第8話 優しくしてください――その一言から、彼女の誤解は始まった(2)
一時間三十分後。
みさおは、完全に燃え尽きていた。
正確には、頭の中が燃え尽きていた。
数学の問題は、最初の数問からつまずいた。
英単語は、知っているつもりだったものまで意味が曖昧だった。
彼方に指摘されるたびに、自分がいかに何も分かっていなかったのかを思い知らされる。
しかも彼は、決して怒鳴らない。
間違えたからといって、馬鹿にするわけでもない。
ただ、淡々と指摘する。
「ここは違う。もう一度考えてみよう」
「この単語、前にも出てきたよね」
「なぜそうなるのか、説明できる?」
静かな声で、逃げ道を塞いでくる。
それが、みさおにはかえって堪えた。
怒鳴られれば、恐怖のせいだと思える。
罵られれば、相手が悪いのだと思える。
けれど、彼方は違った。
彼は、みさおが間違えた理由を一緒に探そうとする。
分からないことを、分からないままにしない。
できないことを、できないからと切り捨てない。
それは、みさおがこれまで経験してこなかった接し方だった。
「……そろそろ、いいかな」
彼方が時計を確認した。
みさおは、はっと顔を上げる。
「えっ?」
「夕食にしよう。続きは食べてからだ」
「……ご飯?」
「ああ。君も腹が減っただろう」
言われてみれば、確かにお腹が空いていた。
しかし、みさおの頭の中はまだ問題用紙でいっぱいだった。
彼方は参考書を片づけると、彼女をダイニングへ案内した。
そこには、一人分の食事が用意されていた。
炊きたてのご飯。
湯気の立つコンソメスープ。
そして、皿の中央に堂々と鎮座するステーキ。
表面には美しい焼き色がつき、ナイフを入れれば、肉汁がじゅわりと染み出してくる。
添えられた野菜まで、彩りよく整えられていた。
「……わあ」
みさおの目が輝いた。
「食べていいんですか?」
「そのために用意したんだよ」
「い、いただきます……!」
みさおは、恐る恐るナイフとフォークを手に取った。
そして、一口。
「…………!」
目が見開かれた。
肉は柔らかい。
表面は香ばしく、中はしっとりとしている。
肉そのものの旨味を邪魔しないソースが、口の中に広がった。
噛むたびに、幸福が押し寄せてくる。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
もう一口。
さらにもう一口。
気づけば、みさおの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「うーん……これ、最高……!」
頬に手を当て、幸せそうに肉を味わう。
その姿を見て、彼方は呆れたように息を吐いた。
「……最高じゃないよ」
「え?」
「さっきまで、あんなにひどい答案を書いていたんだぞ」
「…………」
「食べるのはいいけど、現実から目を逸らすな」
みさおは、ステーキを口に運びかけたまま固まった。
「……すみません」
「いや、食事くらいは楽しんでくれていい。ただ、今日の結果はちゃんと受け止めてほしい」
彼方は彼女の答案を手に取った。
「ここも間違い。これも、基本的なところでつまずいている」
「……はい」
「英語も、動詞の使い方がかなり怪しいな」
「……はい」
「まずは、ここからやり直そう」
みさおの肩が落ちた。
美味しい。
ものすごく美味しい。
でも、目の前にいる彼方は、食事中ですら容赦がない。
それなのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
彼は、みさおを馬鹿にしているのではない。
できないことを責めているのでもない。
本気で、何とかしようとしている。
その真剣さが、言葉の端々から伝わってくるのだ。
「……あの」
「ん?」
「私、そんなにひどいですか?」
彼方は答案用紙を置いた。
「正直に言えば、かなり厳しい」
「…………」
「でも、今からやれば間に合う可能性はある。だから、今日から始めるんだ」
その言葉に、みさおは俯いた。
自分の将来について、真剣に考えたことはあまりなかった。
毎日を無事に過ごすこと。
母を困らせないこと。
余計な問題を起こさないこと。
それだけで精一杯だったからだ。
大学に進学する。
将来の仕事を選ぶ。
そんな話は、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
「……その、私」
みさおは、ためらいがちに口を開いた。
「大学には行かずに、就職しようかなって思っていて……」
