第24話 戻ったあと
改札の手前で足が止まったとき、ここで分かれるなら自然なのは真緒のほうだということは、考えるまでもなく分かっていた。
動物園の裏手から続く坂を上がれば、そのまま家に着くはずだということを、前に一度だけ聞いたことがあり、そのときどこで別れたのかという曖昧な記憶だけが、断片的なまま残っている。
はっきりとした場所を思い出せるわけではないが、今いる位置とそのときの帰り道とが、無理のない形で重なる感覚があり、このまま上へ進めば帰れる距離にいるのだろうという見当だけはつく。
それでも、隣にいる気配は動こうとせず、改札の手前で同じように足を止めたまま、流れから半歩だけ外れた位置に留まり続けている。
改札を抜けていく人の動きは絶えず、止まっている者のほうがむしろ少ないはずなのに、その中で動かずにいるというだけで、周囲の流れから切り離されたような感覚がわずかに強まる。
視線を向けると、真緒は改札の表示を一度だけ見上げ、そのまま何も言わずに視線を戻した。その動きには迷いがないわけではないが、だからといって決めかねている様子とも違い、すでにどちらかに傾いているものを、わざわざ言葉にして確かめる必要がないと分かっているような静けさがある。
「帰らんでええん?」
そう声をかけると、少しだけ間を置いてから「別に」とだけ返ってきて、それ以上の言葉は続かなかった。その短さの中に含まれているものが少ないわけではなく、むしろそれ以上説明を重ねないことで、決めていることをそのままの形で置こうとしているようにも感じられる。
「家、近いやろ?」
「近いけど、今帰っても同じやし。ここで帰るほうが、逆に中途半端や。どうするか、最後まで見ときたいし」
まとめて返ってきた言葉は軽く聞こえるが、どこにも無理がなく、すでに決めていることをそのまま確認するように並べただけの自然さがある。理由を説明しているようでいて、実際には説明ではなく前提の共有に近く、その言い方自体が、この場で引き返さないという選択を含んでいる。
それ以上は何も言わず、そのまま改札を通る。
ホームに降りると、昼過ぎの空気がゆるやかに広がっていて、人の流れはあるものの、どこか均されていて、特定の方向へ引かれる感じはない。その中に混ざると、自分の動きもまた特別なものではなくなり、ただ同じ速度で進んでいくものの一部として処理されていく。
電車を待つ間、言葉は続かなかった。さっきまでの会話は終わったわけではなく、そのままの形で残っているはずなのに、あえてもう一度取り出して確認する理由が見つからない。一度言葉にしたものを繰り返すことで、それが同じままでいられるとは限らず、むしろ別の形に変わってしまう可能性のほうが強く感じられて、そのまま触れずにおくほうが近い状態を保てるような気がする。
ホームの端に寄り、線路の向こう側をぼんやりと見る。特に何かを探しているわけではないが、視線の置き場所を決めないままでいると、かえって落ち着かない。
電車が入ってくる気配が遠くから伝わり、風がわずかに動く。その変化に合わせて周囲の人の姿勢が少しだけ整い、止まっていた時間が動き出す。
電車が来て、乗り込む。
向かい合うでも並ぶでもない位置に座ると、その距離は意識すればはっきりと測れるはずなのに、あえて測る必要もなく、そのままの形で放置される。窓の外を流れる景色を見ながら、さっきの売店で見たものが遅れて浮かび上がる。
棚に並んでいた小さな雑貨の中に、見覚えのある色の組み合わせがあったことだけが残っている。形そのものは曖昧なままだが、あのとき手に取ったときの感触に近いものだけが、輪郭を持たないまま意識の奥に引っかかる。
思い出そうと思えば、細部まで辿れるはずなのに、その手前で止めている自分がいることにも気づいている。思い出してしまえば、それに対して何かを決めなければならなくなるような気がして、その直前で視線を外す。思い出さないのではなく、思い出すことを先送りにしているだけだという自覚もあるが、それを今ここで引き受ける理由が見つからないまま、その状態を保っている。
電車が揺れるたびに、その曖昧な記憶だけが少しずつ浮かび上がりかけては沈み、はっきりとした形を持たないまま残り続ける。
最寄りで降りて、店へ向かう。
歩き慣れたはずの道を進みながらも、さっきまでいた場所との連続がどこかで切れているような感覚が残り、同じ街の中を移動しているだけであるにもかかわらず、違う層を移動しているようにも感じられる。
扉を開けると、中の空気は出たときとほとんど変わっておらず、時間だけが進んでいるはずなのに、その変化は目に見える形では残っていない。机の上には、開いたままのノートが置かれていて、途中で止まっている文章はそのままの形で残り続けている。
椅子を引いて座ると、続きを書こうと思えば書けるはずだという感覚は変わらず残っているし、実際に書き始めればいくらでも進めることも分かっている。
それでも手が止まっているのは、書かないままでいるという状態を、自分で選び続けているからだということも、どこかでは理解している。
真緒は何も言わずに店の奥へ進み、そのまま席に腰を下ろす。その動きに迷いはなく、ここに来ること自体が特別な選択ではないように見える。
ペンを手に取り、ノートに視線を落とす。
書けないわけではないという感覚と、書かないままでいるという状態が、同時に存在していることははっきりしている。さっき言葉にしたことをそのまま書けばいいはずなのに、それを文字として固定することに対して、わずかな違和感が残り続けている。話したときの言葉は、その場に応じて揺れ続けていたのに、書いた瞬間にそれが動かない形として残ってしまうことが、同じ行為であるとは思えない。
ペン先を紙の上に近づけ、そのまま一度だけ触れさせる。
今度は止めずに書き出せるような感覚がわずかに立ち上がるが、そのまま続けるための方向が定まらないまま、線になりかけたインクが途中で途切れ、その痕だけが残る。
そのままペンを置き、椅子の背に体重を預ける。
少しだけ視線を外し、店の中を見渡す。特に変わったものは何もないはずなのに、さっきまでとは違う位置から見ているような感覚だけが残る。
再びノートに視線を戻す。
書くための言葉はあるはずなのに、それでも書かないままでいるという状態が崩れない。書いてしまえば進めることはできるはずなのに、その最初の一行をどこに置くのかが決めきれないまま、その選択そのものを先送りにしている。
視線を上げると、真緒は変わらずそこにいる。
こちらを見ているわけでもなく、何かをしているわけでもないのに、そのままの状態でそこにいることだけが、はっきりと意識に残る。
「書かへんの?」
短く落ちた言葉は、それ以上広がることなく、その場に留まる。
「書こうとはしてる」
そう返すと、「ふーん」とだけ返ってきて、それ以上は続かない。
そのやり取りはすぐに終わるが、何もなかった状態とは違う形で、空気の中に残り続ける。
ノートに視線を戻し、さっき触れた位置から続きを書こうとするが、その一行をどう始めるのかが決まらないまま、思考だけが同じ場所に留まり続ける。書くための言葉は確かにあるはずなのに、それをどの順序で置くのか、その形を決めることが、いまの状態をひとつに固定してしまうように感じられて、その手前で止まる。
戻ってきたはずなのに、戻る前と同じ場所にはいないという感覚だけが、はっきりと残る。
その違いを言葉にすることはできないが、同じやり方では進めないことだけは分かっている。
それでも、まだ書かないままでいるという選択を崩さずに保ったまま、時間だけが静かに積み重なっていく。
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