第21話 触れてしまう形
ノートを閉じたままにしておくつもりだったはずなのに、気づけばもう一度開いている。昨日書いた続きではなく、その横に置いた言葉が、ページの中で少しだけ浮いて見える。流れに沿っていないせいか、前後と結びつかないまま、その一行だけが別の位置にあるような感覚が残っている。
書いたときには、それでいいと思っていた。繋げずに置くことで、何かを無理にまとめずに済むような気がしていたし、そのほうが今の状態に近いとも感じていた。けれど、こうして時間を置いて見返してみると、その言葉がどこへ向いているのかが分からない。前に書いたものと繋がっていないのは分かるが、ではそれが単独で成り立っているのかと言えば、そうでもないように見える。
誰に向けているのかが曖昧なまま、ただそこに置かれている。
その曖昧さは、これまでの書き方ではあまりなかったものだった。整えることで流れを作っていたときには、少なくとも読む側の位置は想定できていたし、どこから読んでも意味が繋がるようにしていた。それが今は、その前提ごと外れている。
視線を落としたまま、その一行をもう一度なぞる。言葉としては分かるはずなのに、その意味がどこで止まっているのかがはっきりしない。書いたときの感覚は残っているのに、それをどう扱えばいいのかが決めきれないまま、指先だけがページの端を軽く押さえている。
このまま続きを書けば、どこかでまた繋がるのかもしれない。そう思いながらペンを持ち上げかけて、すぐに止める。その動きが途中で止まること自体に、昨日まではなかった理由が混ざり始めていることに気づく。
入口のほうで扉の開く音がする。振り返るよりも先に、そのあとに続く足音で誰が来たのかは分かる。いつもと同じ速さで、同じように奥まで進んでくるその気配は、ここに来ることが特別な動作ではなくなっていることをそのまま示している。
真緒は何も言わずに椅子を引き、向かいに座る。視線は自然にノートへ落ちていくが、覗き込むような動きではなく、そこにあるものをそのまま受け取るような距離の取り方だった。
「開いてるんやな」
短くそう言って、視線だけを少し動かす。
「昨日の続きやなくて、その横に書いたやつや」
「……そっちか」
それ以上はすぐに続かない。言葉が途切れたまま、少しのあいだだけ空気が残る。その静けさは居心地が悪いわけではないが、どこかで触れてはいけないものの近くにいるような感覚が混ざる。
「繋げてへんのに、置いたままになってる」
「うん」
「これ、どう読むもんなんやろな」
問いかけというよりも、自分に向けて確かめているような言い方になる。
「どうって……。そのままちゃの?」
「そのままか」
真緒はそれ以上踏み込まない。けれど、その言い方の中に、無理に形を決めなくてもいいという含みがあるのは分かる。その距離の取り方が、逆に少しだけ引っかかる。
その一行をもう一度見直す。内容としては、特別なことを書いているわけではない。ただ、どこかで“誰か”を想定している気配がある。その相手が誰なのかを考えたときに、はっきりと名前が出てくるわけではないが、曖昧な輪郭の中に、一つだけ重なるものがある。
目の前にいる相手。
そのことに気づいた瞬間、さっきまでとは少し違う重さが生まれる。書いたときにはそこまで意識していなかったはずなのに、こうして見返したときに、その言葉がどこへ向いているのかが急に限定されてくる。
「……これ、誰に向けて書いたんやろな」
口に出してみると、その問いはそのまま目の前の相手に向いてしまう。
「誰って、決めて書いてたん?」
「決めてへん。でも、今見たら、なんか……」
言い切る前に止める。はっきり言葉にしてしまうと、そこで形が固まりすぎる気がする。
「なんか、こっち向いてる感じする」
言ったあとで、少しだけ後悔に近いものが残る。その言葉を受け取る側の位置を、はっきりと決めてしまったような感覚がある。
真緒はすぐには答えない。視線はノートの上に落ちたまま、その一行をゆっくり追うようにしてから、少しだけ顔を上げる。
「そう見えるなら、そうなんちゃう」
軽く返したように聞こえるが、その言い方は距離を取っているわけでも、踏み込んでいるわけでもない。どちらにも寄らない位置に、そのまま置かれている。
