こぼれた音の行き先
夜中の二時は、
世界がいちばん油断する時間だ。
起きている人も、
眠っている人も、
どこか隙だらけになる。
彼女はふと目を覚ました。
夢を見た気がするのに、
内容は思い出せない。
ただ、胸の奥だけが
少し重かった。
喉が乾いて、
ベッドを抜け出す。
床はひんやりしていて、
現実に引き戻される温度。
キッチンで水を飲む。
コップ一杯が、
やけに長く感じた。
静かすぎて、
冷蔵庫の音さえ大きい。
その沈黙の中で、
不意に思い出す。
朝の空。
並んだ足音。
「夜は戻ってくる」という声。
安心したはずの言葉なのに、
今は少しだけ刺さる。
戻ってくるなら、
また同じ気持ちも来るってことだから。
「……そっか」
小さく息を吐く。
避けていたわけじゃない。
ただ、触らないようにしていただけ。
寂しかったのかもしれない。
心細かったのかもしれない。
でもそれを
大げさにするほどでもないと思っていた。
誰かに頼る理由には、
ならないと思っていた。
ぽたり。
シンクに落ちた水滴の音。
自分の手からこぼれた水か、
それとも――
気づくのに、
少し時間がかかった。
「あ……」
涙は、
大きな感情のときだけ出るわけじゃない。
名前のない気持ちが、
行き場をなくしたときにも出る。
声は出ない。
嗚咽もない。
ただ静かに、
目からこぼれるだけ。
悲しい、とは違う。
つらい、でもない。
たぶん、
「ひとりだった」と気づいた涙。
でも同時に、
完全にひとりじゃなかったことも、
思い出せていた。
あの朝の時間。
並んだ影。
短い会話。
救われていたのだと、
今さら分かる。
涙はすぐに止まった。
長居しない雨みたいに。
彼女は袖で目元を拭いて、
小さく笑う。
「……大丈夫」
今度は強がりじゃない。
本当に、少し軽くなっていた。
夜は優しい。
泣いても、誰にも見られないから。
コップを置いて、
部屋へ戻る。
ベッドに潜り込むと、
さっきより呼吸が楽だった。
夜はまだ続く。
でももう、怖くはなかった。
こぼれた音は、
ちゃんと自分の中に届いていたから。




