第9話 「君の恋心は、偽物かもしれない」――彼女が初めて恋を知り、初めて失恋した夜(1)
――一週間後。
山王高校、三年二組。
教壇に立つ久遠彼方は、教室を見渡していた。
化学教師として授業をこなしながら、ここ数日は何かと理由をつけてクラスの仕事を副担任に任せていた。
しかし、いつまでも逃げ回るわけにはいかない。
久遠彼方として、この学校で生きていく以上、担任としての仕事もこなす必要がある。
それに、今の彼方には、確認しておきたいことがあった。
(……このクラスだったな)
視線を巡らせる。
窓際の席には、高城みさお。
長い黒髪に、どこか儚げな雰囲気を漂わせた少女。
その少し離れた席には、山形紗理奈が座っていた。
茶色のボブカットに、大きな瞳。
整った鼻筋と、誰かが自然と手を差し伸べたくなるような、柔らかな雰囲気。
そして、彼女の近くには藤堂やまと。
明るい金髪に、爽やかな笑顔。
誰とでも気さくに話し、困っている人間がいれば放っておけない。
いかにも物語の主人公らしい、熱血漢だった。
紗理奈とは幼馴染。
この世界の元となったゲームでは、二人の関係が物語の軸の一つになっていたはずだ。
(……懐かしいな)
もっとも、正顕がそのゲームを遊んだのは、かなり昔のことだ。
主要人物の名前や大筋は覚えていても、誰が何組だったか、どのイベントがどの順番で起きたかまでは曖昧になっている。
教室の後方には、ギャル系の少女、根津美束の姿もあった。
(他のメンバーは、別のクラスか……)
記憶を掘り起こすのは、ひとまず後回しだ。
今は教師として、目の前の生徒たちに向き合うべきだろう。
彼方は出席簿を閉じた。
「それじゃあ、今日のホームルームはこれで終わりだ」
生徒たちが、帰り支度を始める。
「三年生だからな。進学するにしても就職するにしても、そろそろ自分の将来について真剣に考えておくように。準備は早いほうがいい」
そう告げると、彼方は教室を出ようとした。
その背中を、みさおはじっと見つめていた。
(……ご主人様)
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
彼方が担任として教壇に立つ姿を見るのは、これが初めてではない。
けれど、この一週間で、みさおの目に映る彼の姿は大きく変わっていた。
以前の彼方は、どこか陰気で、いつも自信がなさそうだった。
猫背で、寝癖がついた髪を気にすることもなく、周囲の人間に対して妙に卑屈な態度を取っていた。
ところが、今は違う。
背筋を伸ばし、無駄なことを言わず、必要なときには堂々と発言する。
授業も分かりやすくなった。
生徒から質問されれば、相手が誰であろうと丁寧に答える。
同僚の教師に対しても、必要以上にへりくだることはない。
それでいて、誰かを見下すような態度も取らなかった。
まるで、最初からそういう人間だったかのように。
(……かっこいい)
思ってしまった瞬間、みさおは自分の頬が熱くなるのを感じた。
(ち、違う! 今のは、その……先生として、立派だなって思っただけで!)
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
ただし。
その気持ちがどこから来るのか。
彼女は、まだ考えないようにしていた。
考えてしまえば、きっと認めなければならなくなるから。
自分の中で、何かが変わり始めていることを。
*
昼休み。
三年二組の教室は、昼食を取る生徒たちの声で賑わっていた。
みさおは、友人の美樹と千明と一緒に弁当を広げていた。
「ねえねえ、最近さあ」
ウインナーを口に運びながら、美樹が言った。
「久遠、雰囲気変わったよね」
「……っ」
みさおの箸が止まった。
「分かる! なんか、妙に艶っぽくなったっていうか」
千明が卵焼きを頬張りながら頷く。
「前は、正直ちょっとキモかったじゃん。いつも猫背だし、なんか自信なさそうだし」
「…………」
「でも、今は普通にかっこよくない?」
「……えっ」
みさおは、思わず二人を見た。
(ご主人様の魅力に、気づいてる……!?)
もちろん、彼方は学校では教師だ。
生徒たちが彼をどう評価しようと、それ自体は何もおかしくない。
むしろ、教師としての評判が上がるのは喜ばしいことだろう。
頭では分かっている。
それなのに。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚があった。
「みさおはどう思う?」
千明が、にやにやしながら顔を覗き込んでくる。
「えっ?」
「久遠先生。あんた、前からあの人と話すことあったじゃん」
「そ、そうかな……?」
「そうそう。で、どうなの?」
「ど、どうって……」
みさおは、弁当箱に視線を落とした。
何と答えればいいのだろう。
素敵な人だと思う。
優しいとも思う。
大人で、頼りがいがあって、料理まで上手で。
それに、みさおが何も分からなくても、頭ごなしに否定せず、根気よく教えてくれる。
その一つ一つを思い出すだけで、胸が苦しくなる。
けれど、それを友人に話すことなどできなかった。
「……べ、別に。普通じゃないかな」
「えー、怪しい!」
「何が!?」
「今、顔赤くなったじゃん!」
「な、なってない!」
みさおは慌てて顔を背けた。
美樹と千明は、楽しそうに笑った。
「まあ、でも分かるわ。あの雰囲気、ちょっと気になるよね」
「そうそう。しかもさ、私、いいこと聞いちゃったんだよね」
美樹が声を潜めた。
「久遠先生の実家、結構すごいらしいよ」
「実家?」
「この辺のマンション、何棟も持ってるんだって。不動産関係で、かなり羽振りがいいとか」
「えっ、なにそれ。優良物件じゃん!」
千明が目を輝かせた。
「よく見たら顔も悪くないし、仕事もできそうだし。今の感じなら、普通にモテるでしょ」
「だよねー。私、狙っちゃおうかな」
「…………えっ」
みさおの手から、箸が滑り落ちそうになった。
美樹は冗談めかして笑っている。
千明も面白がっているだけだろう。
それくらい、みさおにも分かっていた。
それなのに。
(狙う……?)
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
(ご主人様を……?)
彼方は教師だ。
彼女たちの担任でもある。
そもそも、彼方とみさおの関係を、友人たちは知らない。
だからこそ、二人が彼方を褒めることに、何の問題もない。
それは当然のことだ。
彼女たちは、彼方の魅力に気づいただけなのだから。
みさおだって、そう思う。
思うのに。
(……嫌だ)
心の奥から、そんな感情が湧き上がった。
嫌だ。
彼方が、他の誰かに好かれるのが。
彼方が、他の誰かに優しく微笑むのが。
彼方が、他の誰かのために時間を使うのが。
そんなことを考えてしまった自分に、みさおは愕然とした。
(……私、何を考えてるの?)
彼方は自分のものではない。
そもそも、彼方が自分をどう思っているのかさえ分からない。
それどころか、彼女は彼方の過去を知っている。
自分を傷つけ、恐怖で縛りつけていた男。
その事実が、消えたわけではない。
なのに。
(……どうして、こんなに胸が痛いの?)
美樹が、さらに続けた。
「でも、そういう人って、意外と競争率高そう」
「分かる。大人の余裕って感じ」
「……うん」
みさおは、小さく頷いた。
その声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
彼女たちは、気づいていない。
みさおがどれほど複雑な気持ちで、その話を聞いているのか。
そして、彼女自身もまだ認められずにいる。
胸の奥で膨らみ続ける、この感情の正体を。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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