第10話 残るもの、残すもの
夕方に差しかかる少し手前、昼の明るさがまだ残る時間帯に、僕は店の入口に立って通りを眺めていた。
開けたままにするには中途半端で、閉めるにはまだ早い。そのどちらにも決めきれない時間が、そのまま空気の中に留まっている。風はほとんど動かないが、完全に止まっているわけでもない。通りには人の姿がある。だが、まとまった流れにはならない。それぞれが別の速さで歩き、同じ方向へ進んでいるようで、どこかでズレている。そのずれは目に見えるものではないが、視線を少し長く置くと、確かにそこにあると分かる。
アーケードが残る区間と、空が抜けている区間では、光の質が違う。境目を横切る人の足取りが、わずかに変わって見える。同じ場所を歩いているはずなのに、違う時間に入ったような感覚が残る。影は長く伸び、明るい場所だけが少し浮く。それ以外は、輪郭がやわらぎ、距離が曖昧になる。見えているはずのものが、どこか遠くへ退いていくような感覚が、わずかに残る。
この通りは、一度に変わることがない。開いている店と閉まった店が混ざり、その間を人が抜けていくことで、ようやく通りの形を保っている。看板だけが残る場所もあれば、外観はそのままで中の気配だけが消えている店もある。今と過去が同じ位置に重なっているように見えるが、どこで分かれているのかははっきりしない。その境目は固定されておらず、見る位置によってわずかに動いているようにも感じられる。
店の中に戻り、ノートを机に置く。白いページを開くと、何も書かれていない状態がそのまま残る。ここに何を置くかは、まだ決まっていない。決めることはできるが、その前に、決めないという選択もある。どちらを選ぶかは、まだはっきりしないまま残っている。
椅子に座ろうとしたとき、入口のベルが鳴った。
顔を上げると、女性が一人、戸口に立っている。通りを一度振り返り、それから中に入ってくる。迷いは残っているが、戻る様子はない。その動きはゆっくりだが、止まることはない。
「ここ、記録してくれるとこやんな?」
「はい」
女性はうなずき、椅子に座る。鞄を膝に置いたまま、すぐには話さない。店の中を一度だけ見てから、机に視線を戻す。そのあとで、小さく息を整える。
「このへんのことなんやけどな、昔のこと、残しときたいんや」
「どの辺りまでですか?」
「決まってへんねん、覚えとる範囲でええから」
「何を残したいですか?」
女性は通りに視線を向ける。
「無くなってる気がするんや、前はな、もっと人おったし、店も開いとったし、夜でも明るかったし、六間道に行けば何でも揃うって言われとったし、ほんまにそうやったと思う、今とは全然ちゃうで、歩いとるだけで肩ぶつかるくらいやった」
少しだけ間を置いて、続ける。
「あのころは『商店街を公園にする』っていうてな、ここ全部が広場みたいになっとったんや。道も広いやろ、その広さをそのまま使ってな、真ん中も端も余裕あって、ただ通る場所やなくて、立ち止まる場所やった」
僕はペンを動かす。
「床はな、緑の人工芝やったんや、ずーっと向こうまで続いとって、どこ歩いても同じ色でな、今みたいに店と道が分かれとる感じやなくて、全部ひとつながりやった。ほんまに公園の中に店が並んどるみたいやった」
女性の声が少しやわらぐ。
「噴水もあちこちにあってな、夏は子どもが水遊びしとって、びしょびしょになっても気にせんと走り回っとった。親も特に止めへんし、それ見て周りの人も笑っとるような、そんな感じやった」
少しだけ笑みが混ざる。
「ベンチも置いてあったし、花もよう手入れされとってな、じいさんばあさんが座ってしゃべっとる横で、買い物の人が荷物置いて休んだりして、ここに来たら何かしら誰かおる。そういう場所やった」
呼吸が整う。
「それだけやないで、露店もよう出とったんや。道の真ん中にも端にも並んでて、野菜も果物も服も雑貨も、なんでも売っとった、声も大きくてな、あっちこっちで呼び込みしとって、歩いとるだけで音に包まれる感じやった」
少しだけ首を傾ける。
「夜も遅うまでやっとったしな、十時くらいまで開いとったと思うで。閉めるときは拍子木が鳴ってな、それが一日の終わりやった。音が通りに残って、みんなそれで帰る準備するんや」
僕は書き続ける。
「遠くからも人来とったで、港のほうから船でな、淡路とか四国とかからも来とったって聞いとるし、ほんまに人であふれとった。ここが一番にぎやかやったって、よう言われとった」
言葉が少し落ち着く。
「せやけどな、震災のあとやな、変わっていったんは。山側は焼けてしもてだいぶ変わったし、でも海側のほうはな、昔の建物も残っとるとこあるで。古い八百屋とか見たら、あぁ前はこうやったんかなって思う。ああいうのはまだつながっとる感じがする」
視線が机に戻る。
「地蔵盆とか阿波おどりも続いとるやろ、ああいうときは今でも人多いけどな、昔はそれが普段からあった感じやねん。特別やなくて、当たり前ににぎやかやった」
少し静かになる。
「でもな、気づいたら減っていってな、人も店も、いつからこうなったんか分からんねん。少しずつやったんやと思うけど、振り返ったらもう違う場所みたいになっとった」
言葉が止まる。
僕は書く。順番は整えない。断片のまま置く。昔と今が混ざり、ひとつにまとまらないまま残る。
女性がこちらを見る。
「それ、どうするん?」
「整えます」
「整えたら、ちゃんと分かるようになる?」
「なります」
「でもなぁ、ほんまはこんなきれいに並んでなかったと思うねん。もっとバラバラでな、思い出す順番もめちゃくちゃで、同じこと何回も思い出したりして、そのたびにちょっとずつ違ってて、でもそのままやと読めへんやろ。任せるわ」
僕はノートを閉じる。紙を取り出し、書き始める。すべてを写さない。残すものを選び、並びを整える。ただし整えすぎない。ばらけたままの感触を、少しだけ残す。
言葉を置くたびに、どこまで触れていいのかを確かめる。整えれば整う。だが、その分だけ離れる。整えなければ残る。だが、そのままでは読めない。その間を行き来しながら、形を探る。書くという行為が、残すことと削ることの両方を同時に含んでいることが、手の動きの中ではっきりしてくる。
書き終えて、紙を揃える。封筒に入れる。
「できました」
女性は受け取り、ゆっくり読む。途中で止まり、少し戻る。また進む。その動きが何度か繰り返される。
「……こんな感じやった気がする。ちゃんと違いも分かるし、でもつながっとるな。バラバラやのに、同じ場所の話になっとる」
「これでいいですか?」
「うん、これでええわ。これ以上はたぶん変わらへんと思う。思い出し方もこれ以上は変わらん気がする、ありがとうな」
「こちらこそ」
女性は立ち上がり、店を出る。
扉が閉まる。
ノートを開くと、書かなかった断片が残っている。選ばなかった言葉、順番を与えなかった記憶。それらは消えていない。ただ渡されなかっただけだ。残されたままの形が、紙の上に静かに広がっている。
机の上には何もないが、残っているものはある。形にならなかった部分が、ここにとどまっている。
外では通りが続いている。光はさらに傾き、影が長くなる。変化は小さいが、止まってはいない。少しずつ、確実に進んでいる。
書かないという選択も、ここに残る。
その形は見えないまま、それでも確かに、消えずに残っていた。
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