第7話 優しくしてください――その一言から、彼女の誤解は始まった。
高城みさおは、マンションのドアの前に立っていた。
目の前にあるのは、久遠彼方の住む一室。
昨日までなら、この扉を見ただけで足がすくんでいたはずだ。
この向こうにいる男は、彼女にとって恐怖そのものだった。
理不尽な命令。
逆らうことを許さない威圧感。
何をされるのか分からないという、逃げ場のない不安。
それなのに。
(……どうして、また来ちゃったんだろう)
みさおは胸元をぎゅっと握った。
昨日、彼方は頭を下げた。
自分が過去に何をしたのかを認め、謝罪し、これから償うと約束した。
警察に訴えてもいい。
裁判を起こしてもいい。
自分の人生をかけて責任を取る。
そう言い切った彼の表情には、少なくとも、みさおを騙そうとするような薄っぺらさはなかった。
大人の男らしい落ち着き。
逃げずに責任を引き受けようとする姿勢。
そして、自分の言葉に責任を持とうとする真剣な眼差し。
思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
(……だめ。信じちゃだめ)
彼は久遠彼方なのだ。
昨日まで自分を苦しめていた男と、同じ名前を持つ人間なのだから。
それなのに。
(……ちょっとだけ、楽しみだったりする)
そんな自分が、みさおには何よりも理解できなかった。
彼女は深呼吸をすると、インターホンに手を伸ばした。
ピンポーン。
しばらくして、ドアが開く。
「いらっしゃい」
そこに立っていたのは、スーツ姿の彼方だった。
きちんと整えられた襟元。
緩めていないネクタイ。
清潔感のある身だしなみ。
そして、穏やかな微笑み。
「待っていたよ」
「……っ」
心臓が跳ねた。
みさおは慌てて視線を落とした。
(な、なに……今の)
昨日までの彼方なら、こんなふうに客を迎えるような顔などしなかった。
命令するか、嘲笑するか、あるいは何も言わずに相手を怯えさせるか。
それが、彼女の知っている久遠彼方だった。
しかし、今の彼は違う。
穏やかで、余裕があって、どこか頼りがいがある。
そんな自分の感想に気づいた瞬間、みさおは心の中で首を振った。
(違う、違う、違う! 騙されちゃだめ!)
この男は危険なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は玄関をくぐった。
ドアが閉まる。
カチャリ。
その音に、肩がびくりと震えた。
「どうした?」
「な、なんでもありません……」
「そうか。じゃあ、リビングに来てくれ」
「……はい」
みさおは彼方の後ろを歩いた。
整然と片づけられた室内。
余計な物は少なく、テーブルの上もきれいに整っている。
昨日、初めて訪れたときには、そこまで気にする余裕などなかった。
しかし今日は違う。
彼方が歩く姿も、何気なく腕時計を確認する仕草も、妙に大人びて見えてしまう。
(……落ち着いて。これは、ただのマンションだから)
自分に言い聞かせる。
だが、彼方が振り返った瞬間、その努力はあっさり吹き飛んだ。
「じゃあ、早速始めようか」
「……っ!」
彼方はそう言うと、ネクタイに手をかけた。
す、と結び目を緩める。
続いて、ワイシャツの袖口を整えた。
その動作に、いちいち無駄がない。
仕事のできる大人の男。
そんな言葉が、みさおの脳裏をよぎった。
(は、始める……?)
何を。
何を始めるというのだろう。
昨日、彼方は「しばらく自分のところに来てほしい」と言った。
事情があるらしいことは分かっている。
けれど、彼はその理由を詳しく説明しなかった。
そして今日。
彼女はここに呼ばれた。
みさおの喉が、小さく鳴った。
「……あの」
「ん?」
「きょ、今日は……」
言葉が続かない。
彼方は不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「い、いえ……なんでもありません」
「そうか。じゃあ、場所を決めよう」
「場所……?」
「ああ。リビングにするか、キッチンのテーブルにするか」
彼方は室内を見回した。
「長くなるだろうから、少しでもリラックスできる場所がいいと思うんだ」
長くなる。
リラックスできる場所。
みさおの頭の中で、その言葉が何度も反響した。
(な、長く……?)
逃げ出したい。
しかし、逃げ出してどうなる。
彼方が本気で怒ったら?
