第11話 書かないという選択
店を閉めるにはまだ少し早い時間だったが、外の光はすでにやわらぎ始めており、通りに落ちる影はゆっくりと長く伸びながら、その輪郭を曖昧にしていた。
アーケードが残っている区間では光が均されて面として広がっているのに対し、空が抜けている場所では西日がそのまま差し込み、角度を持った明るさが地面や壁に引っかかるように残るため、その差が同じ通りの中にいくつもの時間の層をつくっているように見え、境目を人が通るたびに足元だけが別の場所へ移っていくような錯覚が生まれる。
実際には何も変わっていないはずなのに、歩く位置によって受け取る時間がずれていくような感覚だけが、静かに残り続けていた。
シャッターを半分だけ下ろし、そのまま手を離さずに入口の前で立ち止まると、完全に閉めてしまえば一日の終わりがはっきりするはずなのに、まだその区切りをつける気になれない。
外の様子を確かめるように視線を通りへ向けると、人の数は多くはないが、途切れているわけでもなく、一定の間隔で誰かが現れてはそのまま通り過ぎていく。その動きは流れとしてまとまることなく、それぞれが別の理由でここを横切っているという事実だけが、ゆるやかに重なっていくようにも見える。その連なりのなさが、かえってこの場所に残っているものをはっきりさせているようでもあった。
店の中に戻り、机の前に座ると、ノートは閉じたまま置かれていた。昼に書いたものはすでに清書して渡しているため、本来であれば今日はこれ以上何も書く必要はない。それでも、何も書かれていない状態のまま机に向かっていると、書かなかったものや、書かれずに残っている感触のほうがかえって強く意識に浮かび上がり、ページを開いていないにもかかわらず、その内側にあるはずの余白だけが、具体的な重さを持ったものとしてそこに存在しているように感じられる。
そのとき、入口のベルが鳴った。
顔を上げるよりも先に、声が届く。
「……まだやってる?」
短い一言で、確認するためだけの言葉だったが、その響きを聞いた瞬間に、振り返るよりも早く誰なのかが分かる。久しぶりであるはずなのに、距離や時間のほうが後からついてくるような感覚で、声だけが先に記憶と結びつく。
視線を向けると、戸口に立つ人影が逆光の中で輪郭を浮かび上がらせ、そのあとでゆっくりと表情が見えてくる。
真緒だった。
中に入ってきても椅子には座らず、机の前で少し距離を取ったまま立ち止まる。その位置の取り方や、言葉を置くまでのわずかな間が、変わっていないことだけで伝わるものがある。
「久しぶり。ここでやってるって聞いた。話を聞いて記録にするやつ、整えて残すっていうの。頼みたいことがあって来たんやけど、まだ決めてへんねん。書いてもらうかどうか。昔のことなんやけど、一緒におったときのこと、どこまで覚えてる?」
言葉は区切られることなく、そのまま一つの流れとして差し出される。その中に含まれている問いにすぐに答えようとすると、形を整える前にこぼれ落ちそうな気がして、少しだけ間を置いてから言葉を選ぶ。
全部ではないが、大体は覚えていると思う……と。
真緒は小さくうなずき、そのまま視線を外さずに続ける。
「じゃあ最後、どうやって終わったか覚えてる? 喧嘩したわけでもないし、何か決めたわけでもないのに、気づいたら終わってたやん。私も思い出そうとすると場面はいくつか出てくるんやけど、順番もつながりもハッキリせえへんねん。でも終わってることだけは分かる。その感じって、あんた書ける?」
問いは穏やかな調子のまま続くが、そこに含まれているものは曖昧ではない。記憶としては存在しているのに、それを一つの流れとして整えようとした瞬間に、何かが削られてしまう感覚がある。
流れとしてなら書けると思う。そう答えると、真緒はすぐに首を振る。その動きには迷いがない。
「それやと違うやろ。そんなふうに並んでなかったやん。もっとバラバラやったし、戻ったりもしてたし、思い出す順番もめちゃくちゃやったやん。でもそれを整えたら、読める形にはなるかもしれんけど、別のもんになるやろ。それってほんまに残したいもんなん?」
言葉はそのまま続き、少しずつ核心へと近づいていく。
「残すって言うけど、何を残すん。分かりやすくしたいだけちゃうん。結局は、あんたが納得できる形にしたいだけやろ」
その指摘に対して、否定の言葉がすぐには出てこない。違うと言い切ろうとすると、どこかで引っかかる。
違うとは言い切れないと答えると、真緒は静かにうなずき、そのまま少しだけ声を落として続ける。
「やんな。グチャグチャのままやと落ち着かへんから整える。でも、それって私の中にある形とは違うやん。あんなふうに並んでへんし、まとまってもない。でも、それが残ってる形やねん。それを変えたら、もう別のもんやと思う」
強い言い方ではないが、確信を言葉だった。
机の上に置かれたノートに視線を落とす。開けば書くことはできるし、書けば一つの形にまとめることもできる。だが、その瞬間に他の可能性は消え、残るのは選ばれた一つだけになるということが、手に取る前から分かってしまう。
「じゃあ、書かへんほうがいい?」
そう問い返すと、真緒は少し考え、すぐには答えずに言葉を探す。
「分からへん。残したい気もするし、このままやと消えていく気もする。でも整えたら違うもんになる気もするし、どっちを選んでも違う気がする」
その言い方は曖昧ではなく、今ここにある状態そのものを、そのまま指していた。
ノートに手を伸ばしかけて止めると、書くことも書かないこともできるという位置にいることがはっきりと分かり、そのどちらも選べるはずなのに、どちらか一方を選んだ瞬間にもう片方は失われるという感覚が、動きを止める理由になる。
少し時間を置いてから、ゆっくりと口に出す。
今回は、書かない。
決まっていないものは、決めないままにしておく。そのままの状態で残す。
そう伝えると、真緒はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さくうなずき、その表情がわずかにやわらぐ。
「それでええと思う。今は、それしかない気がするし、変にまとめられるよりは、そのままのほうがましやわ」
その言葉を聞いたとき、何も選ばなかったこと自体が、一つの形として残るという感覚が、遅れて実感として立ち上がる。
真緒はそのまま入口へ向かい、扉の前で一度だけ振り返る。
「また来るかもしれへんし、そのときは書いてもらうかもしれん。でも、やっぱりやめるかもしれん」
それでもいいと答えると、小さくうなずいて外へ出ていく。
ベルの音が鳴り、扉が閉まると、店の中には静けさが戻り、机の上には何も増えていないまま、ノートもペンもそのままの位置に残されている。
書かなかったという状態だけが、はっきりと形を持つ。
外では通りが続き、光はさらに傾き、影は長く伸び、人の動きは変わらないまま、それぞれが別の方向へ進んでいくため、同じ場所にいながら少しずつ違うものへと移り変わっていく気配だけが、ゆるやかに積み重なっていく。
それを言葉にすることもできるし、しないままにしておくこともできるが、今日はそのどちらも選ばず、決めないままにしておくという形を、そのまま残すことにした。
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