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<全30ep> やさしい記録のつくり方  作者: 第三ひよこ丸


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第28話 決めないまま残るもの

 扉が閉まってからしばらくのあいだ、店の中にはさっきまでのやり取りが薄く残っているような感触があった。空気そのものはすでに元の均された状態に戻っているはずなのに、言葉だけが完全には引いておらず、どこかに引っかかったまま、静かに留まっている。


 机の上のノートは開いたままで、途中で止まっている一文が、そのままの形で置かれている。その先に続くはずの空白も、位置としては変わっていないはずなのに、見え方だけがわずかに変わっている。書かれていない部分であるにもかかわらず、そこにすでに流れがあるように感じられてしまうのは、さっきまでのやり取りが、言葉としてだけでなく、感覚として残っているからかもしれない。


 真緒は姿勢を変えないまま、ノートの先に視線を置いている。書かれているところではなく、その少し先、まだ形になっていないはずの位置を確かめるように、ほとんど動かない。


「さっきの手紙、だいぶ整ってたやん。前よりも分かりやすくなってたし、あれやったらちゃんと届くと思うで」

「整えただけや。終わりが見えてたから、その手前を合わせただけやし、やってること自体はそんなに変わってへん」

「でも、全部言い切ってへんのに、どうなるかは分かる形になってたやろ。ああいうのって、書いてある量よりも、残し方のほうが大きいんやなって思った」


 短く続いたやり取りのあとに、わずかな間が落ちる。その間のなかに、さっき触れていた手紙の感触がそのまま残っている。言い切りすぎていた部分を少しだけ緩めただけで、意味そのものは変えずに、受け取り方だけが変わっていたことが、はっきりと分かる形で残っている。


「でも、これも同じやろ」


 真緒はノートから視線を外さないまま言う。


「ここまで書いてたら、どこに行くかは見えてるやん。書いてへんだけで、流れは出てるし、そのままでも一回読める形にはなってると思うで」


 その言い方は断定ではなく、ただ見えていることをそのまま置いているだけに近い。それでも、その見え方は無視できるほど曖昧ではなく、むしろ、否定しようとするほど輪郭がはっきりしてくる。


 視線を落とす。途中で止まっている一文は、その先へ続く気配を確かに持ったまま、そこにある。さっきよりも、その先が遠いものではなく、すぐ手の届く位置にあるものとして感じられる。


「見えてるだけや。それにするかどうかは、まだ決めてへん」

「決めてへんだけやろ。見えてるなら、それでええやん。決めるっていうのも、結局そこを認めるかどうかやろ」

「決めたら、それになるやろ」

「もうなってるやん。さっきの手紙もそうやったやろ、全部書いてへんのに、ああいう形になってたやん」


 軽く返された言葉が、そのまま空気に残る。押しつけるわけでもなく、ただそこに置かれたまま、消えない形で残り続ける。


 ノートの上では、書かれている部分と、その先の空白とが、切り分けられないまま繋がっているように見える。その繋がりを認めるかどうか、それだけがいまの違いであり、その違いを保つために手が止まっていることも、同時に分かってくる。


「……決めたくないだけやろ」


 真緒の声は変わらないまま、同じ位置に置かれる。


「決めたら、それになるって分かってるから、決めてへんだけやろ。変わるんが嫌なんやったら、そう言えばええだけやのに」


 その言葉は強くはないのに、逃げ場を残さない形でそこにある。


「決めたら終わるやろ」


 口に出した言葉は、そのまま自分の中に残る。


「終わるって、何が? ノートの話なん、それとも別の話なん」


 問いは静かに差し込まれる。どちらにも取れる形で置かれているが、その曖昧さが逆に、逃げ道を狭くしていく。

 少しだけ間が空く。その間のなかで、どちらのことを指しているのかを選ぶことはできるはずなのに、どちらも同じ場所にあることのほうが先に分かってしまう。


「……どっちもや」


 言葉にした瞬間、ノートの上の一文と、その先の空白、それから触れずに置いたままの時間とが、同じ位置に重なる。


「終わらせたって思ってるだけやろ」


 真緒は変わらず、ノートの先を見たまま言う。


「何もしてへんだけで、終わってへんやん。さっきの手紙もそうやったやろ、全部言い切ってへんのに、どうなるかは分かったやん。それと同じで、ここも書かんでも分かる状態にはなってる」


