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第30話 私の旦那「彼女はいない」って、どういうこと!?

 放課後。


 彼方こと茆原正顕は、教室で補習を行っていた。


 参加しているのは、赤点スレスレの生徒と、自主的に補習を希望した生徒たち。


 もちろん、高城みさおもいる。


 理由は簡単。


 彼女もまた、赤点スレスレだからだ。


(……数学って、どうしてこんなに難しいのかな)


 みさおは問題集を見つめ、ため息をついた。


 しかし、彼女の集中力は長く続かなかった。


「彼方っち、ここ教えてよ」


 声をかけたのは、根津美束だった。


「うん。これは、まずこの式を整理して……」


 正顕が問題集を指さして説明する。


 すると美束は、わざとらしいほど自然に椅子を寄せた。


 肩が触れそうな距離。


 正顕はさりげなく半歩、横にずれる。


 美束も、さりげなく距離を詰める。


 正顕がずれる。


 美束が詰める。


 正顕がずれる。


 美束が詰める。


(……何、この攻防)


 みさおは、シャーペンを握る手に力を込めた。


(ちょっと、美束? 近くない?)


 思わず目を見開く。


(私の旦那なんだけど!)


 正顕は、ちゃんと距離を取っている。


 そこは認めよう。


 だが――。


(あいつも、もっとはっきり断りなさいよ!)


(「彼女がいるから、そんなに近づかないで」って言えばいいでしょうが!?)


 もちろん、正顕がそう言えない事情はわかっている。


 学校では、二人の結婚を隠しているのだ。


 だからこそ、正顕は教師として冷静に対応している。


 頭では理解している。


 理解はしているのだが……。


(それとこれとは、話が別なの!)


「先生って、彼女いるんですか?」


 別の女子生徒が、興味津々で尋ねた。


 みさおの手が止まる。


「彼女か……いないな」


 正顕は朗らかに答えた。


 ――みさおの思考が停止した。


(…………は?)


(え? 今、何て?)


「じゃあ、私、立候補していいですかー?」


 冗談めいた声に、教室が笑いに包まれる。


「まあ、お褒めの言葉として受け取っておくよ。ありがとう」


 正顕も笑顔で応じた。


 教師としては、上出来の受け答えである。


 教室の空気も、すっかり和やかになった。


 ただし、みさおの周囲を除いて。


(ちょっと待って)


(私、いるよね?)


(あなたの奥さん、ここにいるよね!?)


 しかも、同じ教室に。


 しかも、すぐ近くに。


 しかも、現在進行形で補習を受けている。


 これほどわかりやすい妻がいるだろうか。


 ――いや、本人たち以外には知られていないのだが。


 正顕としては、関係を隠すための返答だった。


 しかし、その言葉はみさおの心に、見事なまでに火をつけた。


(正顕、あいつ……!)


(バカなの? アホなの!)


(勘違いするじゃん みんな!)


 みさおは頬を膨らませた。


 その目は、じっと正顕を追いかけている。


 そして、美束のほうを見る。


 彼女は、正顕を見つめてにっこりと笑っていた。


 その目が、獲物を見つけた肉食獣のように輝いている。


(……あの子、完全にその気になってる!)


 みさおは、すうっと目を細めた。


(帰ったら、ちゃんとお話ししましょうね……?)


 その日、茆原家で夫婦会議が開かれることが決定した。


 なお、議長はみさお。


 被告人は正顕。


 判決は、まだ出ていない。


 たぶん、出る前から決まっている。


     



 かつて、みさおは正顕を「ご主人様」と呼んでいた。


 彼の顔色をうかがい、一歩引いて接していた頃もある。


 けれど、今は違う。


 妻という立場を得た彼女は、正顕に遠慮しなくなった。


 呼び方も、いつしか「正顕さん」に変わっている。


 そして、心の中では――。


(まったく、あいつったら……)


 ご主人様どころか、あいつ。


 本人は、そんな変化をまるで気にしていない。


 むしろ、自分のほうが立場は上だとさえ思っている。


(私が奥さんなんだから、もうちょっと自覚してほしいんだけど!)