昨日のような態度は、単に機嫌がよかっただけなのかもしれない。
優しい言葉も、穏やかな微笑みも、全部が一時的なものだったとしたら。
みさおは、ぎゅっと拳を握った。
ここで逆らえば、また元の彼に戻ってしまうかもしれない。
それなら。
(……我慢、しなきゃ)
彼女はうつむき、消え入りそうな声で答えた。
「そ、その……ベッドで……」
「ベッド?」
彼方が目を丸くした。
「はい……」
「いや、ベッドはちょっとなあ」
「……え?」
「姿勢が悪くなるだろう。それに、あまり集中できないと思う」
集中。
みさおはその言葉を聞き逃した。
集中できない。
そういうものなのだろうか。
彼女はますます顔を赤くした。
「そ、その……私、こういう経験がなくて……」
「経験?」
「は、はい……」
彼方は考え込むように顎に手を当てた。
「なるほど。まあ、初めてなら仕方ないか」
「……っ!」
初めて。
その言葉が、みさおの胸に突き刺さった。
みさおは彼方の様子を見て、少し考えたあとに尋ねた。
「その前に、シャワーを浴びたいです…」
「……えっ?」
みさおの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「そうなんだ……」
「別に構わないよ。そっちが落ち着くなら、先に浴びてきてもいい」
「…………」
みさおはうつむいた。
何が何だか分からない。
彼方は、なぜこんなにも平然としているのだろう。
どうして、こちらの気持ちなどお構いなしに話を進められるのだろう。
そして、なぜ自分は――。
(……ちょっとだけ、嬉しいと思っちゃったの?)
その事実が、何よりも恐ろしかった。
彼方は、そんな彼女の内心など知る由もなく、さらに首を傾げた。
「でも、ベッドを使う人って、そんなに多くないんじゃないかな」
「……えっ?」
「いや、いることはいるだろうけど。普通は机だと思うよ」
「つ、机……?」
「ああ。まあ、慣れていないなら、なおさら机のほうがいい」
机。
普通。
慣れていない。
みさおの頭の中で、言葉がぐるぐると回転する。
そして彼方は、何気ない調子で決定的な質問を口にした。
「ちなみに、得意なのは何?」
「と、得意……!?」
みさおは顔を上げた。
彼方は真剣な顔で彼女を見ている。
「うん。得意なものがあるなら、そこから始めてもいいと思うんだけど」
「そ、そんなもの……ありません!」
「えっ?」
「ぜ、全部、初めてですから……!」
「全部?」
彼方は目を瞬かせた。
「普段、やらないの?」
「……えっ」
「いや、普段から少しずつやっていれば、そこまで苦労しないと思うんだけど」
「ふ、普段から……!?」
みさおは絶句した。
そんなことを、日常的に?
この人は、いったい何を言っているのだろう。
彼方は彼方で、彼女の反応を見て首を傾げていた。
どうやら、自分の想定していた以上に、みさおは身構えているらしい。
だが、初めてなら仕方ない。
誰だって最初は分からないものだ。
彼方はそう判断し、軽く息を吐いた。
「まあ、普段やっていないなら、仕方ないか」
「……はい」
「なら、最初は基礎からだな」
「……っ」
基礎。
みさおは、ぎゅっとスカートの裾を握った。
ここまで来て、今さら逃げることなどできない。
ならば、せめて。
「そ、その……優しく、お願いします……」
彼女は、震える声でそう告げた。
彼方は一瞬だけ黙り込んだ。
そして、困ったように眉を下げる。
「……悪いけど、それは約束できないな」
「…………え?」
「俺、こういうことに関しては結構厳しいから」
みさおの顔から、血の気が引いた。
「す、すみません……」
「いや、謝ることじゃないよ」
「ご、ご主人様……」
思わず、昔からの呼び方が口をついて出た。
「精一杯、頑張りますから……」
彼方は、その呼び方に一瞬だけ表情を曇らせた。
しかし、今は何も言わなかった。
彼女の中に染みついた習慣を、すぐに変えられるとは思っていない。
それよりも、目の前の問題をどうにかしなければならない。
「まあ、今日は二時間くらいでいいだろう」
「……に、二時間?」
「ああ。土日は四時間くらい時間を取ったほうがいいな」
「よ、四時間……!?」
みさおの声が裏返った。
四時間。
そんなに長いのか。
いや、そもそも、どうしてそんな時間が必要なのだろう。
彼方は彼方で、彼女が驚いた理由をまったく理解していなかった。
「最初は大変だと思うけど、慣れれば八時間くらいはできるようになるよ」
「は、八時間……!?」
「うん」
「む、無理です!」
思わず叫んでしまった。
彼方は少しだけ目を見開き、それから苦笑した。
「いや、最初から無理だと決めつけるのはよくないだろう」
「で、でも……!」
「俺なんか、学生時代は十四時間くらいやった日もあったよ」
「じゅ、十四時間……!?」
みさおは両手で頭を抱えた。
(十四時間って、十四時間って……!)
