第6話 理事長は気づいている――久遠彼方という男は、何かがおかしい。
翌日。
久遠彼方は、理事長室にいた。
室内の中央には、大きなマホガニー製のデスク。
壁には高価そうな絵画が飾られ、窓際には革張りのソファが置かれている。
一般的な高校の理事長室としては、いささか豪華すぎる。
いや。
この学園そのものが、どこかおかしいのだ。
少なくとも、俺の知っている日本の学校とは違う。
そんな感想を胸の内に押し込めながら、俺はデスクの向こう側に座る女を見た。
大括摩耶。
この学園の理事長。
金色の長い髪。
四十代ほどの年齢に見えるが、その容姿には年齢を感じさせない艶がある。
紫色のスーツを身にまとい、背筋を伸ばして座る姿には、他人を圧倒する自信が滲んでいた。
美しい。
しかし、その美しさに気を許してはいけない。
目が笑っていないのだ。
「昨日はどうだった?」
摩耶は、唇の端を持ち上げた。
まるで、面白い芝居の結末を尋ねるような口調だった。
俺は一瞬だけ考え、口元に薄い笑みを浮かべる。
「ええ。楽しめましたよ」
軽く肩をすくめる。
「おかげさまで」
内心では、冷や汗をかいていた。
――何が、おかげさまで、だ。
昨日の俺は、少女を家まで送り届けた。
食事を買い、タクシー代を渡し、久しぶりに酒を飲んだ。
それだけだ。
だが、この女が想定している「楽しんだ」の意味は、おそらく違う。
ここで真面目に否定すれば、かえって不審に思われる。
だから、久遠彼方らしい態度を演じる。
少なくとも、今は。
「…………」
摩耶の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「お前……」
彼女は俺の顔をじっと観察する。
「えらく変わったな」
「そうですか?」
「別人みたいだ」
――来たか。
俺は表情を崩さなかった。
この女は、俺の変化に気づいている。
当然だろう。
中身が違うのだから。
久遠彼方がどんな男だったのか、俺はゲームの断片的な記憶しか持っていない。
そのうえ、ゲームの中で描かれた彼方と、実際にこの世界で生きている彼方が完全に同じとも限らない。
下手に演じれば、すぐにボロが出る。
ならば。
相手が納得しそうな理由を、こちらから提示するしかない。
「女を……」
俺は、あえて言葉を切った。
「抱いたからでしょう」
摩耶の眉が、わずかに動く。
「……ほう?」
「男として、自信がついたんですよ」
俺は、口元に笑みを残した。
内心では、胃が痛かった。
自信なんて、これっぽっちもない。
そもそも俺は、茆原正顕だ。
こんな状況で余裕を持てるほど、肝が据わっているわけでもない。
ただ。
相手に弱みを見せれば、そこを突かれる。
それだけは分かっていた。
「なるほど」
摩耶は、再び笑った。
「それは良かった。引き続き、楽しんでくれ」
「ええ」
短く答える。
会話だけを聞けば、何の問題もない。
しかし。
俺は、彼女の視線が一度も俺から離れていないことに気づいていた。
試されている。
そう考えるべきだろう。
「ところで」
摩耶が頬杖をついた。
「こっちでの暮らしはどうだ?」
――こっち?
何気ない質問。
だが、俺の意識は一瞬で鋭くなった。
この世界での暮らし。
その言い方には、妙な含みがある。
まるで、俺が以前いた場所を知っているような。
あるいは。
俺がここではない場所から来たと、知っているような。
「ええ。まずまずです」
俺は、できるだけ自然に答えた。
「不自由はありません」
「そうか」
摩耶は、満足そうに頷いた。
それから。
「ああ、そうそう」
思い出したように、指先でデスクを叩く。
「お前の前の名前、なんだったかな?」
「…………」
来た。
「アリノ……だったか?」
彼女は、わざとらしく首を傾げる。
「アリタ? いや……」
そして、思い出したように笑った。
「そうそう。アリヨシだったな」
俺は、黙っていた。
内心では、思考が急速に回転していた。
――アリヨシ?
俺の名前ではない。
少なくとも、茆原正顕でも、久遠彼方でもない。
では、誰の名前だ?
