小さな診療所
朝の空気は冷たかった。
まだ霧の残る村外れに、
小さな木小屋がひとつ立っている。
昨日までは物置だった場所。
今日からは――診療所。
「本当にここで診るのか?」
付き添いの村人が不安そうに言う。
彼女は小さく頷いた。
豪華な設備なんてない。
白衣もない。
消毒液も、器具も、点滴もない。
あるのは
前世で叩き込まれた知識と、
諦めない癖だけ。
「十分だよ」
そう言いながらも、
内心は苦笑していた。
前世の病院とは比べものにならない。
でも――ゼロじゃない。
それが大事だった。
まず彼女が手をつけたのは、
薬でも治療でもなく
環境だった。
「この桶、水を毎日替えて」
「毎日!?」
村人が目を丸くする。
水は貴重だ。
飲み水を優先するのが当然の世界。
それでも彼女は譲らない。
「汚れた水で触ると、
傷が悪くなるの」
理解されなくてもいい。
結果で納得させればいい。
布を煮沸する。
火にかけた鍋でぐつぐつと。
「布を煮るなんて初めて見た」
「きれいにするためだよ」
本当は滅菌。
でもそんな言葉は通じない。
最初の患者が運ばれてくる。
七歳くらいの男の子。
高熱と咳。
母親は顔色が悪い。
「三日も熱が下がらなくて……」
彼女はそっと額に触れる。
熱い。
でも、危険域じゃない。
呼吸を確認。
喉の音を聞く。
胸の上下を見る。
肺炎ほどではない。
風邪をこじらせた可能性が高い。
「水は飲めてる?」
母親は首を振る。
「ほとんど……」
やっぱり。
彼女は指示を出す。
「少しずつ、何度も飲ませて。
一口でいいから、間をあけて」
「一度に飲ませた方が…」
「体がびっくりしちゃうの」
前世では当たり前。
ここでは新常識。
濡らした布で首と脇を冷やす。
熱を逃がす基本。
魔法より確実な方法。
周囲の村人が、
半信半疑で見ている。
奇跡は起きない。
劇的な変化もない。
でも数時間後、
少年の呼吸は少し落ち着いた。
母親が涙ぐむ。
「さっきより楽そう…」
彼女はほっと息を吐く。
この瞬間があるから、
看護師をやめられなかった。
異世界でも、同じ。
命が軽い世界なんてない。
外に出ると、
冷たい風が頬を撫でる。
体はすぐに疲れる。
病弱なこの体は、長時間立つだけで辛い。
壁に手をついて、
小さく息を整える。
それでも思う。
ここに医療が根づけば、
助かる命が増える。
それなら――
この体でも、意味はある。
遠くで子どもの笑い声がする。
村の日常が流れている。
その中に
自分の役目がある。
それだけで、十分だった。
小さな診療所。
でもここが、はじまり。
彼女はもう一度小屋を見て、
静かに微笑んだ。




