第19話 交差の先にあるもの
言葉は続いているのに、進んでいないという感覚だけが残っていた。さっきまで確かに辿っていたはずの流れを思い返そうとすると、最初と最後の輪郭はぼんやり掴めるのに、そのあいだの繋がりが同じ順番では戻ってこない。
消えたわけではないはずなのに、言い直した瞬間に並びが変わり、そのまま少しずつ別の形へとずれていく。そのずれを自覚したまま言葉を重ねていると、どこかで既に通った場所に戻ってきている感触が混ざり、結局同じところを回っているだけだと分かる。
机の上のノートは閉じたまま置かれている。開いていないのに、そこにあるというだけで、言葉がどこかで整えられる前提が消えきらない。書かないと決めているはずなのに、書くための並び方から完全には離れられていない。その状態で続けている限り、どれだけ言い換えても、出てくる形は似たものに寄っていく。
店の中は静かで、外の通りの気配だけがガラス越しに薄く伝わってくる。人が通る影が時折揺れているはずなのに、その動きは意識の手前で止まり、具体的な像としては結ばれない。ここにいる限り、外の流れはあくまで遠くのものとして処理され、内側の時間だけが同じ速度で循環し続ける。その均された状態が、考えを安定させる一方で、同じ形に引き戻す力として働いていることにも気づく。
視線をわずかに動かすと、壁際の棚や、使い慣れた椅子の位置、机の角の傷に至るまで、すべてが決まった場所に収まっている。変わらない配置の中で話していると、言葉もまた同じ場所に落ちていく。ここでは、外れるという動きそのものが起きにくい。新しいことを考えているつもりでも、その実、これまでと同じ軌道の中で回っているだけだという感触が、少しずつはっきりしてくる。
真緒も同じように感じているのか、机に肘をついたまま、視線をどこにも定めずに言葉だけを続けている。その声の調子は変わらないが、話している内容よりも、その場に留まり続けていること自体に、わずかな違和感が混ざり始めているのが分かる。
「さっきから、同じとこ戻ってるな」
「戻ってるな。言い方は変わってるけど、同じ話をなぞってるだけや」
「ここにおる限り、この形から外れへん気がするわ。机もノートもそのままやし、流れごと固定されてる」
真緒の言い方は曖昧だが、指している方向ははっきりしている。整った場所にいる限り、整った形に引き戻される。考え方の問題ではなく、場所ごと同じ動きを繰り返している。
その言葉を受けて、ノートに視線を落とす。閉じられたままの表紙は何も語らないが、そこに書かれるはずだった形だけは、まだ残っているように感じられる。書かないと決めたことで自由になったはずなのに、その自由が別の形で縛りとして残っている。ここにいる限り、その前提から完全に離れることはできない。
椅子に座ったままでは、そのことを確認するだけで終わる気がした。考え方を変えるよりも先に、位置を変えたほうが早いのではないかという判断が、言葉になる前に立ち上がる動きとして現れる。
「……一回、外出るか。このままやとまた同じになる」
「ええやん。書かへん日って決めてるんやし、そのほうが変わるやろ」
選んだというより、流れを切るために動いた。ノートには触れないまま立ち上がり、そのまま店を出る。扉を抜けた瞬間、さっきまで続いていた連なりが一度途切れる。
外に出ると、光の濃さが場所ごとに違うことに気づく。店の中では均されていた明るさが、通りでは建物の影や人の動きによって細かく変わる。視線もそれに合わせて自然に動く。さっきまでいた場所の感覚が、少しずつ離れていく。
六間道は東西にまっすぐ伸びている。通りに出ると、視線は左右へと広がるが、その広がりは散らばるものではなく、一定の高さで揃えられた建物の連なりによって、どこまでも同じ調子で続いていく。遠くまで見通せる直線の中で、人の動きだけがゆるやかに流れている。
六間道は東西にまっすぐ伸びている。通りに出ると、視線は左右へ広がるが、その広がりは散らばるものではなく、一定の高さで揃えられた建物の連なりによって、どこまでも同じ調子で続いていく。遠くまで見通せる直線の中で、人の動きだけがゆるやかに流れている。
歩き出すと、進んでいるというよりも、流れに乗って横へ移動している感覚になる。どちらへ進んでも大きな変化はなく、ただ同じ調子が続く。その均一さの中では、言葉もまた、同じところへ戻りやすい。
「さっきの続き、あるにはあるけど、もう順番は崩れてるな」
「崩れてるけど、切れてはないやろ。同じことは話してる」
「でも同じ形では出てこん。戻ろうとした時点で、もう別もんになってる」
言葉にしながら、その変化をそのまま確かめている。思い出そうとした瞬間に、すでに別の順番で組み直されている。さっきまでそこにあった流れは、同じ形のままでは取り出せない。
六間道の途中で、身体の向きを変える。流れに逆らうというほどではないが、そのままでは続かない方向へと足を踏み出す。角を曲がった瞬間、視界の構造が切り替わる。
横に広がっていた視線が、今度は前へとまっすぐ伸びる。
通りの向きが変わる。それだけで、同じ街の中にいながら、別の場所に入ったような感覚が生まれる。
