第17話 残された形と残らなかったもの
机の上に置いたままのノートには、すでにひとつの形が残っている。
開かなくても、その中に何が書かれているのかは分かっているし、どこで区切って、どの順番で並べたのかも思い出せる。それでも手を伸ばさないままにしているのは、そこに書かれているものが、今の自分にとってどういう位置にあるのかを、まだうまく言葉にできないからだった。
書いた直後は、あれでよかったと思っていた。バラバラだった断片を並べ直し、抜けている部分を埋めて、読む側が途中で迷わないように整える。これまで何度もやってきたやり方で、特別なことをしたつもりはなかったし、むしろいつもよりも無理のない形で収まっているという感覚すらあった。
だが時間が経つにつれて、その整い方がどこへ向かっていたのかが少しずつ曖昧になり、残したはずのものと、削ぎ落としたものとのあいだに、はっきりとした差があるように思えてくる。
入口のベルが鳴る音で顔を上げると、真緒が立っていた。いつものように軽くこちらを見てから中へ入り、そのまま椅子に向かうかと思ったが、今日は椅子に座る前に机の上へ視線を落とし、そのままノートの位置を確かめるように一瞬だけ動きを止めた。
「なあ、この前書いたやつ、あるやろ? ちょっと見せて」
ためらいのない言い方だったが、押しつけるような強さはなく、すでに決まっている流れをそのまま進めるだけの自然さがあった。断る理由を考えるより先に、その言葉のほうが先へ進んでしまう。
「……ええで」
ノートを引き寄せ、開く。目的のページはすぐに見つかる。何度も触れている紙の感触が、そのまま指の中に残っている。向きを変えて差し出すと、真緒は椅子を引き寄せながら距離を詰め、そのまま視線を落とした。
読み始めてからの動きは静かだった。視線は一定の速さを保ちながら進んでいくが、ときどきほんのわずかに止まり、そのたびに言葉の並びを確かめるようにしてから次へ移る。その小さな引っかかりがどこにあるのかを、こちらは横から見ていることしかできない。
最後まで読み終えたあとも、真緒はすぐには顔を上げなかった。ページを閉じることもなく、そのまま視線を落とした状態で、小さく息を吐く。
「……綺麗やな。ちゃんとまとまってるし、どこで何が起きてるかも分かるし、読んでて止まらへん」
そこで一度言葉が途切れる。その続きが来ることは分かっているのに、急かすことはできない。
「でもなぁ、なんか、うちらじゃない気がする」
その言葉を聞いたとき、否定するより先に、どこが違うのかを自分の中で探していることに気づく。書いたときには確かにそこにあったはずのものが、今は少しだけ別の位置にあるように見える。
「整えたからやと思う。読みやすくしただけやし」
「それで変わるんやったら、それもう別のもんちゃう?」
真緒はページから目を離さずにそう言い、そのまま指先で一行をなぞるように動かした。
「ここな、このとき、こんなふうに言ってたっけ。意味としては近いんやろうけど、うちな、このときもっと止まってた気がするねん。なんか言おうとして、うまく出てこんまま、そのまま流れていったりしてたやろ?」
その場面は思い出せる。だが、そこにあったはずの“止まり方”は、このページには残っていない。
「そこは削ったんや。流れが止まると思ったからな」
「止まったらあかんの? なんでなん? 読むために消したんやったら、そのときのうち、ここにおらんやん」
言い切られたあとで、返す言葉が見つからない。意味としては近いはずなのに、そのときの空気や迷いは確かに削ぎ落とされている。その違いをどう扱えばいいのかが分からないまま、ノートの上に並んだ言葉だけがはっきりと残る。
「これな、ちゃんと分かるねん。どういう流れで、何を話して、どこで終わったか。でもな、思い出す感じとちゃうねん。思い出すときって、こんなに一回で終わらへんやん。同じとこ戻ったり、順番ぐちゃぐちゃやったりして、もっと時間かかるやん」
言われてみれば、その通りだった。思い出すときは、何度も引き返して、別のところから入り直して、ようやく形になる。それがここでは、一度の流れとして整えられている。
「これやと、一回で分かるやん。でもほんまは、そんな簡単やなかったやろ」
ノートに視線を落とす。そこにあるのは、途中で迷うことのない流れだけで、その外にあったはずの揺れや引っかかりは見えない。
「整えたほうが残ると思ってた」
口に出した瞬間、その前提が揺らいでいることがはっきりする。
「残るって、何が。分かる形にしたら、それで残ったことになるん」
すぐには答えられないまま、沈黙が落ちる。
「これ読んだら分かるで。でもな、それって“分かった気になる形”なんちゃうかなって思うねん」
真緒の声は強くないが、その言葉は避けられない位置に置かれる。
「うちな、この中におらん気がする」
その一言で、ページの上にある言葉の見え方が変わる。そこに書かれているはずの内容が、誰のものなのかが曖昧になる。
「そんなことはないやろ」と言いかけて、途中で止める。そう言い切るだけの根拠が、自分の中に残っていないことに気づく。
「うちが話したことより、あんたがまとめた形のほうが前に出てる気がするねん。これって、うちらの記録なんか、それともあんたが作った別のもんなんか、分からんくなる」
その言い方は責めるものではなかった。ただ、そこにある違いをそのまま置いているだけで、そのぶんだけ重さが残る。
ノートを閉じる。紙の重なりの中に、残したものと残らなかったものが押し込まれているような感覚がある。開けばそこにあるのは整えられた形だけで、その外にあったものはもう戻らない。
「……もう一回、書き直したら、近づくと思う?」
そう聞くと、真緒は少しだけ考えてから、ゆっくりと首を振る。
「書き直すことはできるやろうけど、それはまた別のもんになると思う。同じにはならへんやろな」
予想していた答えだった。それでも、言葉として返ってくると、選べる範囲がはっきりと狭まる。
「今あるこれを、どう見るかやと思う。これも一つやとは思うけど、これだけやと思ったら違う気がする」
その言葉は否定ではなく、位置をずらすような響きだった。残っているものをそのまま認めながら、それだけでは足りないことを示している。
ノートに手を置く。書いたものは消えないが、そこに含まれていないものまで消えたと決める必要はないのかもしれないと思う。残された形と、残らなかったもの。そのどちらもが同時に存在している状態を、そのまま受け止めるしかないのだと、ようやく分かり始める。
ページを開く。
整えられた文章のあとに、まだ触れられていない空白が続いている。その空白に何を書くのかは決まっていないが、そこに手を伸ばすことだけは、もう避けなくてもいい気がしていた。
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