「でも、それって変わるやろ?」
「何が?」
「向きが決まったら、その時点で、もう別のもんになる気する」
言いながら、自分でもその意味を確かめている。書いたときには曖昧だったものが、読む側を想定した瞬間に形を持つ。その形は分かりやすくなるが、その代わりに、さっきまで残っていた揺れは消えてしまう。
「読む側が変わったら、見え方は変わるやろな」
「それだけやったらええんやけどな」
そこまで言って、少しだけ言葉を選ぶ。
「これ、もしお前のことやったとしたら」
その一言で、空気がわずかに変わる。重くなるわけではないが、今まで触れていなかった部分に手がかかるような感覚がある。
「書いた時点で、もう違う形になってる気する」
真緒は黙ったまま、その言葉を受け取る。すぐに否定するわけでもなく、肯定するわけでもない。そのまま置かれている。
「さっきまで普通に話してたのに、それ書いたら、あとで読むときには、もうそのときのままでは見えへんやろ」
「……せやな」
短く返されるその一言に、はっきりした抵抗はない。ただ、そのまま受け入れているわけでもない。
「前にも、似たことあった気する」
ふと口をついて出る。はっきりとした記憶ではないが、似たような場面があったという感覚だけが残っている。
「なんか書いて、それ見せたか見せてへんかは覚えてへんけど、そのあとちょっとだけ変わった気がする」
何が変わったのかまでは思い出せない。ただ、同じではいられなかったという感触だけが、ぼんやりと残っている。
「それ、覚えてる?」
問いかけると、真緒は少しだけ考えるように視線を外す。
「はっきりとは覚えてへんな。でも、なんか変わったっていうのは、分かる気する」
その答えは曖昧だが、完全に外れているわけではない。その曖昧さが、逆にそのときの状態に近い。
ノートに視線を戻す。その一行は、さっきと同じ形でそこにあるはずなのに、見え方だけが変わっている。書いたときにはただ置いただけの言葉が、今は何かを指しているように見える。
書けば残ると思っていた。その残り方が、同じものをそのまま保つものだと考えていた。けれど実際には、書いた瞬間に、そこにあった関係ごと別の形に変わっているのかもしれない。
「……これ、このまま続き書いたら、どうなるんやろな」
自分に向けて言うように呟く。
「分からん。でも、今のままとは違う形になるやろ」
「やっぱりな」
予想できる答えであっても、口にされることで、その方向がはっきりする。
「書いたら残る。でも、そのときのままでは残らへん」
「うん」
「それやったら、これ以上書いたら、今のこれとは違うもんになる気する」
そう言ってから、ペンを持ち上げる。けれど、紙に触れる前に、また止まる。その動きは迷いというよりも、確かめているような遅さを持っている。
書くこと自体が問題なのではなく、その結果として何が変わるのかが見えてしまっている。その見え方が、手を止める理由になっている。
しばらくそのままの状態でいると、真緒が小さく息を吐く。
「別に、書いたらあかんわけちゃうやろ」
「分かってる。でもな」
そこで言葉が止まる。
「書いたら、ちょっと距離変わる気する」
はっきりとした確信ではないが、そうなる可能性があることは感じている。その変化がいいものかどうかは分からない。ただ、今の状態とは違うものになることだけは、ぼんやりと分かる。
真緒はそれ以上何も言わない。その沈黙は重くはないが、簡単に埋められるものでもない。
ノートをゆっくりと閉じる。強く決めたわけではなく、今はこのままにしておくほうがいいと感じたから、その動きに従っただけだった。
書かないと決めたわけではない。ただ、この場で、この相手の前で、続けることが今は少し違う気がした。
閉じたノートの上に手を置いたまま、その感触を確かめる。中にある言葉は消えないが、そのままでも変わらずに残るわけではない。そのあいだにある状態を、どう扱えばいいのかはまだ分からない。
ただ、今はもう少し、このままにしておくほうがいいと思った。
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