第5話 「ゲームの世界」なんてありえない――それでも、彼女は母を守ると決めた。
夜。
部屋の明かりを落とした。
テーブルの上には、コンビニで買った焼酎。
グラスに注ぐ。
透明な液体が、照明を受けて静かに揺れた。
俺――茆原正顕は、煙草に火をつける。
紫煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
「…………」
一口。
久しぶりの酒だった。
身体が健康だった頃には、当たり前だった感覚。
けれど今は。
その一口一口が、妙に現実感を持っている。
「……ゲームの世界、か」
口に出してみる。
馬鹿馬鹿しい。
そんなわけがない。
ゲームの世界に入り込むなんて。
普通に考えれば、ありえない。
そもそも俺は、もうすぐ死ぬはずだった。
それが神社へ行って。
怪しげな神様に出会って。
気づけば、知らないマンションの一室にいて。
鏡を見れば、別人になっていた。
そして。
目の前にいた少女は――。
かつて自分が遊んだゲームのヒロイン。
高城みさお。
「…………」
煙草を灰皿へ置く。
頭の中で、記憶を整理する。
あのゲーム。
『凌辱の退魔 学園が堕ちるとき』
俺が覚えている範囲では。
舞台は、ある学園。
その学園は、理事長を筆頭に魔族に支配されている。
しかし。
それを知らない生徒たちは、普通の学校生活を送っている。
やがて主人公たちが異変に気づき。
魔族の存在を知る。
そして。
彼らと戦うことになる。
「……そういう話だった」
もちろん。
明るい話ではない。
途中では生徒が命を落としたり。
魔族によって凌辱される人物もいる。
そして――。
「久遠彼方」
俺自身が、その名前を思い出す。
ゲームにおける俺の立場。
正確には。
今の俺が入ってしまった身体の人物。
久遠彼方。
ゲームの中では、主人公たちと対立する側の人間だった。
そして。
「お気に入りの女を集めて……ハーレム、か」
思わず眉をひそめる。
「無理だろ」
即答だった。
俺には無理だ。
そもそも。
「ハーレムなんて、面倒くさすぎる」
一人の男を巡って。
複数の女性が同じ屋根の下に集まる。
そんな環境。
どう考えても平穏に終わるわけがない。
誰かが嫉妬する。
誰かが傷つく。
誰かが相手を追い落とそうとする。
「一人の男を取り合って、醜い争いになるに決まってる」
想像するだけで疲れる。
「……まっぴらごめんだ」
焼酎を一口。
喉を通る熱さが、妙に心地いい。
だが。
そんなことより問題なのは――。
「ゲームの結末だ」
俺はテーブルに肘をついた。
最後には。
魔界への門が開く。
そして。
学園そのものが――地獄へ落ちる。
「…………」
そこで俺は、ふと考えた。
ゲームなら。
それでいい。
プレイヤーは画面の向こう側にいる。
悲惨な展開も。
異常な事件も。
所詮はシナリオだ。
しかし。
「現実に起きたら……そうはいかない」
生徒が次々と死ぬ。
不可解な事件が起きる。
そうなれば、警察が動く。
マスコミも来る。
保護者も黙っていない。
PTAだってある。
学校側がいくら強権的に隠蔽しようとしても。
今の日本で。
学園全体を完全に封鎖して、何事もなかったことにするなんて――。
「……無理だ」
絶対に、どこかで破綻する。
外部から人が入る。
警察が調べる。
報道される。
学校そのものが社会から注目される。
そんな状態で。
魔族による支配?
生徒たちへの異常な事件?
魔界の門?