想像もつかない。
そんなことをして、身体は大丈夫なのだろうか。
そもそも、人間にそんなことが可能なのだろうか。
彼女の常識が、音を立てて崩れていく。
「慣れるから。最初はきつくても、続けていれば何とかなる」
「……慣れるんですか?」
「もちろん」
彼方は、当然だと言わんばかりに頷いた。
「みんな、そのくらいはやるものだよ」
「み、みんな……!?」
みさおは愕然とした。
この世界の大人たちは、いったいどうなっているのだろう。
自分が知らなかっただけで、世の中とはそんなにも厳しいものだったのか。
彼女の頭の中では、すでに警報が鳴り響いていた。
一方、彼方はようやく合点がいったという顔をしていた。
「なるほど。君は、そこから認識が違っていたのか」
「……はい?」
「まあ、いい。まずは座ってくれ」
彼方はリビングのテーブルを指し示した。
「そこに座って、準備しておいて」
「……はい」
みさおは、力なく頷いた。
もう、覚悟を決めるしかない。
そう思いながら椅子に腰を下ろした、その瞬間だった。
彼方が、テーブルの下から分厚い束を取り出した。
ドサッ。
重々しい音が響く。
続いて、もう一冊。
さらに一冊。
そして、赤ペンと大量のプリント。
みさおは、ゆっくりと視線を落とした。
そこに並んでいたものは――。
参考書。
問題集。
模擬試験の答案用紙。
「…………え?」
彼方は当然のように椅子を引き、彼女の正面に腰を下ろした。
「じゃあ、まずはこの数学の問題から始めようか」
「…………」
「この前の模試と同じ範囲だから、解けるところまで解いてみてくれ」
「…………」
「英語は単語からだな。とりあえず、この単語帳の十ページ分を覚えておいて。あとで確認するから」
「…………」
みさおは、ぴくりとも動かなかった。
彼方は不思議そうに彼女を見た。
「どうした?」
「…………え?」
「いや、だから。数学と英語だよ」
「…………す、数学?」
「そう」
「……英語?」
「そうだけど」
沈黙。
みさおは、もう一度テーブルの上を見た。
参考書。
問題集。
模擬試験。
赤ペン。
単語帳。
そして、それらを当然のように並べている、真剣そのものの彼方。
ここに来るまで、彼女は何を想像していたのだろう。
彼は何をしようとしていたのだろう。
そして自分は、何に怯えていたのだろう。
「…………あの」
「ん?」
「きょ、今日は……その……」
「うん」
「……これを?」
「これを」
彼方は頷いた。
「君、英語と数学が壊滅的なんだよ」
「…………」
「テストの結果を見て、正直びっくりした。赤点スレスレじゃないか」
「…………」
「このままだと、かなり厳しいぞ。大学受験をするつもりなら、もう遅いくらいだ」
「…………」
「学生の本分は、まず学ぶことだ。今からでも本気で取り組まないといけない」
彼方は、赤ペンを指先で回しながら言った。
「覚悟しなさい」
みさおの頬が、ひくりと引きつった。
違う。
そうじゃない。
いや、何が違うのかを説明することすらできない。
彼方は最初から、ただ彼女の成績を心配していただけだった。
ネクタイを緩めたのも。
場所を選ばせようとしたのも。
基礎から始めると言ったのも。
時間がかかると説明したのも。
全部。
全部、これのためだったのだ。
(……私、何を考えてたの!?)
顔が熱い。
耳まで熱い。
今すぐこの場から消えてしまいたい。
しかし、目の前の彼方は、彼女の心の中で起きていた大騒動など知る由もなかった。
「どうした? 問題を解かないのか?」
「……い、いえ」
「分からないところがあれば、あとで説明する。まずは自分で考えてみてくれ」
「……はい」
みさおは、震える手でシャープペンシルを握った。
問題用紙に目を落とす。
数字と記号が並んでいる。
英単語が並んでいる。
さっきまで、あれほど恐ろしい未来を想像していたというのに。
現実に待っていたのは、もっと別の意味で恐ろしいものだった。
――学力不足。
――赤点。
――留年の危機。
(……どうして、こんなことに……)
みさおは、問題用紙の上に視線を落としたまま、遠い目をした。
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