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<完結済み> やさしい記録のつくり方  作者: スフィーダ


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第06話 残り方の違い

 朝の六間道は、以前と同じように店が開き始めているはずなのに、その音の立ち上がり方だけが変わっていて、どこかのシャッターが上がる音をきっかけに連なっていたはずの気配が、いまはそれぞれ別の場所から遅れて現れ、通りの中で揃わないまま広がっていく。

 開いている店の数自体は変わらないはずなのに、そのあいだの空白だけが少しずつ増えているように見え、視線を奥へと伸ばすと、途中で通りが途切れているような感覚が残るが、その途切れがどこから始まっているのかは分からないまま、ただ距離だけが曖昧に伸びている。


 

 僕は机に向かい、ノートを開いたまま視線を落としていた。前のページには、順番を持たない記憶について書いた記録が残っているが、書き上げた直後には整っていると感じていたはずのその文章が、時間を置いて見返さないままでもどこか引っかかるものとして意識に残り続けている。依頼人の意図は保たれていたし、余計な解釈も差し込んでいないはずで、読みやすさも崩していない。それでも、書いたあとに残る感触だけが、以前とはわずかに違っている。


 ノートの余白に目を向けると、書かなかった言葉の痕跡は相変わらずそこに残っているが、それとは別に、書いたはずの言葉のほうがどこかでずれているような感覚がある。形にはなっているのに、意味と重なりきっていないような、言葉とその指しているものがほんの少しだけ離れているような違和感が消えない。


 

 入口のベルが鳴り、顔を上げると、若い男が戸口に立っていた。背筋は伸びているが、視線が定まらず、店の中を見ているようでいて、どこにも焦点を合わせていないような目をしている。


「ここ、話を書いてくれるところと聞いたのですが? 聞いたことを、そのまま残してもらえるんですよね?」


 標準語で、少しだけ言葉を選びながら確かめるような調子だった。


「はい。話を聞いて、それを記録として残します。できるだけ、そのままの形で書きます」


 そう答えると、男は小さくうなずいて椅子に座り、手に持っていたスマートフォンを机の上に置くが、位置が定まらないのか一度指先で動かし、少しだけ端に寄せてから手を離す。


「何を話せばいいのか、少し分からなくて。決まっているわけじゃないんですけど、たぶん、昨日のことからだと思います」

「決まっていなくても大丈夫です。話せるところからで構いませんし、途中で変わっても、そのまま書きます」


 そう言うと、男は一度うなずき、視線を机に落としてからゆっくりと口を開く。


「昨日、連絡が来たんです。しばらく会っていなかった人からで、特別な内容ではなかったんですけど、それで、その人のことを思い出そうとして」


 そこで言葉が止まり、少し間を置いてから続く。


「思い出せないんじゃなくて、思い出せているのかどうかが分からなくて、覚えているはずなのに形にならない感じがあるんです」


 言葉を探しながら、慎重に置いていくように話している。


「思い出そうとすると、別の場面が出てきたりして、それが本当にその人の記憶なのかどうかも曖昧になって、混ざっている感じがして」


 視線がわずかに揺れ、机の上の一点に留まる。


「でも、完全に忘れているわけではないと思うんです。何かは残っているはずで、それがどこにあるのかが分からないというか」


 その言い方は断定ではなく、確認に近い響きを持っている。


「それを残したい、ということですか? それとも、確かめたいという感覚に近いですか?」


 そう聞くと、男は少し考え、言葉を選び直す。


「残したいというよりは、確かめたいのかもしれません。自分が覚えていると思っているものが、本当にその人のことなのかどうかを」


 依頼の形が、曖昧なまま輪郭を持ち始める。

 僕はノートを開き、ペンを持つが、すぐには書き出さずに言葉の流れを見てから線を引く位置を決める。


「その人との関係は、どのようなものですか? どのくらいの距離だったのか、分かる範囲で結構ですので」

「特別に近いわけではないです。仕事で何度かやり取りをした程度で、日常的に関わっていたわけではないですけど」


 淡々とした調子で続く。


「でも、そのときのやり取りは印象に残っていたはずなんです。少なくとも、自分ではそう思っていたんですけど」

「『はず』、というのは」

「そう思っていた、というだけで、いま思い出そうとすると具体的な場面が出てこないんです。別の人との記憶と混ざっている感じもあって、どれがその人のものなのかが分からなくなる」


 僕はうなずき、ペンを動かし始める。話された順番のまま、言葉を置いていく。意味は通る。流れも理解できる。それでも、書いているうちに、どこかで重なりきらない感覚が生まれる。


 何がズレているのかは分からないまま、そのまま書き続ける。


 男の言葉は、同じところに何度か戻る。『思い出せない』という言い方を変えながら繰り返し、そのたびにわずかに違う角度から同じ場所をなぞる。その差は小さいが、完全に同じではなく、その違いをどう扱うかで、記録の形が変わる。


 まとめることはできる。一つの表現に統合することもできる。だが、それをすると、その微妙なずれは消えてしまう。


 ペンが止まる。


 

 ――それ、あんたが安心したいだけやろ。


 

 前と同じ形の言葉が浮かび、今度は少し長く残る。


 僕は息を吐く。繰り返しを削ろうとしていた。意味を一つにまとめて、分かりやすい形に整えようとしていた。それは読みやすさのためでもあるが、同時に自分が納得できる形に近づけようとしていた。


 僕はペンを持ち直す。繰り返しを残す。同じ言葉ではない差を、そのまま置く。統合はしない。ただし、読める形には保つ。その境界を探りながら、ひとつひとつを並べていく。


 書き終え、ノートを閉じる。しばらくそのまま置き、見返さない。見れば整えたくなることが分かっているから、そのまま引き出しを開けて紙を取り出す。


 清書に入る段階で、もう一度選択が必要になる。繰り返しを削るか残すか。削れば整うが、揺れは消える。残せば冗長になるが、ずれは残る。そのどちらを選ぶかで、残り方が変わる。


 しばらく考えたあと、僕は削らないことを選ぶ。ただし、崩れない範囲で形を整えながら、その差が消えないように言葉を置いていく。


「できました」


 差し出すと、男は封筒を受け取り、中身を取り出して読み始める。視線は一定の速度で進み、途中で止まることなく最後まで読み切る。


「……分かる気はします。言っていることは、そのまま自分の感じに近いと思います」


 そう言いながらも、少しだけ首を傾ける。


「ただ、こんなふうに考えていたのかどうかは、自信がないです。言われればそうかもしれない、という感じで。……でも、間違っているとも言えないですし、たぶん、このくらいの曖昧さだった気もします」


 完全な肯定でも否定でもない言い方のまま、紙をもう一度見直す。


「これで大丈夫です」


 そう言って封筒に戻すが、その手の動きは少しだけ遅く、何かを確かめるように一瞬止まる。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」


 男は立ち上がり、軽く頭を下げて店を出ていく。扉が閉まる音は小さく、すぐに通りの中に溶けていく。


 机の上に視線を落とすと、さっきまでそこにあった紙はもうなく、ノートだけが残っている。開いて確認すれば、書いた内容は整っていて、記録としての形も崩れていないはずなのに、それでもどこかが重なっていない感覚が残る。


 何が違うのかは分からない。ただ、残り方が少しずれている。


 外では同じ通りが続いている。音は少ないままだが、完全に消えているわけではなく、それぞれが揃わないまま散らばっている。


 僕はノートを閉じる。


 

 ――それ、あんたが安心したいだけやろ。


 

 さっきの言葉が、まだ少しだけ残っている。その向きが自分に向いているのかどうかも、まだはっきりしないままだった。

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