「……ありえない」
俺はもう一度、煙草を吸った。
「じゃあ……ここは何なんだ?」
その問いに。
昼間、聞いた言葉が蘇る。
――歪んだ欲望が生み出した世界。
ツボニールは、そう言っていた。
「…………」
世界そのものが、完全にゲームと同じなのではない。
そう考えれば。
説明はつく。
ゲームという形で知られていた物語。
そこにあった設定。
そこに存在した人物。
そして。
誰かの歪んだ欲望。
それらが混ざり合って。
別の世界として形になった。
「……要素としては、存在するのか」
魔族。
学園。
理事長。
久遠彼方。
高城みさお。
そして――。
まだ見えていない黒幕。
「黒幕はいるはずだ」
これは、ほぼ確信だった。
生徒たちがこんな目に遭っている。
しかも。
それを学園側が隠している。
一教師の独断でできる話じゃない。
「一人で全部動かせる規模じゃない」
教師。
学校関係者。
理事長。
魔族。
あるいは――。
もっと別の何か。
「……誰かが仕組んでいる」
なら。
俺が最初にするべきことは。
正体を明かすことではない。
「しばらくは……」
俺はグラスを見つめた。
「俺が、茆原 正顕だってことは、伏せておいた方がいいな」
そもそも。
言ったところで信じてもらえるとは思えない。
目の前にいる少女からすれば。
俺は久遠彼方なのだ。
「……俺が俺だって言っても」
笑うしかない。
「信じてもらえるわけがない」
そして。
もう一つ。
俺には分からないことがある。
「みさお……」
あの少女。
確かに。
高城みさおだった。
間違いない。
顔も。
名前も。
ゲームの記憶と一致している。
なのに。
「どうして、俺だと気づかない?」
俺は彼女に会った。
彼女は俺を――。
久遠彼方として認識していた。
当然だ。
外見がそうなのだから。
しかし。
俺は。
茆原正顕だ。
「……どういうことなんだ?」
答えは出ない。
煙草の煙だけが。
部屋の中を漂っていた。
その頃。
高城みさおは。
布団の中にいた。
「…………」
眠れない。
目を閉じても。
昼間の出来事が蘇る。
あの人。
久遠彼方。
自分にとって。
恐怖の対象であるはずの人。
なのに。
「…………」
何度考えても。
分からない。
どうして。
私は。
無事に家へ帰ってこられたのだろう。
何もされなかった。
怒鳴られもしなかった。
まして。
母に何かされることもなかった。
それどころか。
お茶を淹れてくれた。
夕飯を買ってくれた。
家までタクシーで送ってくれた。
しかも。
母の分まで。
「…………」
みさおは布団の中で目を開けた。
「……おかしい」
絶対に。
おかしい。
あの人は。
そんなことをする人ではないはずだった。
なら。
「……何か企んでる?」
安心させる。
警戒を解かせる。
そして。
そのあとで。
突然、すべてを奪う。
そういう罠なのかもしれない。
「…………」
怖い。
だから。
安心なんてできない。
でも。
今日の彼方の姿を思い出す。
コンビニで。
自分に何も聞かず。
自分の好物を選んでいた。
まるで。
ずっと前から知っていたみたいに。
「……どうして」
そして。
母の分まで買っていた。
タクシー代まで出して。
お釣りは自分が持っていいと言った。
「…………」
訳が分からない。
怖い。
警戒しなければならない。
それなのに。
今日の彼方を思い出すと。
恐怖だけではない。
何とも言えない感情が残る。
自分の知っている彼方とは。
あまりにも違いすぎた。
「……別人みたい」
いや。
もしかしたら。
本当に――。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
けれど。
すぐに否定する。
「そんなわけ……ない」
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
なのに。
中身だけが違うように感じる。
「…………」
みさおは布団を握った。
そして。
昼間の言葉を思い出す。
――君に危害は加えない。
あの声。
あの目。
あの人は。
本当にそう言っていた。
「…………」
分からない。
分からないからこそ。
怖い。
でも。
ひとつだけ。
はっきりしていることがある。
みさおは、隣の布団を見る。
そこでは。
母――高城さやかが眠っている。
小さな寝息。
狭い部屋。
古びた家具。
父親が亡くなってから。
二人でなんとか暮らしてきた。
裕福ではない。
決して楽でもない。
それでも。
母だけは。
「…………」
みさおは静かに布団を握りしめた。
「ママ……」
小さな声。
「絶対に守るから……」
それだけは。
誰にも奪わせない。
たとえ。
自分がどうなっても。
母だけは。
「…………」
みさおは目を閉じた。
眠れない。
考えれば考えるほど。
頭の中はぐちゃぐちゃになる。
彼方は何者なのか。
なぜ急に変わったのか。
なぜ自分の好物を知っているのか。
なぜ母のことまで気遣ったのか。
そして――。
なぜ。
あの人を見ると。
怖いのに。
完全には嫌いになれないのか。
その答えだけは。
今夜の彼女には、まだ分からなかった。
ただ。
母の眠る隣で。
みさおは、もう一度だけ呟いた。
「……ママは、私が守る」
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