずに進める。曖昧な部分は曖昧なまま残す。言葉を整えることで消えてしまうものがあるとすれば、それはここでしか残せないものだと思いながら、そのまま書き続ける。書いている間、何度か言い換えが浮かぶが、それを選ばずに元の言葉を残す。
書き終えたあと、一度だけ全体を見る。整っていない部分が残っている。それを確認するだけで、直さずにノートを閉じた。その不完全さを残すことが、今回の形なのだと思いながら、完成という言葉の意味が少しだけ曖昧になる。
「……できました」
女子はそれを受け取り、ゆっくりと読み進める。途中で一度だけ指が止まり、視線がその場所に留まるが、戻ることはなく、そのまま最後まで読む。その動きは迷いなく終わったようにも見えるが、何も残っていないわけではないことも同時に伝わってくる。
「これで大丈夫です、ありがとうございます。これなら変じゃないですよね?」
「変かどうかは、あなたにお任せします」
「これでええです」
そう言って立ち上がり、椅子を戻して店を出ていった。入ってきたときよりもわずかに迷いが少なくなっているように見えたが、それが何によるものなのかは分からないまま、扉が閉まる音だけが残る。
通りの音が戻る。さっきまでの会話は、そのまま外へ流れていったように消える。机の上にはノートだけが残っている。その中には、書かれた言葉と書かれなかった言葉が重なったまま残っている。
ノートを開く。整えなかった言葉がそのまま残っている。渡したものには含めなかった細かな違いが見える。それらは消したのではなく、選ばなかっただけだ。書かれなかった部分もまた、別の形で残っている。
外では同じ通りが続いている。開いている店と閉じた店が混ざり、屋根のある場所と空が見える場所が途切れながらつながっている。昨日と同じ景色のはずなのに、少しだけ違って見える。
変わったのは場所ではなく、自分の側なのかもしれないと思いながら、僕は次に誰かが来るまで、そのまま座り続けた。変化は目に見える形では現れない。それでも確かに積み重なっていく。その感覚だけが、静かに残り続けていた。
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