第20話 坂の上から降りてくるもの
入口のほうで扉が開く音がして、それに続く足音が、迷いのない速さで店の奥へと近づいてくる。その音は大きいわけではないのに、店の中にある他の気配よりも少しだけ輪郭がはっきりしていて、意識しなくても自然とそちらへ引き寄せられる。
音を聞いてから顔を上げるまでのわずかなあいだに、来る人物が誰であるかはほとんど分かっていて、その予想が外れることはないという確信に近い感覚だけが、静かに先に立つ。
視線を向けたときには、真緒はもう中に入っていて、そのままこちらへ歩いてきていた。その動きには途中で立ち止まる気配がなく、考えながら選んでいるというよりも、すでに決まっている流れの上をなぞっているように見える。ここへ来ること自体が一つの習慣になっているというよりも、来るまでの過程ごと含めて、一続きの動きとして保たれているようだった。
この時間に来ることも、そのまま席に着くことも、何かを確かめるようにノートへ視線を落とすことも、あらかじめ決めていたわけではないはずなのに、何度も繰り返されるうちに形として落ち着いてしまったように見える。その落ち着き方が、意識して作ったものではない分だけ、崩れにくいものとして残っている。
椅子を引いて座ると、真緒はすぐに机の上のノートへ目を向ける。開かれていない状態のままでも、どこで止まっているのかを確かめるような見方で、その視線は一度触れただけで離れるものではなく、ほんのわずかに留まりながら、中にあるはずの流れをなぞろうとしているようにも見える。
「今日もそのままやな。続き、まだ書いてへんのやろ?」
「書くつもりはあるけどな。どこまで整えるか、まだ決めきれてへん」
「昨日のやつ、形はできてたやん。読みやすかったし、流れも止まらんかった」
整っていることは確かで、その評価自体は間違っていない。それでも、そのまま受け入れてしまうには、どこかに引っかかりが残る。整えたことで、言葉の並びはきれいに繋がっているはずなのに、その奥にあったはずの迷いやためらいが、うまく表に出ていないような感覚が消えきらない。何かが欠けているというよりも、少しだけ静かになりすぎているような、そんな違和感だった。
以前にも、似たような違和感を覚えたことがあった気がする。言葉にしたあとで、それが本当にそのときの自分のままだったのかどうか、あとから確かめようとして、結局分からなくなるような感覚。そのときも、たしか目の前にいたのは同じ相手だったはずで、その場では納得して終わったのに、時間が経ってから少しだけ引っかかりが残ったまま消えなかった。
「そうやけどな、なんか違う感じが残ってる」
「分かるで。綺麗やけど、その分、こぼれてるもんもある感じやろ?」
「そこがはっきりせんままやから、続きに手ぇ出せへん」
短いやり取りの中で、答えには進まないまま、引っかかっている場所だけが共有される。その位置がずれないまま保たれていることが、むしろ今は重要で、無理に結論へ寄せてしまわないほうが、この状態には合っているようにも思える。
真緒はノートから視線を外しきらないまま、少しだけ姿勢を変える。その動きは落ち着いているが、どこかで完全には離れきっていないようにも見える。そこにあるものを見ているというよりも、そこにあったはずの流れを確かめているような、そんな距離の取り方だった。
「今日も、この時間やな。坂から来たんやろ?」
「うん。遅れたらそのまま出えへん気するねん。勢いあるうちに降りてこんと、動かれへんくなる」
「家おったら、そのまま止まってまう感じになるんか」
さっきまでの話と切り離されているわけではなく、むしろ同じことが別のかたちで繰り返されているように続く。場所が変わるだけで、起きていることの構造は似ているという感覚が、言葉の選び方を通して静かに重なる。
「静かなんはええんやけどな、ずっとおったら逆やねん。何もしてへん時間だけが残ってくる感じになる」
「時間が余るってことか?」
「余るっていうより、戻ってくる感じやな。前に考えたこととか、終わったはずのこととか、順番に繋がっていって、気づいたら一つにまとまってまう」
まとまること自体は、分かりやすくもあり、楽でもある。けれど、そのまとまり方は、いくつかの揺れや迷いを、そのまま置いていくかたちになる。きれいに繋がったぶん、途中にあった引っかかりや、言葉になりきらなかった部分は、その場に残らずに流れていく。
その話を聞きながら、ふと、以前に同じように『まとまってしまった』ことを思い出しかける。
あのときも、こうして向かい合って話していたはずなのに、どこで終わったのかが曖昧なまま、そのまま別の形に変わってしまった。そのあとで何を話したのかも、はっきりとは思い出せない。ただ、何かをそのままにしておいたという感覚だけが、ぼんやりと残っている。
「まとまるんは、ええことなんちゃうんか?」
「楽にはなるで。でもな、それで終わったことにしてまうねん」
「……終わったことにしたってことか」
言葉にしてみると、その違いが少しだけ見えてくる。終わるのと、終わったことにしてしまうのは、似ているようで、ほんのわずかに向きが違う。その差は小さいが、あとに残るものの形を変えてしまうほどには大きい。
「そうやな。でも、それ決めたのはそっちやろ」
「……」
「うちは、まだ終わってへんけど」
その一言で、それまで曖昧にしていた位置が、少しだけ形を持って見えてくる。どちらとも言えたはずの状態が、そのままでは保ちにくくなり、どこかに寄ることを求められるような感覚が生まれる。
何か言おうとしても、すぐには言葉にならない。以前にも似た場面があった気がする。そのときも、同じように言葉を選びきれず、そのまま時間だけが流れていった。その結果どうなったのかは、はっきりとは思い出せない。ただ、何も言わなかったことだけが、あとになって残っている。
やがて、会話はそれ以上深く入り込むことなく、自然に元の位置へ戻っていく。
「ここやと、途中で止まるやろ。きれいに繋がらへんまま、引っかかる感じになる」
「せやな。流れはあるのに、どこかで止まる」
「それやったら、終わってへんって分かるし、そのまま残る気がする」
整えれば終わる。止めたままにしておけば、その途中が残る。そのどちらかだけではなく、そのあいだにある状態が、ここではそのまま保たれているように思える。
ノートに手を伸ばしかけて、少しだけ止める。開けば整える流れに戻っていく。閉じたままにしておけば、この引っかかりはそのまま残るが、何も進まないままになる。そのどちらも分かっているからこそ、すぐには動かせない。
どちらかを選ぶというよりも、そのどちらにも寄りきらない位置があるのかもしれないと思いながら、ゆっくりとノートを開く。
止まっていた文章の続きを書くのではなく、少しだけ横にずらした位置に、新しい言葉を置いていく。流れを無理に繋ぐのではなく、そのときに浮かんだものを、そのまま並べていくような書き方になる。
整えきらないまま残すことと、何も書かずに流してしまうことは同じではない。そのわずかな違いを確かめるように、止まっていた場所のすぐ隣に、まだ形になりきっていない言葉を、ひとつずつ静かに置いていく。
その並びはまだまとまってはいないが、前とは少しだけ違う形で、ここに残り始めているように見えた。
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