この世界に、俺以外の転移者がいるのか。
それとも。
この身体の本来の持ち主である久遠彼方も、俺と同じように別の場所から来た人間なのか。
あるいは、摩耶が俺の反応を試すために、適当な名前を口にしただけか。
可能性はいくらでもある。
ここで慌てるわけにはいかない。
俺は、わずかに鼻を鳴らした。
「もう忘れましたよ」
「忘れた?」
「ええ」
グラスを傾けるような仕草で、手を軽く動かす。
「今は久遠彼方です。それ以外に、何かありますか?」
摩耶の目が細くなった。
「いいから、思い出せ」
声から笑みが消えていた。
命令。
この女は、俺が素直に従うと思っている。
以前の久遠彼方なら、どうだったのだろう。
少なくとも、彼女は俺を従わせることに慣れている。
だからこそ、ここで不用意に折れるわけにはいかなかった。
「……語るは無用。聞くのは野暮、というやつですよ」
俺は、静かに答えた。
「過去のことは、あまり思い出したくないんです」
「…………」
「忘れました」
沈黙。
摩耶は、俺を見つめていた。
笑ってはいない。
怒ってもいない。
ただ、観察している。
まるで、見慣れた道具が突然、自分の意思で動き始めたことに気づいた人間のように。
「……そうか」
やがて、彼女は口元を緩めた。
「なら、仕方ないな」
「ご理解いただけて何よりです」
俺は立ち上がった。
「では、失礼します」
頭を下げ、理事長室を後にする。
扉が閉まる直前。
背中に視線が突き刺さった。
俺は振り返らなかった。
振り返る必要はない。
あの女が、俺を疑っていることだけは分かったからだ。
*
理事長室。
扉が閉まると、摩耶の笑みが消えた。
「…………」
彼女はしばらく、彼方が出ていった扉を見つめていた。
やがて、デスクの上に置いてあった呼び鈴には触れず、静かに声を発する。
「おい。いるか?」
部屋の隅。
誰もいないはずの場所に、影が落ちた。
「はっ」
影の中から、低い声が返ってくる。
「あいつを調べろ」
「久遠彼方を、ですか?」
「そうだ」
摩耶は指を組んだ。
「昨日までのあいつは、あんな男じゃなかった」
自信がない。
人の顔色を窺う。
自分より強い人間には媚び、弱い人間には虚勢を張る。
少なくとも、摩耶が知る久遠彼方は、そういう男だった。
だが、今日の彼方は違った。
こちらの探りに動じない。
質問の意図を読んでいる。
不用意な情報を渡さず、こちらが与えた名前にも食いつかない。
そして何より。
以前の彼方にはなかった、妙な落ち着きがある。
「別人になった……というより」
摩耶は、唇を吊り上げた。
「中身が入れ替わったように見えるな」
「…………」
「異端者かもしれん」
彼女の瞳に、冷たい光が宿った。
「正体を突き止めろ。何を考えているのか、どこから来たのか。全部だ」
「はっ!」
影が深々と頭を下げる。
次の瞬間。
その姿は、音もなく消えた。
「…………」
一人残された摩耶は、再びデスクに肘をついた。
「久遠彼方……」
その名を、確かめるように呟く。
「お前は、一体何者になった?」
答える者は、いない。
だが。
彼女は確信していた。
昨日までの久遠彼方と、今日の久遠彼方は、何かが決定的に違う。
そして、その変化は。
決して、彼女にとって都合のいいものとは限らない。
昼休み。
俺は化学準備室で、ひとり考え込んでいた。
理事長との会話を反芻する。
大括摩耶。
あの女は、明らかに俺を疑っている。
それ自体は、仕方がない。
昨日までの久遠彼方と、今の俺では、振る舞いが違いすぎるのだろう。
問題は。
「……アリヨシ、か」
あの名前だ。
摩耶は、何を知っている?
