第14話 同じことの繰り返し
机の上には、昨日と変わらない位置にノートが置かれている。触れればすぐに開ける向きのまま、ただ時間だけがその上に重なっている状態で、書こうと思えば書けるという条件だけは、ここ数日ずっと変わらずに保たれている。
内容は確実に増えているはずなのに、形としては何も残っていないという事実が、そのままノートの軽さとして手元にある。
”同じ状態が続いている”という認識は最初に浮かぶ。だが、その認識をそのまま受け入れてしまうと、どこかで引っかかる感覚が残る。
完全に同じであるならば、ここまで意識に残ることはないはずで、変わっていないというより、変わりきっていない何かが、同じ場所に留まっているような感触がある。
その違いははっきりとした形を持たず、言葉にしようとするとすぐに曖昧になってしまうが、それでも、昨日までと同じ位置にいるとは言い切れないという感覚だけは、確かに残っている。
入口のベルが鳴る少し前、足音のようなものが通りの向こうで途切れた気がして、その時点で誰が来るのかは分かっている。
確信と呼べるほど強いものではないが、ここ数日のやり取りの中で生まれたわずかな間合いが、そのまま予測として立ち上がる。扉が開いたとき、その予測はほとんど違わず、真緒が中へ入ってくる。
今日はためらいが少ない。入口で足を止める時間も短く、そのまま椅子に向かう動きも迷いなく続いているように見える。
ただ、その速さがそのまま決断の強さを示しているわけではなく、むしろ考える時間を先に終わらせてしまったような、少しだけ無理に進めている感触も残っている
椅子に座り、鞄を膝の上に置くと、いつもと同じように指先で縁をなぞり始める。その動きだけは変わらずに残っていて、そこでようやく、完全に切り替わっているわけではないことが分かる。
「さっきな、帰り道のこと思い出した気がしてん。毎日やったかは分からんけど、何回か一緒に歩いたことあった気がする。話してた内容とかは全然覚えてへんねんけど、並んで歩いてた感じだけは残ってて、昨日までみたいに全部曖昧っていうよりは、そこだけちょっと形がある気がする」
言葉は一度でまとまっているが、そのまとまり方は確信ではなく、仮に置かれたものに近い。断定ではないが、曖昧とも違う位置にあり、ひとまずここに置いてみる、という程度の強さで出されている。
だが、その形はすぐに揺らされる。
「でも、それも思い出したっていうより、そう思ってるだけかもしれん。昨日のやつと同じで、あとからそれっぽく繋げてるだけかもしれんし、ほんまにあったことなんか分からん」
否定ではなく、並置に近い言い方だった。ひとつを消すのではなく、複数の可能性をそのまま残したまま、どこにも寄せないようにしている。そのため、最初に置かれた形は崩れてはいないが、確定もしないまま、宙に浮いた状態になる。
「昨日はな、まとまってるほうが後から作ったもんちゃうかって思ってたけど、今はな、バラバラのほうもほんまかどうか分からん気がしてきてる。どっちもそれっぽいけど、どっちも決め手がないっていうか、どこを基準にしたらええんか分からん」
その言葉を聞きながら、昨日との違いを確かめる。似た話をしているはずなのに、同じ位置には戻っていない。昨日は、”整ったものを疑う”だったが、今日は、”疑う側そのものが広がっている”。疑いの対象がひとつではなくなり、その分だけ、どこにも固定されない状態が長く続いている。
「こうやって考えてると、前も似たようなことあった気がしてくるねん。ちゃんと決めんまま進んで、あとでやっぱり違うって思って、また戻って、結局どっちも選ばんまま終わって」
そこで、わずかに力を抜くように笑う。
「また同じことしてるなって思って」
軽い言い方だったが、その言葉はそのままでは収まらない。『同じことをしている』という認識は理解できるが、本当に同じかどうかを考えたとき、すぐに肯定できない違和感が残る。
繰り返しているように見えるが、完全に重なっているわけではない。むしろ、似た形を通りながら、少しずつ位置がずれているような感覚がある。
机の上のノートに視線を落とす。ここ数日、同じように開こうとして、同じように止めてきたページ。書けば形になるが、その瞬間に別の形が消えるという感覚。それ自体は確かに繰り返されている。
だが、さっきから残っているわずかな違いも同時にある。その違いは小さく、見過ごそうと思えば見過ごせる程度のものだが、意識してしまうと消えない。繰り返しの中に含まれている差として、そのまま残り続ける。
ペンを手に取り、ノートを開く。白いページが現れる。その白さはこれまでと同じはずなのに、今日はそこに手を入れられる感覚がある。どこから書き始めるか、どの順番で並べるか、その手順が頭の中である程度見えている。
つまり、書ける状態にはなっている。
そのことをはっきりと自覚する。昨日までは手前で止まっていたものが、今日はその先まで進める位置に来ている。
ペン先を紙に近づける。
書き始めることはできる。そのまま続けることもできる。途中で止まることなく、一つの形としてまとめるところまで進めることも、今なら可能だと思える。
だが、その直前で手が止まる。
書けるという感覚があるからこそ、それが一つに固定されることも分かる。その形は間違いではないが、今ここで選ぶべきものかどうかは別の問題として残る。ここで形にすれば、それはひとつの答えとして残り続ける。その代わりに、今揺れているものは、その時点で整理されたものとして扱われることになる。
その関係を考えたとき、すぐに書き始めることができなくなる。
少し時間を置き、ペンを紙から離す。
「今日は書かない」
声に出すことで、その判断がはっきりとした位置に置かれる。
真緒はすぐにうなずく。
「そのほうがええ気がする。今やったら、どっちかに寄るやろし、どっちも残ってるうちは、そのままにしといたほうがましやと思う」
その言葉はこれまでと似ているが、意味は同じではない。迷っているから止めるのではなく、選べる状態にあることを分かったうえで止めている。
同じことをしているようで、実際には少しだけ位置が変わっている。
しばらく沈黙が続く。外の音は遠く、ここだけが切り離されたように静かになる。
やがて真緒は立ち上がり、鞄を持ち直す。入口へ向かい、扉の前で振り返る。
「同じことしてる気はするけど、前と全く一緒でもない気もするねん。何が違うんかは分からんけど」
その言葉は、さっきまで考えていた違和感と重なる。
「たぶん、その違いが分かるまで、決めんほうがええんやと思う」
そう言って、外へ出ていく。
扉が閉まる。
机の上には、開かれたままのノートが残っている。そこにはまだ何も書かれていないが、書ける状態にまで進んでいたという感覚だけが、はっきりと残っている。
同じことを繰り返しているようで、完全に同じではない。その差は小さく、見逃してしまえる程度のものだが、確実に積み重なっている。
ふと視線を外に向けると、通りの明るさが少しだけ変わっていることに気づく。アーケードの下に落ちる光と、その先に伸びる影が、以前よりもゆるやかに混ざり合い、どこで分かれているのかをはっきりと示さなくなっている。境界が消えたわけではないが、どこにあるのかを断言できない状態が、そのまま広がっている。
その見え方は、さっきまでの違和感とよく似ている。
同じ通りであるはずなのに、見え方だけが少しずつ変わっていく。
ノートを閉じる。
今はまだ、その差をそのまま残すほうを選ぶ。
書くことはできる。だが、書かないことも選べる。
その選択が、前と同じなのかどうかは、まだ決めないままにしておく。
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