第13話 ずれているままの記憶
ノートは閉じたまま、机の上に置かれている。昨日と同じ位置にあるそれを、あえて動かさずにいるのは、書かなかったという終わり方をそのまま保っておきたいからだと思う。
開けば白いままであることは分かっているのに、触れずにいることで、その白さは単なる空白ではなく、まだ形になっていないものが留まっている場所として意識に残り続ける。
思い出そうとすれば、昨日のやりとりは再現できる。真緒がどこで言葉を止めたか、どの順番で話したか、流れとしては追える。だが、それを一つのまとまりとして取り出そうとすると、途中でわずかに噛み合わない部分が出てくる。自然につながっていたはずの箇所が、別の位置へずれていくような感覚が残る。
教室のことを考える。窓際だったという像がまず浮かび、そのすぐあとに、廊下側に座っていた場面が重なる。夕方の光が机の上に斜めに落ちていた気もするし、蛍光灯の白さしか残っていなかった気もする。そのどちらも、取り出した瞬間は違和感がない。だが、一つを選ぼうとすると、もう一方が消えるのではなく、むしろ輪郭を強めて残る。
帰り道の記憶も同じだった。角を曲がった先に、小さな店があったはずだという感触はある。だが、それがパン屋だったのか、閉まったままの古い店だったのかが決まらない。どちらの光景も、そこにあったと断言できるほど具体的ではないが、なかったとも言い切れない。その曖昧さのまま重なっている。
ここまでは、まだ“思い出している”という感覚が保たれている。だが、もう一度同じ場面をなぞろうとしたとき、さっきまであったはずの配置が、わずかに動く。窓際だと思った席が教室の奥に移り、帰り道の店の位置も、角を曲がった先から、まっすぐ進んだ途中へと変わる。変わったというより、複数あったもののどれかが前に出てきただけなのかもしれないが、いずれにしても、最初に浮かんだ形は固定されない。
その変化に気づいたところで、入口のベルが鳴る。
音を聞いた瞬間に、誰かは分かっていた。振り向くより先に、来るまでの間の取り方で判断できる程度には、昨日の感覚が残っている。扉が開き、真緒が入ってくる。今日はためらいがほとんどなく、椅子に座る動きも自然だった。
鞄を膝に置き、少しだけ前に体を傾ける。その姿勢は昨日と似ているが、迷い方が違う。言葉を探しているというより、すでにあるものをどの順番で出すかを選んでいるように見えた。
「昨日のやつやけどな、帰ってからもう一回考えてて、やっぱりちょっと違う気がしてきてん。放課後のこととか、帰り道とか、残ってるって思ってたけど、それほんまにそのまま残ってるんか分からんくなってきて、順番もはっきりせえへんし、誰と何話したかも曖昧やし、一緒に帰ったんかどうかも自信ないし、昨日みたいに繋がってる感じのほうが、むしろ後から作ったもんちゃうかって思ってる」
言葉は一息で続くが、急いでいるわけではない。確かめるように、同じ場所を何度もなぞっている。
「教室で笑ってた記憶もあるねんけど、それがほんまにそのときのことなんか分からんし、別のときのやつと混ざってるだけかもしれんし、思い出してるつもりで、あとからそれっぽく並べてるだけなんかもしれん。昨日はな、ちゃんと形がある感じやったけど、今はその形自体が後からできたもんに見えてきて、どこからが元なんか分からんくなってる」
聞きながら、さっき自分が感じていたずれと同じものだと分かる。記憶そのものではなく、取り出そうとしたときに生まれる配置の変化。その差が、小さいまま積み重なっている。
「どっちが近いんかって考えても分からんねん。昨日のほうがちゃんとしてるけど、今のほうが嘘っぽくない気もするし、でもそれもただそう思ってるだけかもしれんし、どっちもそれっぽいだけで、どっちもほんまじゃない気がする」
そこで一度言葉が切れる。完全に止まるわけではなく、続きがあることを前提にした間だった。
「こういうのって、そのまま残せるん?」
短く問われる。
「残そうと思えば残せる。でも、そのままやと読める形にはならんと思う。どこかで並べ方は決めることになる」
そう答えると、真緒は小さくうなずく。
「やっぱりそうなるよな。でもな、どっちかに決めたら、もう片方は見えにくくなるやろ。どっちも自分の中にはあったはずやのに、一つにしたら、それ以外はなかったことみたいになる気がして、それがちょっと嫌やねん。でもそのまま並べたら、今度は分からんまま増えていく気もして、それも怖い」
その言葉を受けて、ノートに手を伸ばす。ページを開き、ペンを持つ。ここで昨日の話と今日の話を並べて書くこともできるし、違いとして残すこともできる。どちらも形としては成立する。
実際に、一行だけ書く。
――放課後の教室、窓際に座っていた。
そこまで書いたところで、手が止まる。さっきまで自然に置けていた言葉が、急に固定されたものとして見えてくる。窓際という位置が、一つに決まってしまうことで、もう一方の像が入り込めなくなる。その瞬間、廊下側の記憶が強く浮かび上がる。
書いた一行に違和感が生まれる。
ペンを置き、そのまま線を引いて消す。
「今書いたら、どっちかに寄ると思う」
そう言うと、真緒はすぐにうなずく。
「そうやんな。そうやねん。無意識でもそうなるやろな。だったら、今はやめといたほうがええかもしれん。まだどっちも消えてへんうちは、そのまま置いといたほうが、たぶん近い気がする」
その言い方は、昨日よりもはっきりしている。決めないということを、避けているのではなく、選んでいる。
しばらくのあいだ、どちらも言葉を出さない。外を誰かが通り過ぎる音が一度だけ聞こえ、それがすぐに消える。
やがて真緒は立ち上がり、鞄を持ち直す。入口へ向かい、扉の前で振り返る。
「昨日言ってたやつな、正しいかどうかじゃないって話、あれたぶん合ってると思う。でもな、正しくないまま増えていくのも、やっぱりちょっと怖いっていうのも、同じくらいほんまやと思う」
それだけを残して、外へ出ていく。
扉が閉まり、通りの音が戻る。机の上には、開かれたノートがある。そこにはさっき消した一行の跡だけが残っていて、何も書かれていない状態よりも、かえって強く目に入る。
同じ出来事のはずなのに、違う記憶として並び始めている。それらは一つにまとまらず、かといって消えることもなく、そのまま残っている。
ノートを閉じる。
触れなければ、何も決まらない。
だが、その状態を保つこと自体が、今は必要な気がした。
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