この世界には、俺以外にも別の世界から来た人間がいるのか。
それとも、あの女は何かを知ったうえで、俺に揺さぶりをかけたのか。
どちらにせよ。
不用意に動けば、面倒なことになる。
まずは、みさおから話を聞きたい。
ただし、彼女を問い詰めるつもりはない。
あの少女は、俺を恐れている。
それは昨日、嫌というほど分かった。
だからこそ。
急がなければならない。
俺が何者なのか。
この世界で何が起きているのか。
そして。
彼女が、何をされてきたのか。
――コンコン。
不意に、ドアがノックされた。
「失礼します」
鈴の鳴るような声。
俺は顔を上げた。
扉の向こうに立っていたのは。
セーラー服姿の少女。
黒髪が、肩のあたりでさらりと揺れる。
「……みさお?」
「あ……はい」
少女は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「その……昨日のことなんですけど」
手には、封筒が握られていた。
彼女は両手でそれを差し出す。
「これ……お釣りです」
「…………」
俺は封筒を見た。
昨日、タクシー代として渡した一万円。
そのお釣りだろう。
「返さなくていいと言っただろう」
「で、でも……」
みさおは困ったように目を伏せた。
「ママが……返しなさいって」
「……なるほど」
俺は小さく息を吐いた。
彼女の母親か。
どうやら、きちんとした人らしい。
少なくとも、娘が受け取った金を、そのまま自分たちのものにするつもりはないようだ。
「親御さんに話したのか」
「その……タクシー代を出してもらったことだけです」
「そうか」
それならいい。
俺の正体について、余計な話を広められるのは困る。
もっとも、みさお自身が俺をどう理解しているのかさえ、まだ分からないのだが。
俺は封筒を受け取った。
「……分かった。これは預かっておく」
「はい……」
みさおは、ほっとしたような、それでいて少し残念そうな顔をした。
俺は気づかないふりをする。
いや。
正確には、どう反応すればいいのか分からなかった。
俺は茆原正顕だ。
目の前の少女と、昨日までの久遠彼方との関係を知らない。
だからこそ、まずは。
「ちょうどよかった」
「……え?」
「君と話がしたかったんだ」
「……はい。ご主人様」
「…………」
俺は額を押さえた。
「みさお」
「は、はい!」
「ここでは、その呼び方はやめてくれないか」
少女の顔が強張った。
「……申し訳ありません。では、どうお呼びすれば……」
まただ。
彼女は、俺の言葉を一つ間違えれば、何か恐ろしいことが起きるとでも思っている。
そんな顔をする。
俺は、できるだけ穏やかな声で答えた。
「先生、で頼む」
「先生……?」
「そう。ここは学校だからな」
少しだけ冗談めかして付け加える。
「その方が自然だろう?」
「……はい」
みさおは、ゆっくり頷いた。
「分かりました。先生」
その声は、まだ少し震えていた。
けれど。
昨日よりは、ほんのわずかに。
俺の顔を見て話してくれている気がした。
*
「……みさお」
俺は、椅子から立ち上がった。
そして。
彼女に向かって、深く頭を下げた。
「すまなかった」
「…………え?」
みさおが、目を見開く。
「おとといまでの俺は……どうかしていた」
正確には。
おとといまでの俺は、茆原正顕ではない。
だが、そんなことを説明しても意味がない。
俺は久遠彼方として、この世界にいる。
ならば。
この身体がしてきたことから、逃げるわけにはいかない。
「俺は、生まれ変わったんだ」
言ってから、少しだけ苦笑した。
ずいぶんと大げさな言葉だ。
だが。
少なくとも、俺の中では嘘ではない。
「君にしたことは、許されることじゃない」
みさおの表情が変わる。
戸惑い。
警戒。
そして、信じられないものを見るような目。
「俺が何を言っても、今さら信じられないだろう」
「…………」
「それでも、約束する」
俺は彼女の目を見た。
「必ず、元に戻す」
何を、どこまで戻せるのか。
まだ分からない。
それでも。
この少女が、自分の意思で生きられるようにする。
それだけは決めていた。
「その後は……君の好きにすればいい」
「……好きに?」
「警察に突き出してもいい。訴えてもいい」
俺は静かに続けた。
「俺が君にしたことの責任は、俺が取る」
「…………」
「一生をかけて償う」
みさおは、何も言わなかった。
ただ、俺を見つめていた。
俺は、もう一度頭を下げる。
「本当に、すまなかった」
沈黙。
化学準備室の窓から、昼休みの喧騒が遠く聞こえてくる。
廊下を走る足音。
どこかの教室から聞こえる笑い声。
ここだけが、別の世界のように静かだった。
やがて。
「…………」
みさおは、ゆっくりと息を吸った。
――何、これ。
彼女の頭の中は、完全に混乱していた。
おとといまでの久遠彼方。
その姿を思い出す。
怖かった。
逆らうことなど、考えられなかった。
自分の言葉も。
自分の気持ちも。
