第01話 記録のはじまり
私の生まれ育った場所を小説にしてみました。
30話完結となっておりますので、どうぞ最後までお楽しみいただければと思います。
六間道商店街は、朝になっても一斉に動き出すことがなく、開いている店とシャッターを下ろしたままの店とが途切れ途切れに並び、その隙間を人が通り抜けていくことで、かろうじて通りとしての形を保っているだけの場所になっている。
それでも完全に止まってしまわないのは、ここを通ること自体が習慣として残っている人たちがまだいるからで、目的を持って立ち寄るというよりも、通り過ぎる途中で視線を少しだけ向ける、その繰り返しがこの場所の現在を支えているように見える。
遠くで何かを引きずるような音や、店の奥で物を動かす気配はあるが、それらが重なって一つの流れになることはなく、むしろ途切れたまま残り続けることで、この場所に満ちているのが賑わいではなく、かつてそこにあったものの抜けたあとの空白であることを、はっきりと示しているように思える。
通りの上を見上げると、屋根が続いている区間と、そこから先は途切れて空がそのまま見える区間とが混ざっている。昔はこの上をずっとアーケードが覆っていたと聞いたことがあるが、その名残は一部にしか残っておらず、境目の不自然さが、時間の切れ目のように見えることがある。
僕はシャッターを最後まで押し上げ、手を離す前に通りを一度見た。立ち止まる人は少なく、ほとんどがそのまま通り過ぎていく。店の前に足を止める理由がある場所だけがかろうじて機能していて、それ以外は通過点として扱われているように見えるが、それでも完全に切り離されているわけではなく、残っている部分と失われた部分が混ざったまま、そのまま続いている。
店の中に戻り、机の上にノートを置いて開く。昨日書いたページには整えた文章が並んでいるが、読み返すたびに、整えた分だけ何かを置いてきた感触が残る。間違っているわけではないが、最初にあったはずの曖昧な部分が削られていることに気づくと、その削り方が正しかったのかどうかは分からなくなる。書きながら残したはずの揺れが、整える過程で消えていくたびに、それは本当に残したことになるのかという疑問だけが、あとから静かに残る。
記録屋としてやっていることは、話を聞いて文章にする、それだけのことでしかないが、その“それだけ”の中で何を残し、どこまで整えるかは毎回違う。ノートに書きつける段階では言葉はまだ揺れていて、書いては止まり、少し戻り、言い換えを探し、その跡はそのまま残る。だが依頼人に渡すものは別にある。引き出しの中に揃えてある少し厚手の紙に清書するとき、ノートにあった揺れはほとんど消え、選ばれた言葉だけが並び直され、その時点で、それは一つの形になる。形になるということは、同時に、形からこぼれ落ちるものがあるということでもある。
入口のベルが鳴ったのは、ノートを閉じかけたときだった。顔を上げると、女性が一人、戸口のところで足を止めていた。入るかどうかを決めるまでに少し時間を使ったことが分かる立ち方で、そのまま通り過ぎることもできたはずなのに、わざわざ足を止めている点に、この場所に来る理由があることが見える。
「ここ、なんか書いてくれるとこやんな」
やわらかい神戸の言い方だったが、探るような響きも混じっていた。
話を聞いて記録として残す場所であることを伝えると、女性は小さくうなずき、中に入ってくる前にもう一度だけ通りを振り返った。戻る選択がまだ残っているかどうかを確かめるような動きだったが、そのまま中に入り、椅子に腰を下ろす。
「ちょっと聞いてもらってもええ?」
短くそう言ってから、女性は通りのほうに視線を向けたまま話し始める。
「このへんな、昔はもっと店あったんや。今みたいに途切れとる感じやなくてな、ずっとつながっとったんや。屋根もな、ここら全部かかっとって、雨の日でも人よう来とった。夕方なんか、ほんま歩きにくいくらいでな、仕事帰りの人も多かったし、遠くから来とる人もおった。なんでも揃うって、よう言われとったわ」