「就職か」
彼方は、すぐには否定しなかった。
少し考え、それから静かに言った。
「それ自体は、悪い選択じゃないよ」
「……え?」
「大学に行くことだけが正解じゃない。仕事をして、自分の力で生活するのも立派な選択だ」
みさおは、意外そうに彼を見つめた。
頭ごなしに否定されると思っていた。
けれど、彼方はそうしなかった。
「ただし」
そこで、彼方の表情が少しだけ厳しくなった。
「どんな道を選ぶにしても、今のままでは困る」
「……はい」
「学校を卒業できなければ、選べる道も狭くなる。今の成績なら、留年だって他人事じゃない」
「…………」
「それに、社会に出たら勉強しなくていい、なんてことはないからね」
彼方は、お茶を一口飲んだ。
「仕事を覚えるのも勉強。資格を取るのも勉強。新しい環境に適応するのも勉強だ。大人になったら、誰かが全部教えてくれるわけじゃない」
その言葉には、実感がこもっていた。
彼方――その内側にいる正顕は、長い社会人生活を知っている。
学校を出れば勉強が終わるなど、幻想にすぎない。
むしろ、社会に出てからのほうが、自分で考え、調べ、判断しなければならない場面は増えていく。
「受験勉強だって、ただ問題を解くためだけにやるわけじゃない」
「……?」
「分からないことにぶつかったとき、どう考えるか。どこが間違っているのかを探して、どうすれば解決できるかを考える。その習慣を身につけることにも意味があるんだ」
みさおは、黙って聞いていた。
「だから、大学に行くかどうかは、これから考えればいい。今はまず、卒業できるだけの力をつけよう」
「……はい」
返事をしながら、みさおは少しだけ胸が痛くなった。
彼方の言葉は厳しい。
けれど、そこには彼女を見下す響きがなかった。
むしろ、自分の将来を、本人以上に真剣に考えてくれているように感じられた。
(……どうして)
みさおは、そっと彼の横顔を見た。
(どうして、この人は……)
以前の彼なら、こんな話をするはずがなかった。
自分の都合を押しつけることはあっても、みさお自身の将来など、気にかけることはなかった。
それなのに、今の彼は違う。
彼女が何を望んでいるのか。
どんな道を選ぼうとしているのか。
そして、そのために何が必要なのか。
きちんと考えてくれている。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
その感情に名前をつけるには、まだ早すぎる。
みさお自身も、そんなことは分かっていた。
彼を信じていいのか、まだ分からない。
過去の恐怖だって、消えたわけではない。
それでも。
(……もう少しだけ、この人のことを知りたい)
そんな考えが、心の片隅に芽生えていた。
*
食事を終えたみさおの前に、彼方は新しい皿を置いた。
白い皿の中央に、こんがりと焼き色のついたチーズケーキ。
表面は美しく、切り口はきめ細かい。
ふわりとしたスフレ生地と、しっとりしたチーズの層が絶妙なバランスで重なっている。
添えられた紅茶からは、上品な香りが立ち上っていた。
「……え?」
みさおは、目の前の皿を見つめた。
「デザート?」
「そう。甘いものは嫌いだった?」
「い、いえ! 大好きです!」
反射的に答えてしまった。
彼方は、ほんの少しだけ笑った。
「なら、よかった」
「い、いただきます……」
みさおはフォークを手に取り、ケーキを一口食べた。
そして。
「…………っ!」
目を見開いた。
口の中で、ふわりとほどける。
チーズの濃厚な風味。
しつこくない甘さ。
それでいて、後味には爽やかな酸味が残る。
食感も素晴らしかった。
軽いのに、物足りなさはない。
紅茶を一口飲めば、また次の一口が欲しくなる。
「……おいしい……!」
みさおは、思わず声を上げた。
「これ、すごくおいしいです!」
「そうか。口に合ったならよかった」
「ご、ご主人様。これ、どこのお店のケーキですか?」
「店?」
「はい。すごく有名なお店のものですよね? こんなにおいしいケーキ、初めて食べました」
彼方は、きょとんとした。
「いや、俺が作ったけど」
「…………」
みさおの動きが止まった。
「…………え?」
「俺が作った」
「…………今?」
「いや、今じゃないよ。さっきからここにあっただろう」
「そ、そうじゃなくて……!」
みさおは、目の前のケーキを凝視した。
どう見ても、素人の手作りというレベルではない。
焼き色も、形も、切り口も。
何より、味が違う。
これを作ったのが、目の前の男?
