見えない病
異変は、静かに始まった。
最初は一人の子ども。
次に、隣の家の母親。
そして三日後には、同じ症状の人が五人。
高熱。
腹痛。
激しい下痢。
彼女は木板の記録を何度も見返す。
共通点はひとつ。
――同じ川の水。
「……来たか」
呟きは小さい。
でも覚悟は決まった。
これはただの体調不良じゃない。
集団感染。
前世で何度も聞いた言葉。
でも今ここでは、
誰も知らない概念。
診療所は一気に慌ただしくなる。
「とにかく水を煮て!」
「飲み水も、調理も全部!」
村人たちは混乱する。
「川の水は昔から――」
「今は違うの!」
珍しく、声が強くなる。
彼女の中の看護師が
完全に前に出ていた。
手洗いを徹底させる。
吐瀉物の処理場所を分ける。
布の共有をやめさせる。
できることは全部やる。
魔法は使えない。
抗生剤もない。
だからこそ、
予防が命綱。
だが問題は――
体力だった。
彼女自身の。
元々病弱な体。
長時間動き続ければ限界が来る。
立ちくらみ。
視界の揺れ。
それでも止まらない。
止まれない。
「次の人、診るよ」
強がりじゃない。
使命感でもない。
ただ、
目の前に患者がいるから。
それだけ。
夕方。
一人の老人が言う。
「昔、こういう熱で
何人も死んだ」
村の空気が凍る。
彼女は首を振る。
「今回は死なせない」
断言だった。
奇跡じゃない。
理屈で防ぐ。
水を管理すれば止まる。
接触を減らせば広がらない。
見えない敵ほど、
対処法はシンプル。
夜になる頃には、
村人も動き始めていた。
井戸を分ける。
水を煮る。
手を洗う。
知識が共有されると、
人は強い。
診療所の外で、
彼女は壁にもたれる。
息が荒い。
体が熱い。
無理をしている自覚はある。
でも――
遠くで、
回復した子どもの笑い声が聞こえる。
それだけで、
もう少し頑張れると思った。
見えない病との戦いは、
まだ始まったばかりだった。