記憶と、誰かに聞いた話とが混ざっているような言い方だったが、その混ざり方自体が、この通りの時間の重なりをそのまま表しているように感じられる。
「その中にあったんや、その店。文房具屋やった。学校帰りによう寄っとってな、買うもん決まってへんのに入って、ノートとかペンとか見てるだけで時間過ぎて。店の人も何も言わんと、そのままにしとってくれて」
言葉は途切れず続くが、どこか慎重に選ばれている気配がある。
「気ぃついたら、なくなっとって。震災のあとやったんか、そのあとしばらくしてからやったんか、ちゃんと覚えとらんのやけど、人、減っていってな……店も閉まるとこ増えて、そのまま戻らんかったとこも多かった。気ぃついたら、アーケードも途中からなくなって、空見えるようになって」
今の風景と重ねるように語られるその内容は、どこまでが記憶でどこからが補われたものなのか、本人にとってもはっきりしていないように聞こえる。
「今はなんか、鉄人とか三国志とかやっとるやろ。前と違う形で人来るようにしとるんやろな。悪いことやないと思うで」
否定も肯定もせず、ただ変わったことだけを受け止めている響きだった。
「でもな、その店のこと、残しときたいんや」
その一言で、話の形がはっきりする。
何を残すのかと尋ねると、女性は少しだけ言葉を探すようにしてから、短く答える。
「分からん。覚えとること、全部でええ。でもな、今あるもんやないやろ。もうないもんや」
その言葉は強くはないが、揺れていない。
僕はノートを開き、ペンを持つ。思い出された順に言葉を置いていく。順番は決めない。店の広さ、棚の位置、置いてあったノート、アーケード越しの光、人の流れ、時間の密度。書いては止まり、少し戻り、言葉を探す。曖昧な部分はそのまま残す。
書き進めているうちに、手がふと止まる。形を整えようとしている意識が、いつの間にか混ざっていることに気づく。残しているはずのものが、書くたびに少しずつ別の形に置き換わっているような感覚がある。
そのとき、不意に言葉が浮かぶ。
――それ、あんたが安心したいだけやろ。
どこから来た声かは分からないが、否定することもできない。
残しているつもりで、失われていくものを自分の中で納めているだけではないのかという感覚が遅れて追いつく。実際にあった店と、今書いている内容が同じものなのかどうかは、確かめようがない。
それでも、手を止めたままでは何も残らない。
僕は一度だけ息を整え、ペンを動かす。思い出せる範囲をそのまま置き、曖昧な部分は曖昧なまま残し、整えすぎないように意識しながら最後まで書ききる。
ノートを閉じ、少しだけ間を置く。それから引き出しを開け、紙を一枚取り出す。ノートにあるものをすべて写すわけではない。残す部分を選び、順番を整える。その時点で、それは一つの形になる。
書き終えた紙を封筒に入れ、差し出す。
女性はそれを受け取り、中身を取り出して読む。途中で視線が止まることはあっても、戻ることはない。最後まで読み終えたあと、小さく息を吐いた。
「……あったな、こんな感じやった」
短い言葉だが、それで十分だった。
封筒に戻し、丁寧に持ち直す。
「これでええ。ありがとうな」
そう言って女性は店を出ていく。
扉が閉じると、通りの空気がそのまま戻る。音は少ないまま続いている。
僕はノートを開く。そこには書かなかった細かい記憶が残っている。棚の位置の違い、色の曖昧さ、言い切れなかった部分。それらは紙には残っていない。
だが、消えたわけでもない。ただ、渡さなかっただけだ。
ノートを閉じ、引き出しを戻す。外では同じ通りが続いている。開いている店と閉まった店が並び、空が見える区間と屋根が残る区間が混ざり合いながら、何も変わらないように見えて、少しずつ何かが減っていく。
それでも、人は通り続ける。
理由がある場所だけに足を止めながら、それ以外を通り過ぎていく。
この場所が続いているのは、その繰り返しが途切れていないからだ。
次にここを訪れる誰かも、同じように何かを持ってくるのだろう。
それが残るかどうかは、そのときに決まる。
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