 人は変わる。


 夫婦の関係も変わる。


 ただし、数学の成績は変わらない。


「高城さん。次の問題、解いてみようか」


「えっ!?」


「さっきからノートが進んでないよ」


「ちゃんと聞いてたもん!」


「じゃあ、この問題は?」


「…………」


 みさおは、問題集を見つめた。


 式が並んでいる。


 答えは出てこない。


(……美束のせいだ)


 見事な責任転嫁だった。



     



 夕食の時間。


 みさおは、正顕と母のさやかを交互に見ていた。


 今日も二人の会話が弾んでいる。


「そういえば、今日は女子生徒にからかわれましてね」


 正顕が話を切り出した。


「あら、どんなふうに?」


「彼女がいるのか、とか。立候補していいか、とか」


「まあ。先生も大変ね」


「冗談だとは思いますけど」


「ふふっ。年頃の女の子って、そういう話が好きだものね」


「そうですね」


 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


(…………)


 みさおは、ご飯を口に運んだ。


(……仲良しだね?)


 もぐもぐ。


(ずいぶん楽しそうだね?)


 もぐもぐ。


(……私もいるんだけど!)


 さやかは、正顕と話す時間を最近少し楽しみにしていた。


 同年代だからこそ通じる、昔の映画や音楽の話。


 何気ない話題で笑い合えるのが、心地よいのだ。


 正顕が笑うと、つられて自分も笑ってしまう。


 そんな自分に気づくと、さやかはほんの少しだけ照れくさくなる。


 もちろん、本人はそれを恋心だとは認めていない。


 まだ、ほんの少し。


 ただ、一緒に話していると楽しい。


 それだけのことだ。


「でも、みさおのことは大切にしてあげてね」


 さやかが、ふと思い出したように言った。


「ええ。恋女房ですから」


 正顕は、何のためらいもなく答えた。


 みさおの頬が、ほんのり緩む。


(……恋女房)


(そう! 恋女房!)


 嬉しい。


 とても嬉しい。


 しかし、その直後、放課後の出来事がよみがえった。


(だったら、どうして『彼女はいない』なんて言ったのよ!)


