第29話 私の旦那なんですけど!? ――母と夫の相性が良すぎる件(2)
夕食の時間。
テーブルには、煮込みハンバーグと、もやしの中華サラダが並んでいた。
「いただきます」
「いただきます」
正顕とさやかは、ほぼ同時に箸を取った。
「……そういえば」
さやかが、ふと思い出したように口を開いた。
「正顕さん、前に八〇年代の音楽の話をしていたでしょう?」
「ええ。さやかさんも、よく聴いていたんですよね?」
「よく、どころじゃないわよ。若い頃はバンドを組んでいたんだから」
「えっ、本当ですか?」
「本当よ。ライブハウスにもよく出ていたわ」
「いいですねえ……!」
正顕の目が、少し輝いた。
「じゃあ、あの曲も演奏したんですか?」
「ああ、あれね。もちろん。懐かしいわねえ」
二人の会話が、弾み始める。
音楽の話から、映画の話へ。
映画から、昔のドラマへ。
そして、いつしか話題は、それぞれの青春時代へと移っていった。
「正顕さんは、学生時代、何をしていたの?」
「勉強です」
「……え?」
「ひたすら勉強していました。塾にも通っていましたし、遊ぶ時間はあまりなかったですね」
「もったいないわねえ」
「本当にそう思います」
正顕は、苦笑した。
「大学に入ってからも、勉強中心の生活でした。その反動なのか、後半は海外に出ずっぱりになりまして」
「海外?」
「ええ。狂ったように体を鍛えましたし、外人部隊にまで入りました」
「……随分と極端ね」
「自分でもそう思います」
正顕は、さらりと答えた。
「で、結局……留年しました」
「ふふっ!」
さやかが吹き出した。
「ちょっと! そこまでやって留年するの!?」
「人生、思いどおりにはいかないものです」
「もう、正顕さんったら!」
二人は笑った。
その様子を、みさおは黙って眺めていた。
(……何なんだよ)
(何でそんなに盛り上がってるんだよ)
正顕は、少し遠くを見るような目をした。
「今思えば、もっと普通に青春を楽しめばよかったですね」
「普通に?」
「ええ。部活帰りに、みんなでコンビニの前に座ってカップラーメンを食べたり」
正顕は、懐かしそうに笑った。
「カップルが、パピコを半分ずつ分けて食べたり。そういう光景を、横目で見ていたんです」
「……」
「何だか、眩しかったなあ」
その言葉には、ほんの少しの寂しさがあった。
特別なことがしたかったわけではない。
ただ、誰かと一緒に笑って、くだらない話をして、同じ時間を過ごす。
そんな何でもない青春を、正顕は少しだけ羨ましく思っていたのだ。
「……分かるわ」
さやかが、静かに頷いた。
「私も、学生時代から修行ばかりだったもの」
「そうなんですか?」
「ええ。忍びとしての修行よ。実際に使うかどうかも分からない術を、延々と叩き込まれてね」
さやかは、苦笑した。
「だから、バンド活動はその反動だったのかもしれないわね」
「なるほど……」
「決められた道ばかり歩かされていたから、せめて音楽くらいは自分で選びたかったのよ」
「……いいですね、それ」
正顕は、心からそう言った。
さやかも、穏やかに笑った。
そして。
「まあ、いい思い出ね」
「ええ。まあ、いい思い出です」
二人の声が、またしても重なった。
「「ふふっ」」
二人は顔を見合わせて笑った。
――その瞬間。
みさおの中で、何かが音を立てて崩れた。
(……ハモった)
(またハモった!)
(何で!? 何でそんなに息が合うの!?)
(私だって正顕さんと一緒にいるのに!)
映画も、音楽も、ドラマも。
同じ時代を生きてきたからこそ、共有できる思い出がある。
正顕が何気なく口にした作品名に、さやかがすぐ反応する。
さやかが懐かしそうに語る話を、正顕が当たり前のように理解する。
会話の間も、笑うタイミングも、妙に自然だった。
本来なら、喜ぶべきことなのかもしれない。
自分の夫と母親が仲良くしているのだから。
だが。
(……私、完全に蚊帳の外じゃない?)
みさおは、じっと二人を見つめた。
(おかしいよ)
(何かがおかしいよ、正顕さん)
(私の旦那だよね?)
(私の隣に座る人だよね?)