六間道商店街が東西に対して、大正筋商店街は南北に伸びている。二つの通りは繋がっているが、向きが違うだけで、身体の使い方も、見え方も変わる。横へ広がる通りから、奥へ引き込む通りへ。進める方向が一本に絞られ、その奥行きがそのまま視線を引き延ばしていく。
ここからが大正筋商店街だと分かっている。店をやっていれば、知らないはずがない。ただ、その“知っている場所”が、歩き方によって違って見える。
「同じまっすぐでも、こんなに違うんやな」
「六間道は横に流れるけど、こっちは前に押される感じやな」
歩いていると、戻るよりも先へ進むほうが自然になる。立ち止まらない限り、奥へと引き込まれる感覚が続く。
通りは整っている。建物の高さも揃い、並びも均一で、見た目だけなら崩れる要素はない。それでも歩いていると、どこかで均一になりきらない部分があることに気づく。人の流れに偏りがあり、開いている店と閉まっている区画が混ざり、その配置にわずかな空白が生まれている。
視線を上げると、上階にいくほど気配が薄くなる。窓は並んでいるのに、その奥に動きがない。下の階には確かに人の営みがあり、店が開いているが、その上に行くほど空間だけが残っている。
「でも、全部埋まってる感じはせえへん」
真緒の言う違和感は、見た目ではなく、連なりの中にある途切れから来ているようだった。
大正筋商店街は、阪神・淡路大震災のあとに再開発された場所だということは知っている。神戸市が主導して、アスタくにづかという複合施設として作り直された通りであることも、店をやっている以上、知らないわけではない。ただ、それはあくまで知識であって、実感として持っているものではない。
俺も真緒も、震災のあとに生まれている。
「前はもっと違ったらしいって聞くけどな」
「らしいっていう話しか持ってへんな、俺ら」
「うん。うちは震災のあとやし、最初からこの形しか知らん。それに、うちの地元やないからな、よう知らんわ」
それでも、途中で切れた場所だという感覚だけは、歩いていると分かる。整えられているのに、どこかで繋がりきらない。その違和感は、見てきたものではなく、残り方の問題として感じ取っているものだった。
再開発によって街は近代化し、人口も増えたと聞く。一方で、商業床が埋まりきらず、長い時間をかけてもかつての活気は戻っていないとも言われている。巨額の赤字が残ったという話もあるが、それもまた、数字として知っているだけだ。
目の前にあるのは、整えられた通りと、その中に生まれた空白でしかない。
「全部うまくいってるって感じではないな」
「でも、全部あかんとも言い切れへんやろ」
そのまま否定も肯定もせずに残す。整えられたものと、残りきらなかったもの。その両方が同時にある状態を、そのまま受け取るしかない。
歩きながら続けると、さっきまで店の中でしていた話が、別の形で現れてくる。同じ内容のはずなのに、言葉の並びが変わり、少しずつ違う輪郭を持ち始める。
「似てるな」
「何が」
「さっきの話。整えたら分かりやすくなるけど、その分消えるもんがあるってやつ」
「ああ……」
視線を前に向けたまま、言葉だけが少し遅れて出てくる。
「ここもそうやな。整ってるけど、全部は残ってへん」
「でも、何も残ってへんわけでもない」
その言い方が、今見ているものに一番近かった。
通りを抜けると、流れが一度区切られる。一直線に続いていた視界が途切れ、その先に別の空間が開ける。
さらに進むと、遠くに大きな影が見えてくる。
近づくにつれて、その形が変わらずにそこにあることがはっきりしてくる。周囲の建物や人の動きとは無関係に、同じ姿で立ち続けているもの。
足を止める。
鉄人二十八号のモニュメントは、どこから見ても同じ形でそこにあった。
「……これは、変わらへんな」
「最初から最後まで同じやな」
さっきまで歩いてきた通りを思い出す。変わりながら続いていた場所と、ここで止まったままの形。その違いが、並べてみるとはっきりする。
「さっきのとことは、だいぶ違うな」
「あっちは変わりながら残ってた。でもこれは、変わらんまま残ってる」
鉄人は増えもしないし、減りもしない。ただ同じ形を保ち続ける。その代わりに、失われるものもない。
一方で、大正筋商店街は変わりながら残っている。整えられたことで失われたものもあり、残りきらなかった空白もあるが、その分だけ動きが続いている。
「同じ“残る”でも、やり方が違うな」
「せやな。どっちも残ってるけど、同じではない」
風が通り抜け、周囲の音がわずかに揺れる。その中で、目の前の形だけが動かないままそこにある。
店の中で考えていたことが、場所を変えただけで別の形として現れている。書けば固定される。書かなければ流れていく。そのどちらかしかないと思っていたが、実際には、そのあいだにも形がある。
変わらないまま残るものと、変わりながら残るもの。
そのどちらもが同じ時間の中に並んでいる。
どちらが正しいかを決める話ではない。どちらか一方に寄せる必要もない。ただ、そのあいだにある揺れを、そのまま扱えるかどうかだけが残る。
鉄人を見上げながら、しばらくその場に立ち続ける。
ここでは、形は動かない。
それでも、見ている側の中でだけ、少しずつ位置が変わっていく。
そのズレを、そのまま持ち帰るしかないのだと思った。
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