第10話 「君の恋心は、偽物かもしれない」――彼女が初めて恋を知り、初めて失恋した夜(2)
午後の授業が始まった。
彼方は化学の教科書を開き、黒板に式を書きながら説明していた。
「この反応では、物質の量の関係を正確に捉える必要がある。公式を丸暗記するだけでは、少し条件が変わったときに対応できなくなるからね」
落ち着いた声。
分かりやすい説明。
生徒たちは、以前よりも真剣に授業を聞いている。
質問が出れば、彼方は手を止めて丁寧に答えた。
難しいところは、具体例を交えて説明する。
分かるまで待つ。
そして、理解できた生徒には、きちんと頷いてみせる。
特別なことをしているわけではない。
ただ、教師として当たり前のことを、当たり前にやっているだけだ。
しかし、それが以前の彼方とは大きく違っていた。
「先生、ここが分からないんですけど」
「どこかな?」
「この係数って、どうしてこうなるんですか?」
「いい質問だね。じゃあ、順番に考えてみよう」
彼方はチョークを置き、生徒の机まで歩いていった。
その自然な振る舞いを、みさおはぼんやりと眺めていた。
(……すごいな)
誰にでも優しい。
誰に対しても、適切な距離を保つ。
相手の顔色をうかがいすぎず、かといって冷たく突き放すこともない。
まるで、最初から大人になる方法を知っていたかのようだった。
そして、みさおは気づいてしまった。
自分が、彼方のそんな姿を見ている時間が増えていることに。
授業中も。
ホームルームでも。
家で一人になったときでさえ。
彼方の言葉や表情を、何度も思い出している。
彼が作ってくれた料理。
分からない問題を一緒に考えてくれたときの声。
将来のことを真剣に話してくれた横顔。
そして、最後に向けられた穏やかな微笑み。
(……好き、なのかな)
その考えが浮かんだ瞬間、みさおの心臓が大きく跳ねた。
(……私、ご主人様のことが……?)
否定しようとした。
そんなはずはない。
自分は彼を怖がっていたはずだ。
彼の顔を見るだけで、身体が強張っていたはずだ。
今だって、過去のことを思い出せば不安になる。
それなのに。
彼の姿を目で追ってしまう。
声が聞こえると、つい顔を上げてしまう。
彼が自分に微笑んでくれると、一日中そのことを考えてしまう。
他の女子が彼を褒めれば、胸が痛む。
彼を誰かに取られたくないと思ってしまう。
これを恋と呼ばずに、何と呼べばいいのだろう。
(……私、本当に……)
みさおは、ノートに視線を落とした。
文字が、うまく頭に入ってこない。
彼方は黒板の前で、説明を始めた。
みさおは、その背中を見つめていた。
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
嬉しい。
もっと話したい。
もっと自分を見てほしい。
もっと、彼に認められたい。
その感情は、もう誤魔化せそうになかった。
(……好き)
みさおは、心の中でそっと呟いた。
(私、ご主人様が……好きなんだ)
ようやく認めたその気持ちは、思っていた以上に大きかった。
けれど。
恋を自覚したからこそ、彼女はまだ知らなかった残酷な事実に、少しずつ近づいていくことになる。
*
その日の放課後。
藤堂やまとは、教室の前で山形紗理奈を待っていた。
「紗理奈、帰ろうぜ!」
「うん、ちょっと待って!」
紗理奈は鞄を持ち、やまとのもとへ駆け寄った。
二人が並んで歩き出す。
その光景を、みさおは教室の窓越しに見ていた。
やまとは明るく笑い、紗理奈も楽しそうに笑っている。
幼馴染。
昔から一緒にいる二人。
困ったときには助け合い、何でも言い合える関係。
やまとは、まさに物語の主人公のような男だった。
誰にでも優しく、正義感が強く、困っている人間を放っておけない。
以前の自分なら、そんな彼に憧れていたのかもしれない。
実際、かつてのみさおは、やまとに淡い好意を抱いていた。
彼が誰かを助ける姿を見るたび、胸が温かくなった。
自分にも、いつかあんなふうに手を差し伸べてくれるのではないか。
そんな期待を抱いたこともあった。
けれど。
(……あれ?)
今、二人の姿を見ても、以前のような胸の高鳴りはなかった。
もちろん、やまとが嫌いになったわけではない。
彼は今でも、明るくて優しい人間だと思う。
ただ。
彼の笑顔を見ても、心が動かなくなっていた。
代わりに浮かぶのは、別の男の顔だった。
穏やかな眼差し。
落ち着いた声。
料理を作る手つき。
自分の将来を真剣に考えてくれた言葉。
そして、決して自分に無理なことを強要しない、あの距離感。
(……ご主人様)
気づけば、また彼方のことを考えていた。
やまとと彼方を比べるつもりなどなかった。
そもそも、二人は立場も年齢も違う。
比べること自体が間違っている。
それでも、どうしても考えてしまう。
やまとは、同年代の男の子だ。
明るく、真っ直ぐで、少し無鉄砲なところもある。
そんな彼を、以前のみさおは魅力的だと思っていた。
しかし今は。
彼の言葉も、振る舞いも、どこか幼く感じてしまう。
それは、やまとが変わったからではない。
みさおの目に映る世界が、変わってしまったのだ。
そして、彼女はもう一つの事実にも気づいていた。
やまとには、紗理奈がいる。
幼馴染の二人は、周囲から付き合っているのではないかと噂されている。
実際のところ、どうなのかは分からない。
けれど、今のみさおには、もう確かめたいとも思えなかった。
(……もう、いいかな)
その感情は、静かだった。
失恋したときのような、激しい痛みはない。
ただ、かつて胸の中にあった淡い憧れが、ゆっくりと薄れていく。
そして、その空いた場所に。
別の感情が、少しずつ満ちていく。
(……私が好きなのは)
みさおは、窓の外から視線を外した。
(……ご主人様なんだ)
その事実を認めた瞬間、胸が高鳴った。
嬉しい。
けれど、怖い。
嬉しいのに、怖い。
なぜなら、彼女はまだ知らなかったからだ。
彼方が自分をどう思っているのか。
自分の気持ちが、彼に届くことはあるのか。
そして。
自分が抱いているこの恋心は、本当に自分自身のものなのか。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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