(なんでママと、そんなに楽しそうなんだよ……!)
正顕が、さやかに昔の映画の話を振る。
さやかが、懐かしそうに笑う。
二人の会話は、まだまだ続きそうだった。
みさおは、ついに箸を置いた。
「……あのさ」
二人が振り向く。
「ん?」
「どうしたの、みさお?」
みさおは、にっこりと笑った。
目だけは、まったく笑っていなかった。
「お二人さん」
「はい?」
「私、正顕さんの女房なんですけど?」
正顕は、きょとんとした。
「何、わかりきったことを言ってるんだ?」
「そういう話じゃないんだけど!?」
思わず声が裏返った。
「最近さあ、ママとマサアキさん、近すぎない?」
「気のせいよ」
さやかは、涼しい顔で微笑んだ。
「……へえ?」
みさおの目が、すうっと細くなる。
「気のせい、ねえ?」
「そうよ」
「ふーん……」
みさおは、母親の顔をじっと見た。
さやかは微笑んだままだ。
しかし、その頬には、ほんのわずかに赤みが残っていた。
(……やっぱり)
みさおの胸に、嫌な予感が広がっていく。
母親は、正顕に優しい。
正顕も、母親には自然体で接している。
二人は同じ時代の思い出を共有し、互いの過去を理解し、同じところで笑う。
そして、母親は最近、妙に綺麗になった。
――まさか。
(いやいやいや!)
みさおは、心の中で全力否定した。
(ママだよ!? 私のママだよ!?)
(でも……)
(もし、本当にそうだったら……?)
考えただけで、胸の奥がざわついた。
そして、次の瞬間。
みさおは、正顕のほうへ身を乗り出した。
「ともかく!」
「う、うん?」
「マサアキさんの正妻は、私だからね!」
「……うん?」
「一緒に寝るのも、お風呂に入るのも、私だから!」
「……そうだな?」
「浮気したら、ただじゃおかないから」
「物騒だな!?」
正顕が思わず突っ込む。
みさおは、そんな正顕をじっと睨んだ。
その目は、冗談めかした言葉とは裏腹に、妙に真剣だった。
かつての彼女は、正顕を「ご主人様」と呼んでいた。
相手の言葉に従い、相手の機嫌をうかがい、自分の立場を疑わなかった。
だが、今は違う。
みさおは、正顕の妻だ。
彼の隣に立つことを、自分自身の意思で選んだ。
だからこそ――その場所を、誰にも譲るつもりはない。
たとえ相手が、自分の母親であろうとも。
「もう妻だからね。私は正顕さんと同格だよ」
みさおは、胸を張った。
「……なんなら、私のほうが上だから」
「何を言ってるの?」
正顕は、本気で意味が分からないという顔をした。
「いや、だから!」
「いや、だから、じゃなくて……」
正顕は困ったように頭を掻く。
「みさお、何と戦ってるんだ?」
「……っ!」
みさおは言葉に詰まった。
何と戦っているのか。
そんなもの、決まっている。
目の前で、母親と楽しそうに笑う夫。
そして、夫に向ける母親の、あの柔らかな眼差し。
あれが気になって仕方がない。
けれど、それを認めるのは、もっと嫌だった。
「……別に」
みさおは、ぷいっと顔を背けた。
「何でもない」
「そうか?」
「そうだよ!」
明らかに何でもなくはない。
だが、正顕はそれ以上追及しなかった。
一方、さやかは娘の横顔を見つめ、わずかに苦笑した。
「もう、みさおったら。心配しすぎよ」
「……ママは黙ってて」
「はいはい」
さやかは、笑って受け流した。
その微笑みが、またみさおの神経を逆撫でする。
(……やっぱり面白くない!)
こうして、みさおの胸には、ひとつの疑念が芽生えた。
母は、正顕に惹かれているのではないか。
そして正顕もまた、母と一緒にいるとき、普段以上に自然な顔を見せているのではないか。
もちろん、今のところ確かな証拠などない。
ただ、何となくそう感じる。
だからこそ、余計に厄介だった。
疑いは、確信よりも始末が悪い。
しかも、みさおはまだ知らない。
この小さな嫉妬が、やがて彼女自身も予想しなかったほど、大きく膨らんでいくことを。
――夫の隣は、絶対に譲らない。
その決意だけが、みさおの胸の中で、静かに燃え始めていた。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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