何もかも押し殺して、ただ相手の機嫌を損ねないようにしてきた。
それなのに。
今、目の前にいる彼方は。
頭を下げている。
自分に。
あの久遠彼方が。
「…………」
みさおは、思わず彼の顔を見つめた。
大人の男。
自分よりずっと年上で。
落ち着いていて。
言葉を選びながら、真摯に話している。
自分が何を感じているのか。
どうしてほしいのか。
その答えを、急かそうとしない。
そして何より。
自分が受けたことを、なかったことにしようとしていない。
許せとも。
忘れろとも。
言わない。
ただ、責任を取ると言っている。
「……っ」
みさおの胸が、小さく跳ねた。
何だろう。
この気持ちは。
怖い。
まだ、怖い。
彼の声が低くなると、身体が緊張する。
急な動きには、反射的に身構えてしまう。
それは、簡単には消えない。
なのに。
目の前の彼方を見ていると。
昨日までとは違う感情が、心の奥に生まれてくる。
戸惑い。
疑い。
そして。
ほんの少しの――期待。
もしかしたら。
本当に。
この人は変わったのだろうか。
いや。
それとも。
最初から、彼女が知らなかった一面があったのだろうか。
答えは分からない。
だから、みさおは黙っていた。
ただ。
彼の言葉を、もう少しだけ聞いていたいと思った。
*
「……それで」
俺は頭を上げた。
「君には、もうしばらく家に通ってもらいたい」
「……え?」
みさおの表情が、一瞬で固まった。
――しまった。
言い方が悪かったか。
俺は慌てて言葉を継ぐ。
「もちろん、君に危害を加えるつもりはない」
「…………」
「約束する」
俺は、彼女から目を逸らさなかった。
「ただ……この学園には、まだ俺の知らないことが多すぎる」
これは本音だった。
理事長の大括摩耶。
彼女の反応。
この世界の仕組み。
そして、みさおが置かれている状況。
俺一人では、分からないことが多すぎる。
それに。
理事長が俺を疑っている以上、下手に動けば、みさおにも危険が及ぶかもしれない。
「君を利用したいわけじゃない」
俺は、できるだけ誤解のないように言葉を選んだ。
「ただ、君の話を聞きたいんだ。何が起きているのか、少しずつでいいから教えてほしい」
「……先生」
「嫌なら、無理にとは言わない」
みさおは、じっと俺を見ていた。
やがて。
「……はい」
小さな声で答えた。
「分かりました。先生」
「……ありがとう」
俺は、ようやく息を吐いた。
これで少しは、話ができるだろうか。
そう思った、そのとき。
「…………」
みさおが、ほんのりと頬を赤くしていることに気づいた。
「どうした?」
「い、いえっ! 何でもありません!」
彼女は慌てて首を振った。
「そうか?」
「はいっ!」
返事が、妙に大きい。
俺は首を傾げた。
……何か、変なことを言っただろうか。
心当たりがない。
いや。
そもそも、俺はこの世界の常識すら、まだよく知らないのだ。
不用意な言動は控えた方がいい。
そう考え、俺は話を切り上げようとした。
「じゃあ、今日は――」
その瞬間。
みさおは、彼の横顔を盗み見た。
真剣な眼差し。
落ち着いた声。
自分のしたことを、きちんと認める潔さ。
そして。
こちらの返事を待つ姿勢。
これまで彼女が知っていた大人たちとは、何かが違う。
自分の気持ちを勝手に決めつけない。
怖がっていることを、責めない。
許していないのに、許したことにしない。
そんな人がいるなんて。
思ってもみなかった。
――久遠先生って。
こんな人だったの?
もちろん、まだ信じ切れない。
彼が本当に変わったのか。
それとも、何か別の目的があるのか。
確かめなければならない。
母を守るためにも。
自分自身を守るためにも。
けれど。
彼が頭を下げたとき。
胸の奥が、確かに揺れた。
それは恐怖だけではなかった。
彼の言葉を、信じてみたい。
ほんの少しだけ。
そう思ってしまった。
「…………」
みさおは、熱くなった頬を隠すように俯いた。
――大人の男の人って、こんなに……。
そこまで考えて。
自分の思考に、さらに戸惑う。
何を考えているのだろう。
相手は、あの久遠彼方なのに。
昨日まで、恐怖の対象だった人なのに。
それなのに。
今は。
もう少しだけ、この人のことを知りたいと思っている。
その気持ちが何なのか。
みさおには、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
昨日までの久遠彼方と。
今日の久遠彼方は。
まるで別人だった。
そして、その変化に戸惑っているのは――。
理事長だけではなかった。
みさお自身もまた。
久遠彼方という男に、少しずつ心を動かされ始めていた。
それが恋の始まりなのか。
それとも、恐怖から解放されたいという願いが生んだ、一時的な感情なのか。
まだ、誰にも分からない。
彼女自身にさえ。
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