「……ご主人様って、料理もできるんですか?」
「一通りはね」
「一通りって……」
みさおは、思わず言葉を失った。
ステーキも、スープも、ケーキも。
どれも店で出てきてもおかしくない出来栄えだった。
それなのに、彼方はまるで特別なことではないかのように言う。
「気に入ったなら、残りを持って帰るといいよ。ホールで焼いたから、まだある」
「……えっ。いいんですか?」
「もちろん。お母さんにも食べてもらえばいい」
みさおの胸が、きゅっと締めつけられた。
母にも。
彼は、そう言った。
自分だけでなく、母のことまで気にかけてくれている。
そのさりげない優しさが、胸に沁みた。
「……ありがとうございます」
みさおは、小さく頭を下げた。
顔を上げたとき、彼方はすでに次の答案用紙を確認していた。
「さて。食べ終わったら、続きだな」
「…………」
みさおの笑顔が、ぴたりと止まった。
「……まだ、あるんですか?」
「もちろん。今日は始めたばかりだからね」
「…………はい」
彼方は真面目だった。
どこまでも真面目だった。
その真剣さに、みさおはまた少しだけ心を動かされる。
――同時に、彼女は悟った。
これから先、ここに来るたびに、参考書と問題用紙が待っているのだろう。
そして彼方は、きっと容赦しない。
(……私、これからどうなっちゃうんだろう)
みさおは、ケーキの最後の一口を口に運んだ。
甘くて、おいしい。
けれど、これからの未来を考えると、ほんの少しだけ泣きたくなった。
*
それから約二時間後。
高城家。
古びたアパートの小さなキッチンテーブルに、白い皿が置かれていた。
その上には、切り分けられたチーズケーキ。
向かいに座る母――高城さやかは、フォークを手に取ると、嬉しそうに一口食べた。
「…………!」
さやかの目が輝いた。
「なに、これ……!」
もう一口。
さらにもう一口。
彼女は、頬に手を当てながら、幸せそうに笑った。
「これ、最高ね!」
「…………うん」
みさおは、ぎこちなく頷いた。
母の反応は予想どおりだった。
あのケーキは、本当においしかった。
問題は、そのケーキをどこから持って帰ってきたのか、ということだ。
「お肉もすごくおいしかったし……」
さやかは、テーブルの端に置かれた包みを見た。
「こんなにいいお肉までいただいちゃって。いったい、どんなところで働いているの?」
「…………」
みさおの頬が、ぴくりと引きつった。
母は、何も知らない。
みさおが今日、どんな覚悟をしてマンションを訪れたのか。
そして、どんな壮大な勘違いをしていたのか。
そのすべてを、何ひとつ知らない。
さやかは、チーズケーキをもう一口食べた。
「それにしても、家庭教師のアルバイトなんて……いいところを見つけたわね」
「…………っ」
みさおの頬が、ひくひくと震えた。
家庭教師。
間違ってはいない。
間違ってはいないのだが。
何かが、決定的に違う気がする。
「う、うん……」
みさおは、ぎこちなく笑った。
「けっこう、割のいいバイトなんだ」
「そうなの?」
「うん。まかない付きだし……」
嘘だった。
いや、半分は本当だ。
食事は出る。
しかも、プロ級の料理が。
しかし、そこに至るまでの経緯を説明することなど、絶対にできない。
できるはずがない。
さやかは、そんな娘の内心など知らず、感心したように頷いた。
「よかったじゃない。少しでも家計の助けになるなら、お母さんも嬉しいわ」
「…………うん」
みさおは、目を逸らした。
良心が痛い。
痛すぎる。
しかし、今さら本当のことなど話せない。
母が知れば、きっと心配する。
そして、彼方のところへ行くことを止めるだろう。
それだけは、避けなければならなかった。
少なくとも、今は。
「でも、みさお」
「……な、なに?」
さやかが、ふと首を傾げた。
「あなた、いつからそんなに勉強を教えられるようになったの?」
「…………」
みさおの動きが止まった。
しまった。
そこは考えていなかった。
「そ、その……」
頭の中で、必死に言い訳を探す。
しかし、何も浮かばない。
