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<全30ep> やさしい記録のつくり方  作者: 第三ひよこ丸


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第18話 流れてしまう言葉

 朝の空気は昨日とほとんど同じはずだったが、店の中に入ったときに感じる輪郭だけが、わずかに遅れて重なってくるように思えた。見慣れているはずの机の位置も、壁に沿って並ぶ棚の高さも、頭の中ではすでに分かっているはずなのに、それが、”ここにあるもの”として実感に落ちてくるまでに、一拍分の遅れが挟まる。その遅れは、意識していなければ気づかない程度のものにすぎないが、一度気づいてしまうと、完全には消えずに残り続け、視界の奥でわずかにずれたままの感覚を保っている。


 机の上にはノートが置かれている。昨日と同じ場所に置いたはずで、配置も何も変えていないのに、その存在だけがやけに前へ出てくる。

 距離としては変わらないはずなのに、手を伸ばせばすぐに触れられるという感覚だけが強調されていて、それが選択を促すようにこちらへ迫ってくる。触れるかどうか、その判断が保留のまま前に差し出されているような状態で、意識の一部がそこに引き寄せられていく。


 触れないと決めている。


 その判断は、昨日のうちに終えていたはずだった。

 

 書けば形になる。

 形になれば残る。

 

 その単純な流れの中で、どこかを削り落とし、別の部分を強調することになる。その変化が避けられない以上、一度それを止めてみるという選択は、自然なもののようにも思えた。だが、その判断に至った過程を思い出そうとすると、途中から先がうまく繋がらない。納得して決めたはずなのに、その納得の中身が抜け落ちている。理由はあるはずなのに、その理由がどこに置かれていたのかが分からない。


 思考の流れの中に、空白がある。


 それは、考えなかったというよりも、考えたはずの部分だけがきれいに削り取られているような感覚だった。最初の位置と、結論にあたる部分は残っているのに、そのあいだにあったはずの連続が途切れている。その途切れを埋めようとして、同じ場所を何度も辿り直すが、同じ順番では戻らない。辿ったはずの経路が、そのたびに少しずつ変わっていく。


 どこで変わったのかは分からない。ただ、同じではないということだけが、確かに残る。


 その状態のまま、意識は少しずつ内側へと寄っていく。外の音や気配は確かに存在しているはずなのに、それらが連続として認識される前に、内側の思考に引き戻される。その繰り返しの中で、外に起きている出来事が、ひとまとまりの結果としてしか届かなくなる。


 だから、気づけなかったのだと思う。

 音が鳴ったかどうかは分からない。扉が開いたかどうかも、はっきりしない。誰かが入ってきたはずのその一連の流れが、連続としては存在せず、途中を飛ばした形でしか認識に上がってこない。


 視線を上げたときには、すでにそこに人がいる。 その状態だけが、完成された結果として置かれている。


 真緒だと分かるまでに、ほんのわずかな遅れがある。見慣れているはずの姿なのに、それが『真緒である』と認識に重なるまでに、一瞬の間が必要になる。その間は短いが、確実に存在していて、そのぶんだけ『いつ来たのか?』という連続が欠けている。


 来たことは分かるのに、来た瞬間が分からない。

 その不自然さは、時間がずれたというよりも、途中が削られた結果として生まれているように感じられた。


 真緒はすでに椅子に座っている。いつもの位置に、いつものように体を預けている。その動きも視界に入っていたはずなのに、順序としては思い出せない。立っていた状態から座るまでの連続が、一つのまとまりとして処理されていて、細部が抜け落ちている。


「ほんまに書かへんのやな。机見たら分かるわ。ノート閉じたままやし、昨日言ってたやつそのままやるつもりなんやろ」

「うん、書かんで話すだけにしてみようと思ってる。どうなるか分からんけど、今はそれでええかなって思ってる」

「ええやん、それでええと思うで。なんかちょっと変な感じするけどな。いつもと違いすぎて」


 言葉は自然に続いていく。内容も理解できるし、返すことにも困らない。だが、そのやり取りをあとから辿ろうとすると、どこかで途切れてしまう。最初の位置には戻れるが、その先が曖昧になる。さっき交わしたはずの言葉が、順番として再現できない。


 断片は残っている。

 だが、繋がりが弱い。


「もうすでに変やな。いつもやったらこのへんで何書くか考えてるし、話しながらでもどこ残すか決めてるのに、それがないだけで始まり方が分からん」

「分からんよな。“いつもみたいに”って言おうとしても、その“いつも”が書く前提やったから、それ抜けたら別もんになってる感じする」

「そうやねん、普通に話してるだけのはずやのに、どこまで話したか分からんし、まとまってへん感じがずっと残ってる」


 会話は続いている。途切れてはいない。それでも、終わったあとに同じ形で取り出せる気がしない。流れている最中には確かに存在しているのに、少し離れた位置から見ようとした瞬間に、形が崩れていく。


 ノートに手を伸ばせば、その一部を固定することはできるだろう。だが、その時点で、それは今とは別のものになる。思い出せる範囲で繋ぎ直された流れは、元の連続とは違う。

 その違いを避けるために書かないと決めたはずなのに、書かないことで失われていくものも、同時に見えてくる。


「なあ、さっき何話してたか覚えてる?」

「最初は覚えてるけど、そのあとがちょっと曖昧やな、途中が抜けてる感じする」

「そうやろ。なんか話は続いてるはずやのに、戻ろうとしたら繋がらへんねん」

「断片はあるけど、順番が分からん感じやな」


 確かめ合うように言葉を重ねるほど、その曖昧さははっきりしてくる。記憶が消えているわけではない。ただ、同じ形で残っていない。意味は近いのに、位置が違う。


「書いてへんだけで、こんなに変わるんやな」

「残らんって、こういうことなんやろな。その場ではちゃんとあったはずやのに、今戻ろうとしたら別のもんになってる」

「今のこれも、あとで思い出したらまた変わってるんやろな」


 残すか、流すか。


 そのどちらかを選べば解決する問題ではないことが、ようやく実感として落ちてくる。どちらを選んでも、同じにはならない。残せば変わるし、流せば薄れる。

 それでも、今ここにあるものは確かに存在している。その場にいる二人のあいだで共有されている何かがあり、それは言葉として固定されていなくても、確かなものとして感じられる。


「なあ、今から書いたらどうなると思う?」

「たぶん、さっきとは違う形になるやろな。今思い出せる分だけ拾って繋げる感じになるし、その時点で別もんやと思う」

「やろな。さっきのそのままは無理やんな」

「でも書かへんかったら、このままどんどん曖昧になるしな」

「どっち選んでも、同じにはならへんってことか」

「そういうことやと思うで。残すか流すかで、どっちも何かは失う感じやな」


 手を伸ばしかけて、止める。その動きの中に、これまでの習慣が残っている。形にすることで安心してきた時間が、簡単には消えない。


 それでも、今はそれを選ばない。


 書かないままでいることでしか見えないものがある。その輪郭は曖昧で、はっきりと掴めるものではないが、それでも確かにここにある。


 言葉は流れていく。その流れは止めなければ形にならず、止めれば別のものになる。そのどちらでもない状態に、今は留まっている。


 そこにあるものは、まだ名前を持たないまま、しかし確かなものとして、ここに残り続けている。

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