 指先が、ペンの近くで止まる。


「……それでええやろ。何もしてへんのやし、そのまま終わるんやったら、それでええやろ」

「それ、自分でそうしてるだけやん。何もしてへんから終わったんやなくて、何もせんまま終わったことにしてるだけやろ」


 その言い方が重なった瞬間、位置がはっきりと定まる。

 何も決めないまま、触れずに置いて、あのまま関係を終わったことにしていたときと、同じ場所にいる。


 

――それ、あんたが安心したいだけやろ。


 

 まだ店を持つ前、関係を終わらせたときに真緒に言われた言葉が、時間を挟まずにそのままの形で戻ってくる。


 その言葉が浮かんだ瞬間、それまで自分で選んでいるつもりでいた”何も決めない”という位置が、選択として成立していたものではなく、ただそこから動かないために選び続けていただけのものへと変わる。

 動かないことで保たれていると思っていた状態は、実際には崩れないように押さえつけていただけであり、その力を抜けば簡単に形が変わってしまうものだったのだと、遅れて分かる。


 書かないでいることが余白を残しているのではなく、余白に触れないことで形を固定しないようにしているだけだったのだと気づいたとき、ノートの上にある途中の一文と、その先に続くはずの空白とが、別々のものではなく、すでにひとつの流れとして扱われていることが、逃げようのないかたちで見えてくる。


 視線を落としたまま、指先がわずかに動く。ペンに触れれば、そのまま続きを書き出すことができる位置にあることは分かっているし、その続きをどの言葉で始めればいいかも、もう見えている。それでも、その一行を書いた瞬間に、それがひとつの形として固定されてしまうことも同時に分かってしまうから、触れる直前で手が止まる。


「……書いたら、それで決まってしまうやろ。ここまでの流れがあっても、書いた時点でそこまでやって決めることになるし、それ以上は動かん形になる。それが嫌やから、書いてへんだけや」


 言葉にしてしまうと、その理由ははっきりするが、それでも完全に納得しているわけではないことも同時に分かる。


「せやな。でも、書かんでも今の形は残るで。書いてへんから自由ってわけでもないやろ、ここまでの流れはもう見えてるし、それが消えるわけでもないんやから、どっちにしても同じもんは残る」


 真緒は淡々と続ける。その言い方は変わらないが、さっきよりも少しだけ距離が近く感じられる。


 ペンに触れそうになって、指が止まる。書けば終わる、書かなければ終わらない、そう思っていたはずなのに、そのどちらでも同じものが残るのであれば、その区別自体が意味を持たなくなってくる。


「……どうせ書くんやろ。ここまで来て、何も書かへんまま終わるとも思われへんし、どこかで書くことにはなるやろ。でも、それを今決める必要はないやろし、決めへんままでも進むもんは進むやろ」


 その言葉は選ばせるためのものではなく、選ばなくてもいい位置をそのまま示しているだけに近い。


「決めんでも、残るもんは残るし、そのまま置いといてもええやん。終わってへんもんを無理に終わらせる必要もないし、終わったことにする必要もないやろ」


 視線を上げると、真緒は変わらずそこにいる。終わっていないと言い続ける側と、終わったと思っている側、そのどちらにも寄らない位置に、そのまま留まり続けている。


 ノートに視線を戻す。途中で止まっている一文は、そのまま残っているが、その先に続く流れもまた、消えずに残っている。書くかどうかはまだ決まっていないが、どちらを選んでもここまでの形が消えるわけではないことだけは、はっきりと分かる。


 ペンに触れることも、そのまま離すこともできる位置に指を置いたまま、その状態をしばらく保つ。決めることを避けているのか、それとも決めないままにしているのか、その違いすらも曖昧なまま、その場所に留まり続ける。


 ノートは閉じない。途中であることを、そのまま残す。


 終わっているかどうかは決めていない。それでも、ここまでの形だけは、すでに消えないものとして、確かにそこに残っていた。

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