さやかは不思議そうに続けた。
「あなた自身、学校の勉強で苦労していたでしょう? 家庭教師なんて、大丈夫なの?」
「だ、大丈夫!」
みさおは、思わず声を張り上げた。
さやかが目を丸くする。
「そ、そう? ならいいんだけど……」
「うん! 大丈夫だから!」
みさおは、引きつった笑顔で頷いた。
そして、苦し紛れに付け加える。
「相手は、小学生だから……!」
「小学生?」
「そ、そう! 小学生の男の子!」
言ってしまった。
圧倒的な嘘を。
みさおの額に、冷や汗が浮かぶ。
さやかは少し考えたあと、納得したように笑った。
「ああ、なるほど。小さい子なら、あなたにも教えられるわね」
「…………う、うん」
「よかった。これからも続けられそう?」
「つ、続ける……!」
みさおは、勢いよく頷いた。
「当分、続けるつもり!」
言い切ってから、彼女は心の中で頭を抱えた。
(何を言ってるの、私ぃぃぃ……!)
母は嬉しそうにチーズケーキを口に運んでいる。
「そう。頑張ってね、みさお」
「…………うん」
みさおは、ひきつった笑顔を浮かべた。
母は何も知らない。
家庭教師の相手が、実は自分よりもずっと大人の男であることも。
その男が、驚くほど料理上手であることも。
そして何より。
みさおが今日、マンションのドアをくぐる前に、どれほどの覚悟を決めていたのかも。
さやかは最後の一口を食べ終えると、満足そうに息を吐いた。
「本当においしかったわ。今度、お礼を言わないとね」
「…………っ!」
みさおの頬が、再びひくひくと震えた。
お礼。
母が、彼方に。
そんなことになったら、いったい何を話せばいいのだろう。
いや、その前に。
彼方は、母に会ったら何と言うだろう。
まさか、娘の成績が壊滅的だったと報告するのではないか。
あるいは、家庭教師としての成果を説明するのだろうか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなる。
「……みさお?」
「は、はいっ!」
「どうしたの? 顔が引きつっているわよ?」
「な、なんでもない!」
みさおは、ぶんぶんと首を振った。
「なんでもないから!」
「そう? 疲れているなら、早く休みなさいね」
「……うん」
母は、優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、みさおの胸がちくりと痛んだ。
嘘をついている。
母を安心させるためとはいえ、嘘をついてしまった。
けれど、今日のことを話す勇気は、まだない。
彼方のことも。
自分の心に生まれ始めた、名前のつけられない感情も。
何ひとつ、うまく説明できそうになかった。
(……明日も、行かなきゃ)
みさおは、そっと自分の手を握りしめた。
あのマンションへ。
あの人のところへ。
そして、また参考書と問題用紙と向き合うのだ。
そう考えただけで、気が遠くなりそうだった。
それでも。
彼方の穏やかな微笑みを思い出すと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
恐怖は、まだ消えていない。
戸惑いも、疑いも、残っている。
それでも、彼女の心は、昨日までとは少しだけ違う場所へ動き始めていた。
――そして、そんな娘の変化に、母のさやかはまだ気づいていない。
「それにしても、このチーズケーキ、本当においしいわね」
さやかは、空になった皿を見つめながら、もう一度嬉しそうに笑った。
「また作ってもらえないかしら?」
「…………」
みさおの頬が、ひくひく、ひくひくと震えた。
また。
作ってもらう。
彼方に。
自分が。
母に頼まれて。
そんな未来を想像した瞬間、みさおは笑顔のまま固まった。
(……どうして、こうなるのぉぉぉ……!)
もちろん、その心の叫びが母に届くことはなかった。
さやかは、何も知らないまま、幸せそうに紅茶を飲んでいた。
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