第26話 続きの手前
机の上に開いたままのノートに、さっき書き足した数文字だけが残っている。途中で止まっている位置は、確かに少しだけ先へ動いているはずなのに、その差は一目で分かるほどのものではなく、ページ全体として見ればほとんど変化がないように見える。それでも、そこに触れたという事実だけがかろうじて残っていて、何もしていない状態とはわずかに切り分けられている。
書き始めることまではできた。その最初の一行に触れるところまでは、ためらいはなかった。紙にペン先が触れたときの、ごく軽い抵抗と、そのあとにインクが定着していく感触は、まだ指先に残っている。線が引かれ、文字として定まるまでの短い時間のなかで、迷いはなかったはずなのに、その先へ進もうとした瞬間に、同じところへ戻っている。
止まっている理由は変わっていない。ただ、一度動いたぶんだけ、いまのほうがその状態をはっきりと認識している。動けることを知ったうえで止まっている、という感覚が、さっきよりも具体的なかたちで残る。
ペンを持ったまま、紙の上に視線を落とす。続きを書こうと思えば書けることは分かっているし、どこから続けるかも見えている。それでも、その一行をどの形で置くのかを決めきれないまま、手だけが止まる。書けないのではなく、書き切らないでいる。その差だけが、いまは逃げようのない形でそこにある。
ほんのわずかに手首の角度を変えてみる。書きやすい位置に整えれば、自然に次の言葉が出てくるかもしれないという期待がある。けれど、その調整は結局、書くことそのものではなく、書く直前の準備を繰り返しているだけであることにもすぐに気づく。
店の中は静かなままだった。外を通る人の足音や、遠くで交わされている会話の断片が、ときどき薄く届いては消えていく。それらはこの空間に干渉するほど強くはなく、ただ存在していることだけを知らせるように、一定の距離を保ったまま流れていく。
室内の光は均されていて、影の輪郭を曖昧にしている。机の上に落ちている影も、はっきりとした形を持たず、どこからどこまでが境界なのかが分かりにくい。その曖昧さの中にいると、変化の大きさも同じようにぼやけていく。少し書いたことも、止まっていることも、同じ重さで並んでしまい、どちらが先に進んでいるのかが分かりにくくなる。
その中で、手元にだけわずかな違いが残る。紙の上に新しく加わった数文字と、それが途中で途切れているという事実。その二つが、いまの状態をかろうじて形にしている。
向かいに座っている真緒は、ほとんど姿勢を変えないままそこにいる。完全に動かないわけではなく、視線の向きや、指先の位置がときどき変わる。その変化は小さいが、確実に時間が進んでいることを示している。
こちらに何かを求めるわけでもなく、かといって完全に関心を外しているわけでもない。その中間に留まり続ける距離が、この場の空気を一定に保っている。
ノートに目を戻す。途中で止まっている一文の先には、確かに続く言葉がある。それをそのまま書けば、流れは自然につながるはずだと分かっている。それでも、その一行を選ぶことができないまま、同じ位置に留まり続ける。
さっきの依頼のことが、まだ意識の端に残っている。あのときは、どこに手を入れるべきかを迷うことはなかった。書かれている文章の中で、どこが引っかかっているのか、どこを整えれば流れが通るのかが、自然に浮かび上がっていた。
元があるものに触れるときは、終わりの位置がどこかに見えている。その終わりに向かって、途中をどう整えるかを考えればいい。けれど、いま目の前にあるものには、その終わりがまだない。どこへ向かうのかを決めるところから始めなければならない。
整えることは、すでにあるものの中から選び直すことに近い。書くことは、まだないものの中から選び始めることに近い。その違いが、いまははっきりと手に残っている。
ペンを少しだけ持ち直す。指先に残っている緊張は、書く動作そのものよりも、決めることに向いている。どの言葉を置くか、その一行をどこで終えるか、その判断に対して体が構えている。
そのまま紙に触れれば、続きを書き出すことはできるはずだった。
それでも、触れる直前で止まる。
止まること自体は、もう特別なことではない。繰り返されているうちに、それが自然な動きのようにも感じられてくる。ただ、その繰り返しが続いているという事実だけが、少しずつ重さを持ち始めている。
そのとき、真緒の視線がこちらに向く。
「書かへんの?」
短く投げられた言葉は、強さを持たないまま、今の状態にそのまま重なる。
「書こうとはしてる」
「してるようには見えへんで」
やり取りはそれだけで終わるが、そのあとに残るものは軽くない。言い返そうと思えば言い返せるが、どの言葉を選んでも、いまの状態を動かすことにはならない気がして、そのまま口を閉じる。
少しだけ間を置いてから、言葉を続ける。
「さっきは、普通にやってたやん」
「あれは違うやろ」
「何が?」
「元があるかどうかや。整えるだけやったら、どこに持っていくか見えてる。でもこれは、最初から決めなあかん」
「決めたらええやん」
「決めたら、それになるやろ」
「それでええやん」
「それでええって思われへんから、止まってるんやろ」
言葉はひとまとまりに続き、そのあとに短い沈黙が落ちる。言い切った形になっているのに、その中に納得しきれていない部分が残っていることが、自分でも分かる。
真緒はそれ以上踏み込まず、机の上のノートに一度だけ視線を落とす。その視線が、途中で止まっている位置を確かめるように動く。
「最後まで整えたらあかんの?」
「整えたら終わるやろ」
「終わったらあかんの?」
「終わらせたくないわけちゃうけど……」
言葉が途切れる。その先に続くはずの説明は、頭の中にあるはずなのに、どの形で出せばいいのかが決まらないまま、口の中で消える。
真緒は小さく息を吐き、それ以上は何も言わない。その動きが、会話を一度外に出す合図のように感じられる。
再び静けさが戻る。
ノートの上には、さっき書き足した数文字が、そのまま残っている。完全に止まっているわけではないが、進んでいるとも言い切れない。その中途半端な位置に、自分の状態がそのまま重なっている。
ペンを持ち上げる。
今度は、もう少しだけ続けられる気がする。
紙に触れ、一文字を書く。続けてもう一文字。その動きはさっきよりもわずかに軽く、書くという行為そのものへの抵抗は確かに薄れている。
さらにもう一文字、と思ったところで、手が止まる。
続けることができない理由は変わっていない。ただ、止まっていることを自覚している分だけ、その状態がさっきよりもはっきりと見える。
書けないのではなく、途中で止めている。その感覚が、逃げようのない形で残る。
ペンをゆっくりと机に戻す。
書き足された分だけ、止まっている位置がまた少し先へ動く。それでも、終わりには届いていない。その距離が、さっきよりも具体的に見える。
視線を上げると、真緒は何も言わずにそこにいる。
さっきと同じように見えるが、完全に同じではない。こちらが書き進めた分だけ、空気の中にわずかな変化が残っている。その変化は小さく、言葉にするほどではないが、確かにここにある。
ノートは閉じない。
書き終えることも、整えきることもせず、そのまま途中の状態を残す。
途中であることを、そのまま置いておく。
その状態のまま、時間だけが静かに進んでいく。
続きを書くかどうかは、まだ決まっていない。
それでも、書き始めているという事実だけが、消えずに残っていた。
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