第16話 ほどけない形
翌日の昼過ぎ、店に入ったとき、昨日と同じ時間帯であるはずなのに、空気の重さだけがわずかに変わっていることに気づいた。
雨はすでに上がっていて、通りに残っていた湿り気は薄くなり、入口の床に広がっていた水の跡も、完全には消えていないものの、もう新しく増えることはないという状態で止まっている。
光は雲の向こうから均されて落ちてくるようで、強く差し込むことはないが、その分だけ影はやわらかくなり、物の輪郭が少しだけ曖昧に見える。その曖昧さが、昨日と今日とを分ける線のように、はっきりとは見えないまま、しかし確実にそこにあるものとして残っている。
机の上にはノートが置かれている。昨日書いたページは閉じられたまま、その存在だけが強く意識に残る。開かなくても、どこにどんな言葉を書いたのかは思い出せる。それだけ整理されているということでもあり、同時に、もう変わらない形として固定されているということでもある。
椅子に座り、しばらくノートに触れずにいる。書いたものを見返すことはできるが、それをどう受け取るかまでは決められていない。その間にある感覚だけが、昨日からそのまま持ち越されている。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、ノートを開く。
書かれている内容は、昨日の記憶と一致している。帰り道のこと、教室の中で過ごした時間、断片として残っていたものを並べ替え、流れとして読める形にした文章。読み進めることに困る箇所はなく、どこで何が起きたのかも、ひとつの線として通っている。
読み終えたとき、まず残るのは納得だった。形になっているということへの、単純な理解のしやすさ。だが、その納得はすぐに別の感覚に押される。
(こんなふうに、途切れずに続いていただろうか?)
思い出そうとしたとき、確かに迷っていたはずの部分があった。どこからどこまでが同じ日の出来事なのか、そもそも一緒に帰ったのかどうかすら曖昧だったはずの箇所があった。その迷いは、書くときに消えている。読める形にするために、順番を決め、つながりを補い、引っかかる部分を整えた。その結果、流れはできたが、迷っていた痕跡は残っていない。
ページをめくり返しながら、そのことを確かめる。どこにも書かれていないわけではない。だが、書かれていない部分があるという事実のほうが、むしろはっきりと見えてくる。
削った記憶は、どこへいったのか。
消えたわけではないはずだが、ここにはない。ノートの上にあるのは、選ばれた形だけで、その外にあったはずの揺れは、もう参照する場所を失っている。
ちょうど、その時に入口のベルが鳴り、真緒が入って来た。昨日と同じように見えるが、今日は店に入るまでの動きに迷いがない。通りのほうを振り返ることもなく、そのまま中へ入り、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「もう見てるんやな。昨日のやつ、そのまま残ってるんやろ」
「さっき開いたとこや。書いた内容は覚えてるけど、改めて見たら、ちょっと違って見える」
「見てええ? どうなってるんか、自分でも確認したいねん。昨日の話と、ちゃんとつながってるかどうかも含めて」
自然な流れでノートを差し出すと、真緒はそのまま受け取り、ページを開く。許可を待つというより、すでに読むことを前提にした動きで、そのことに違和感はない。
視線が文字を追っていく。読み進める速度は一定ではなく、ところどころでわずかに止まり、言葉の並びを確かめるようにしてから先へ進む。その止まり方が、どこで何を感じているのかをそのまま示しているように見える。
最後まで読み終えると、ノートを閉じずに手を置いたまま、小さく息を吐く。
「……綺麗やな。ちゃんと流れてるし、読んでて迷わへんし、途中で引っかかるとこもない。でもな、こんな感じやったかって聞かれたら、ちょっと違う気がする。まとまりすぎてるというか、最初から全部分かってたみたいに見える」
言葉は続いているのに、その中で何かが引っかかっているのが分かる。その違和感は、さっき自分が感じたものと同じ場所にある。
「整えたからやと思う。読めるようにするために、順番決めて、抜けてるとこ埋めて、流れとしてつながるようにした。その分だけ、迷ってたとこは削ってる」
「ちゃうやろ。削ったっていうより、最初からなかったことみたいになってる。迷ってた感じとか、分からんままやった部分とか、ほとんど残ってへんやん。それやと、あとから読んだときに、ずっと同じ形で思い出すことになるで」
その言い方は強くはないが、避けようのない指摘として置かれる。
ノートの上に視線を落とす。書かれているのは、確かにひとつの形だ。だが、それが唯一の形であるかのように見えることに、問題があるのかもしれない。
「書いてへんとこがある」
そう言うと、真緒は小さくうなずく。
「あるやろ。それがあかんって言いたいわけちゃうねん。まとまってるほうがええ場面もあるし、読む側のこと考えたら必要なんも分かる。でもな、これだけやと、ほんまにあった揺れが消えてまう気がするねん。分からんままやったとことか、迷ってたとことか、そのまま置いとく形もあってええんちゃう?」
その言葉は、昨日までのやり取りの延長にあるが、少しだけ位置が変わっている。否定ではなく、別の形の提示として置かれている。
すぐには答えない。ノートに書かれている文章と、そこに書かれていないものとを、同時に見ようとする。だが、見えるのはあくまで書かれた側だけで、削られた側は、輪郭だけを残して曖昧なままに広がっている。
「残ってへんわけやない。でも、このページにはない」
「そうやろ。だからな、それをどうするかって話やと思うねん。全部まとめてしまうんか、それとも分からんままのとこも一緒に置いとくんか。どっちが正しいかは分からんけど、今の形やと、ひとつに決めすぎてる気がする」
真緒はそこで言葉を止める。それ以上押し込むことはせず、判断をこちらに戻すような間の取り方だった。
ノートを見つめたまま、しばらく動かない。書いてしまったものは消せない。それを否定することもできるが、それでは何も残らない。だからといって、このまま受け入れるだけでいいのかどうかも分からない。
ページの余白に目がいく。まだ何も書かれていない空間が、思っていたよりも広く残っている。その余白は、何かを追加するための場所として、静かに開かれている。
ペンに手を伸ばすが、すぐには書かない。書こうとすれば、また整えてしまう可能性がある。その繰り返しになるのではないかという迷いが、手を止める。
それでも、完全に手を離すことはしない。
「……分からんまま書くって、できるんかな?」
口に出すと、真緒は少しだけ考える。
「できるかどうかは分からん。でも、やってみるしかないんちゃう。今までと同じやり方であかんって思ったんやったら、違う形試してみるしかないやろ? うまくいくかどうかは、そのあとで考えたらええやん」
言葉は柔らかいが、内容ははっきりしている。逃げ道を残しつつも、止まったままでいることを選ばせない言い方だった。
小さくうなずき、ノートに視線を戻す。
整えられた文章のすぐ下に、空白がある。その空白に、何を書くのか。あるいは、どこまで書かないままにするのか。その境目を、自分で決める必要がある。
ペン先を紙に近づける。
昨日のように、流れをつくるための言葉ではなく、迷っている状態そのものを置くことができるかどうかを、確かめるように。
まだ、形にはならない。
それでも、書き始める前の位置に戻ることは、もうできないということだけは分かっている。
ノートの上には、整えられた過去と、まだ形になっていない余白が並んでいる。そのどちらも同じ場所にありながら、同じものではない。
その間にあるものをどう扱うのか。
その問いだけが、次に進むための形として、静かに残っていた。
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