 みさおは、正顕をじっと見た。


「……ねえ、正顕さん…」


「ん?」


「ママと、最近ずいぶん仲良しじゃない?」


「そうかな?」


「そうよ」


「普通に話しているだけでしょう?」


 さやかが、不思議そうに首をかしげる。


 みさおは、母親に顔を向けた。


「……ママ?」


「なあに?」


「私の旦那に、そんなに色目使わなくてもいいんじゃない?」


「ええっ!?」


 さやかが目を丸くした。


「みさお、何を言っているの!」


「だって、最近、正顕さんと話してると楽しそうなんだもん!」


「それは……普通にお話ししているだけよ」


「本当に?」


「本当です」


 正顕まで、なぜか敬語になった。


 しかし、みさおの疑惑は晴れない。


「……ふうん」


 じとっ。


「ずいぶん楽しそうだったけど?」


「みさお、気にしすぎだよ」


「正顕さんは黙ってて!」


「はい」


 即答だった。


 さやかは、額に手を当てた。


「もう、みさおったら……」


「だって、学校では女の子に囲まれてるし、家ではママと楽しそうだし……」


「みさお……」


「私のこと、本当に好きなんだよね?」


 その問いだけは、冗談めかしていなかった。


 正顕の表情が、少し柔らかくなる。


「もちろんだよ」


「……本当?」


「本当」


「……なら、いいけど」


 みさおは、ほっと息を吐いた。


 だが、まだ言いたいことは残っている。


「とにかく、正顕さんは私の旦那さんなんだからね。絶対に別れないから!」


「うん。別れるつもりはないよ」


「……約束だからね?」


「約束」


 みさおは、ようやく納得したようにうなずいた。


 そして、思い出したように顔を上げる。


「あと、明日から休み時間にはメッセージしてね」


「休み時間?」


「そう。連絡がないと、不安になるから」


「わかった。できるだけ送るよ」


「できるだけじゃなくて、ちゃんと送ってほしいの!」


 つい声が強くなる。


 さやかが、たしなめた。


「みさお、あまり正顕さんを困らせては駄目よ」


「ママは黙ってて。これは夫婦の問題だから!」


 言った直後、みさおは気まずそうに口を閉じた。


「……ごめん」


 少し乱暴な言い方になってしまった。


 わかっている。


 わかっているのに、正顕のことになると、どうしても余裕がなくなる。


「……とにかく、お願いね」


 そう言い残し、みさおは浴室へ向かった。


 さやかは、その背中を心配そうに見送った。


「……最近、ずいぶんあなたに甘えるようになったわね」


「そうですね」


「ちゃんと向き合ってあげてね」


「ええ」


 正顕はうなずいた。


 みさおが自分を頼ってくれるのは嬉しい。


 けれど、以前より不安を強く感じているようなのが気にかかった。



     



 深夜。


 ベッドに入ると、みさおは正顕にぎゅっと抱きついた。


「……正顕さん…」


「ん?」


「お願い……不安にさせないでよ」


 笑おうとしているのに、目には涙が浮かんでいた。


 正顕は、そっと彼女を抱きしめる。


「ごめん。君の気持ちを、ちゃんと考えていなかった。でも、一番大切なのは君だから」


「……本当?」


「本当だよ」


 みさおは、彼の胸元に顔を埋めた。


「……それ、毎日言って」


「毎日?」


「うん。マストだから」


「マスト……」


「朝」


「朝ね」


「学校でも」


「学校でもなの!?」


「……じゃあ、メッセージでも許す」


「ありがとう……?」


「あと、寝る前」


 正顕は、言葉を失った。


 みさおは、じっと彼を見つめる。


「……恋女房なんだよね?」


「もちろん」


「本当に?」


「本当だよ」


「…………」


「…………」


「ジーーーーー」


 みさおは、自分で効果音をつけた。


「……わかった。毎日言うよ」


 正顕は、ついに観念した。


 しかし、みさおは眉を寄せる。


「……なんか義務的じゃない?」


「毎日って言われたから……」


「私、無理に言わせてるわけじゃないよね?」


「…………」


(いや、完全に義務化されてますけど)


 正顕は、心の中だけでつぶやいた。


 もちろん、口には出さない。


「……じゃあ、チュウしよ?」


「仲直りの?」


「うん。仲直りのチュウ」


 二人は、そっと口づけを交わした。


 顔を離すと、みさおは再び彼に抱きついた。


「……絶対、離さないからね」


「うん」


「私をこんなに不安にさせたんだから、一生大切にしてもらうんだから」


「……それは、喜んで」


 正顕が苦笑すると、みさおもようやく笑った。


 その顔を見て、正顕は安堵する。


 だが、同時に気づいてもいた。


(……以前より、依存と執着が強くなっている)


 みさおが自分を好きでいてくれることは嬉しい。


 しかし、この不安の強さは気にかかる。


(もしかすると、洗脳の影響が残っているのか……?)


 かつて、みさおは自分を「ご主人様」と呼んでいた。


 それが今では、遠慮なく「あいつ」と呼ぶ。


 まるで、二人の立場が逆転したかのように。


 関係が変わったこと自体は、悪いことではない。


 けれど、彼女の愛情が、不安や執着によって強まっているのだとしたら――。


(……やっぱり、洗脳を解く方法を探したほうがいい)


 正顕は、みさおの髪を優しく撫でた。


「……正顕さん?」


「どうした?」


「明日の朝も、好きって言ってね」


「……わかったよ」


「絶対だよ?」


「はいはい」


「……はいは一回」


「はい」


 満足したみさおは、ようやく目を閉じた。


 正顕は天井を見上げる。


(……明日から、愛情表現にも毎日のノルマができたのか)


 なかなか忙しい新婚生活である。


 ただし、休み時間のメッセージを忘れたらどうなるのか。


 それだけは、考えないことにした。


☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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