第29話 残したままにする理由
扉が閉まってからしばらくのあいだ、店の中に戻ってきた静けさは、さっきまでと同じように均されているはずなのに、どこかで引っかかったままのものを含んでいるように感じられた。
机の上に開いたままのノートも、途中で止まっている一文も、位置としては何ひとつ変わっていない。それでも、その見え方だけが明確に変わっている。さっきまでは曖昧さの中に紛れていたものが、いまは曖昧なままではいられない形でそこに残っている。
真緒は姿勢を変えないまま、書かれている部分ではなく、その少し先に視線を置いている。まだ言葉としては置かれていない場所を見ているはずなのに、その視線はそこに何もないとは扱っていないように見える。これまでと同じ動きであるはずなのに、その意味だけが変わっていることが、はっきりと分かる。
「さっきので、分かったやろ。もう終わってへんってことも、決めてへんだけで形は残ってるってことも、どっちも同じ位置にあるやん。ここまで来て、それでも分からんとは言わんやろ」
真緒の声は強くないが、逃げ場を残さない形で置かれる。
「……分かってる。さっきまでみたいに、分からんから止まってるわけやないし、どうなるかも見えてる。ただ、そのまま書いたらどうなるかも分かってるから、動いてへんだけや」
言葉にしてしまえば、そこに曖昧さは残らない。理解していないふりをすることはできても、いまはそれを選ぶ意味もなくなっている。
「分かってるんやったら、それでええやん。見えてるもんを、そのまま置いたらええだけやろ。わざわざ止める理由もないやん」
真緒は変わらず、ノートの先に視線を置いたまま続ける。その言い方は押しつけではなく、ただそこにある状態をそのまま認めているだけのものに近いが、それでもそのまま受け流せるほど軽くはない。
視線を落とす。途中で止まっている一文は、そのままの形で残っているが、その先に続く流れも、もう隠れない。どこから続けるかも、どこで終えるかも、具体的に見えている。書こうと思えば、そのまま最後まで繋げることができる位置にある。それでも、手は動かない。
迷っているわけではないし、言葉が見つからないわけでもない。むしろ、言葉が見えているからこそ、その先の形まで含めて見えてしまっている。書いたあとにどうなるかが、曖昧ではなく具体的に分かっている。
「じゃあ、なんで書かへんの? 分かってて止めてるんやったら、それは止める理由があるってことやろ。さっきみたいに分からんから止まってるのとは違うやん」
「……書いたら、変わるからや。ここで一回形にしたら、それで一つに決まるやろ。そこから先は、その形として扱われるし、途中のままには戻らんようになる」
「変わるのがあかんの? 変わること自体は、ずっとやってきたことやん。整えるっていうのも、結局は変えてるってことやろ」
「……戻らんようになるんや。今の位置は、まだどっちにも取れる形で残ってるやろ。でも、一回決めてしまったら、その位置には戻られへん。途中で止めてるから成立してるもんが、そのまま残らんようになる」
言葉にした瞬間、その意味がそのまま手元に落ちてくる。ノートの上の一文と、その先に続く流れ、それから、ここに残っている関係の形とが、同じ構造で重なっている。
書けば、その形になる。
形になれば、そこから先はその形として扱われる。
途中のままには戻らない。
それは文章だけの話ではなく、ここにある関係そのものにも重なっている。終わっているわけではないが、戻っているわけでもない。この中途半端な位置で止まっているからこそ成立している距離があって、その曖昧さが、そのまま形を保っている。
動けば、その曖昧さは残らない。
「そのままでええって思ってるん? 何もせんまま置いとくことが、一番ええ形やと思ってるんやったら、それはそれで一つやけど、そういう言い方はしてへんやろ」
「思ってるわけちゃう。こんな形が一番ええとも思ってへんし、このままでええとも思ってへん。ただ、動いたら崩れるって分かってるもんを、わざわざ自分から崩す理由もないやろ」
「じゃあ、なんなん。終わらせたくないんか、それとも戻したいんか、どっちかには寄るやろ。何もせんまま保つっていうのは、どっちにも寄らんまま置いてるだけやん」
問いは穏やかに置かれているが、そのままにしておける形ではない。どちらにも寄らないという位置が、選択として成立しているのか、それともただ避けているだけなのか、その違いがはっきりしてしまう。
視線を落としたまま、ノートの上の一文を見る。その先に続く流れも、もう消えない。書けばどうなるか、書かなければどう残るか、その両方が同時に見えている。
「……壊したくないだけや。終わらせたいわけでも、戻したいわけでもない。ただ、このままの形を壊したくないだけや。途中で止まってるから保たれてるもんを、わざわざ自分で動かして、形を変える必要もないやろ」
言葉にすると、その理由ははっきりする。けれど、それが正しいかどうかとは別の問題であることも、同時に分かる。
真緒はその言葉を否定せず、そのまま受け取るように一度だけ視線を動かし、また同じ位置に戻す。
「それ、前にも言ってたやろ。形にしたら変わるから決めへんって、あのときも同じこと言ってたやん。変わるんが嫌やから、そのまま置いとくって」
静かな指摘だった。その言葉に合わせて、ひとつの言葉が浮かぶ。
――それ、あんたが安心したいだけやろ。
あのときと同じ位置にいることは分かる。けれど、その言葉をそのまま受け取ることができないことも、はっきりしている。
安心しているわけではない。むしろ、どこにも固定されていない状態を、そのまま持ち続けているだけで、安定とは遠い位置にある。それでも、その不安定さを保つことで、壊れていない形を維持している。
「……安心したいわけちゃう。これで楽やと思ってるわけでもないし、このままでええとも思ってへん。ただ、動いたら変わるって分かってるから、そのまま止めてるだけや。何もせんかったら、そのまま残るもんは残るやろ」
「でも、それって結局、自分でそうしてるだけやん。動かへんから残ってるんやなくて、動かへんようにして残してるだけやろ。それを選んでる時点で、何もしてへんわけちゃうやん」
その言葉は強くはないが、避けていた位置をそのまま指している。選んでいないつもりでいた“何も決めない”という状態が、実際には選び続けている結果であることが、そのまま露出する。
ノートに視線を戻す。途中で止まっている一文は、そのまま残っている。その先に続く流れも、消えずにそこにある。どちらを選んでも、この位置がなかったことになるわけではない。
指先がペンに触れる。軽く持ち上げれば、そのまま続きを書き出すことができる。書く理由も、書かない理由も、どちらも揃っている。
どちらが正しいかではなく、どちらを残すかの問題になっている。
少しだけ力を入れれば、ペン先は紙に触れる。そのまま動かせば、一行目の続きが書かれる。それでも、動かない。
さっきまでとは違う。書けないから止まっているわけでもなく、迷っているから止まっているわけでもない。理由を分かったうえで、そのまま止めている。
ノートは閉じない。途中のまま、開いた状態で置かれている。この形がまだ壊れていないことだけは確かで、そのことを確かめるように、視線をそこに置き続ける。
書くかどうかは、まだ決めていない。
ただ、どちらを選べば何が残るのか、その違いだけは、もう曖昧なままではいられない形で、はっきりとそこに残っていた。
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