第12話 触れないままの言葉
机の上に開かれたノートは、白いまま静かに置かれている。書こうと思えばすぐに書き始められる状態のはずなのに、その整い方だけが、かえって手を止めさせていた。ペンはすぐそばにある。指先を少し動かせば触れられる距離にあるのに、そのわずかな距離が埋まらない。
外からは、ときおり足音が届く。数は多くないが、完全に途切れることもない。ひとつの音が遠ざかると、少し間を置いて別の音が現れる。それらは重ならず、つながらず、それぞれが独立したまま通り過ぎていく。そのあり方は、いま机の上に置かれているこの白いページと、どこか似ているようにも思えた。形にはならないが、確かに存在しているものが、まとまらないまま残っている。
書こうと思えば書ける。
整えようと思えば整えられる。
これまでずっとそうしてきた。話を聞き、順番を整え、余分なものを削り、読み返せる形にする。その作業に迷いはなかったし、それで問題が起きたこともなかった。むしろ、それが正しいやり方だと、疑うことなく続けてきた。
けれど、その正しさで整えたものの中から、いつの間にかこぼれ落ちていたものがあったのではないかという感覚が、ここにきて消えなくなっている。
整えるたびに、形ははっきりする。だが、その分だけ、最初にあったはずの揺れや曖昧さが、削がれていく。削った覚えはない。必要なものだけを残したはずなのに、残ったものがすべてではないように感じる。その違和感が、いまはっきりと手の中に残っていた。
ベルが鳴る。
顔を上げるよりも先に、誰が来たのかが分かる。音のあとに続く気配の置き方が、昔と変わっていない。少しだけ間を置いてから扉が開く、その間の取り方を、体が覚えている。
声が届く前に、分かっていた。
真緒だった。
姿を見て確かめるよりも早く、そうだと理解してしまう。そのこと自体が、少しだけ遅れて胸の奥に引っかかる。忘れていたわけではない。ただ、名前として思い出すよりも先に、感覚のほうが動いたことが、思っていた以上に深く残る。
真緒はさっきと同じように、すぐには中に入らず、通りのほうを一度だけ振り返る。それからゆっくりと足を踏み入れる。その動きは迷いのようでいて、戻るためのものではない。決めたあとにどうしても残る、わずかな揺れのように見えた。
「まだ開いてる? さっきの続き、ちょっとだけええ?」
声は変わっていない。言い方も、間の取り方も、ほとんどそのままだった。
「開いてるよ。どうしたん?」
答えると、真緒は小さくうなずいて椅子に座る。背もたれには寄りかからず、少しだけ前に体を傾ける。その姿勢を見た瞬間、どこで見たのかを思い出すより先に、同じ形を知っているという感覚だけが先に立ち上がる。
真緒は鞄を膝に置いたまま、すぐには話し始めない。机の上に視線を落とし、指先で縁をなぞる。その動きは、昔と同じだった。話す前に、一度だけ自分の中で整えようとする癖。けれど、整えきれないまま言葉にしてしまう、その手前の時間。
「さっき言ってたやつな、覚えてるかどうかって話やけど、たぶんな、ちゃんと覚えてるわけちゃうと思うねん。でも、何もなかったわけでもない気がしてて、そのあいだみたいなんが残ってる感じがするんよ」
ゆっくりと続く言葉の中に、形になりきらない感触がそのまま含まれている。
「放課後のこととか、帰り道とか、教室の空気とか、そういうのは残ってるねん。でも、それが楽しかったんかどうかとか、ちゃんと分からんくて、笑ってた気もするし、何も話してへんかった気もするし、どっちもあった気がする。でも、それをどっちかに決めようとすると、急に違う気がしてくるねん」
真緒の言葉は整っていない。順番も一定ではない。だが、そのまとまりのなさが、そのまま意味を持っているように感じられる。
「こういうのって、どうやって残すんやろな? そのまま書いたら、たぶん読まれへんやろうし、整えたら読めるようにはなるんやろうけど、その分だけ別のもんになる気もするし、どっちがええんか分からんくなるねん。残したいんかどうかも、よう分からん。消したくないだけなんかもしれん」
その言葉に、否定はできない。
これまで自分がやってきたことを思い出す。話を聞いて、整えて、読みやすくして、残す。その過程の中で、迷いを挟んだことはほとんどなかった。正確であること、分かる形であること、それが優先されていた。
だが、その”分かる形”にした時点で、最初にあったはずの曖昧さや揺れを、無意識のうちに切り捨ててきたのではないかという感覚が、ここにきて消えない。切り捨てたつもりはない。だが、残っていない以上、どこかで落としている。
ノートに手を伸ばす。書き始めることはできる。今のこのやり取りを、そのまま断片として置くこともできるし、整えて流れにすることもできる。どちらも知っている。
だが、ペンを持ったまま、動かない。
「書くん?」
真緒がそう聞く。
「……今はやめとく」
言葉にすると、それがはっきりとした形になる。
「なんで?」
「今書いたら、たぶん整えてしまうから」
「整えるって、そんなあかんことなん?」
「悪いわけじゃない。でも、今の形とは違うものになる」
「今の形って、こんなグチャグチャのままでも?」
「それも含めてやと思う」
言いながら、自分でも確信しているわけではないことが分かる。それでも、その言葉以外に置けるものが見つからない。
真緒は少しだけ考えるように視線を落とす。
「そのまま残したらええんちゃう? 読まれへんでもええ場合もあるやろ。誰にも分からんままでも、残っとるって言えるんやったら、それでええ気もする」
「そうかもしれん。けどな、それを選ぶかどうかは決めなあかん」
「決めた時点で、どっちか捨てることになるやろ?」
間を置かずに返ってくる。
「残したいのに、残らんくなるかもしれんし、伝えようとして、別のもんになるかもしれんし、どっちも違う気がするねん」
その言葉が、そのまま机の上に置かれる。
しばらく、何も言えない時間が続く。外の足音がひとつだけ通り過ぎ、また静かになる。
真緒が、少しだけ声を落とす。
「前も、似たようなことあったやろ。ちゃんと決めんまま進んで、途中で止めて、それでも最後は形にして、そのときも思った気がするねん。これでええんかなって」
その言い方に、当時の空気がそのまま含まれている。
僕はノートを閉じる。白いページが見えなくなり、書かなかったという事実だけが残る。
「今日は、このままにする」
「うん、それでええと思う。無理に決めんでええし、たぶん今はまだその段階ちゃうんやと思う」
その言葉に、わずかに息が抜ける。
真緒は立ち上がり、鞄を持ち直す。入口へ向かい、扉の前で一度だけ振り返る。
「なぁ、さっきのやつやけどな、覚えてるかどうかの話、アレな」
少しだけ間を置く。
「正しいかどうかじゃない気がするねん」
その言葉が落ちた瞬間、どこに引っかかるのかは分からないまま、確かに何かがズレる。
理解はできる。意味も分かる。だが、その言葉をそのまま受け取ったとき、これまで自分が基準にしてきたものと、わずかに噛み合わない。
正しさではない。では何なのか。
答えは出ないまま、その違和感だけが残る。
真緒はそれ以上何も言わず、扉を開けて外へ出ていく。ベルの音が鳴り、静けさが戻る。
机の上には、閉じられたノートがある。書かなかったことが、そのまま残っている。
書けば形になる。形になれば、そこからこぼれるものがある。そのこぼれたものを守るために書かなかったのか、それとも、ただ向き合うことを避けただけなのか、その違いはまだ分からない。
ただひとつだけ確かなのは、触れなかった言葉が、消えずにここに残っているということだった。
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