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第28話 私の旦那なんですけど!? ――母と夫の相性が良すぎる件(1)

 時は、少しばかり遡る。


 空が白み始めた頃。


 スナック『白い虎』の店内には、夜通し飲み明かした者たちの、何とも言えない疲労感が漂っていた。


「ありがとうございました〜」


 ママ敦子は、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔でドアを閉め、鍵をかけた。


 扉の向こうから、壺井あかりの声が響く。


「また来るぜ〜!」


「はいはい。今度はもう少し早い時間にいらっしゃい」


 そんなやり取りを背に、あかりは隣に立つ高城さやかと茆原正顕を振り返った。


「じゃあ、そろそろ帰ろうぜ」


「待って。あなた、肝心なことを忘れているわよ」


 さやかが、ぴしゃりと言った。


「ん?」


「今、私たちがいる世界の秘密。教えてくれるって約束したでしょう?」


 その言葉に、ようやく眠気の抜けてきた正顕も頷く。


「ああ。そうだったな」


 あかりは、困ったように頭を掻いた。


「悪いが、お前らの世界のことは、そう簡単に口外できねえんだ」


「やっぱり、何かあるんですね」


「あるかもしれねえし、ねえかもしれねえ。そこは自分で考えな」


「随分と意地悪ですね」


「ヒントくらいはやるさ」


 あかりは、にやりと笑った。


「自分たちの格好を、よーく見てみな」


「格好……?」


 正顕は、自分の服装を見下ろした。


 さやかも自分の服を確かめる。


 そして、しばらく考え込んだ正顕が、ぽつりと呟いた。


「……『マトリックス』?」


「……!」


 さやかの顔が、わずかに歪んだ。


 黒い衣装。


 現実離れした出来事。


 そして、自分たちの知らないところで動いている、何者かの存在。


 もし、ここが映画『マトリックス』のような世界だとしたら。


 自分たちが現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。


 沈黙が落ちた。


 あかりは、そんな二人を見比べると、意味深に微笑んだ。


「どうだろうな。正解かどうかは教えられねえ。でも、ハズレじゃないぜ」


「……なるほど」


 正顕は、それ以上追及しなかった。


 今の自分たちには、まだ知るべきではないことがある。


 そういうことなのだろう。


 ――と、ここまでは真面目な話だった。


「それと、さやか」


「何よ?」


 あかりが、途端に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「お前も、そろそろ素直になっていいんじゃねえか?」


「……は?」


「いやあ、まさか娘の最大のライバルが、こんな身近にいるとはなあ」


「ら、ライバル……?」


「酒池肉林ってやつだぜ。いやあ、世の中ってのは面白いな!」


「なっ……!?」


 さやかの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「な、何を言い出すのよ! そんなわけないでしょう!」


「そうかあ? まんざらでもなさそうだけどな」


 あかりは、正顕のほうをちらりと見る。


「相性なら、お前のほうが良さそうだしなあ」


「……俺が寝ている間に、いったい何の話をしていたんですか?」


 正顕が眉をひそめる。


「おいおい。ガールズトークだぜ?」


 あかりは、さも当然のように言い放った。


「男が入ってくるのは野暮ってもんだ」


「そうよ……」


 さやかも、まだ赤い顔のまま頷く。


「いや、さやかさんまで……」


「とにかく!」


 さやかが、急に正顕へと向き直った。


 その表情には、普段の穏やかな母親とは違う、妙な迫力がある。


「ここでのことは、絶対にみさおに言わないで」


「……はい?」


「絶対よ?」


「……あっ、はい」


 あまりの圧に、正顕は思わず背筋を伸ばした。


 その様子を見て、あかりが肩を震わせて笑う。


「ははっ! いいねえ。尻に敷かれる男ってのは、見ていて飽きねえぜ!」


「いや、別に敷かれているわけでは……」


「そうかしら?」


 さやかが微笑んだ。


「……」


 正顕は、反論を諦めた。


 そして、つい余計な一言を口にする。


「……ガールっていう歳でもないですけどね」


「「なんか言った?」」


 二人の声が、完璧に重なった。


「いえ。何も」


 正顕は即答した。


 人間、時には沈黙こそが最善の選択なのである。


 こうして、秘密を抱えた三人は、それぞれの思惑を胸に家路についた。


 もっとも――。


 このとき正顕は、まさか一週間後、自分が家庭内で別の意味の危機に直面するとは、夢にも思っていなかった。




「……よし。これくらいでいいか」


 正顕は、鍋の蓋を少しだけずらし、煮込みハンバーグの具合を確かめた。


 デミグラスソースの香りが、キッチンいっぱいに広がっている。


 その隣では、さやかが手際よく野菜を切っていた。


「いいですね。美味しそうです」


「でしょう? みさおも、こういう料理は好きなのよ」


「それは楽しみですね」


 二人は、自然な調子で会話を交わす。


 まるで、長年連れ添った夫婦のように。


 そして、少し離れたダイニングテーブルでは――。


「…………」


 みさおが、参考書を開いていた。


 一応、勉強中である。


 一応、だ。


 彼女の視線は、文字を追っている時間よりも、キッチンの二人を追っている時間のほうが長かった。


 正顕が調味料を取る。


 さやかが鍋をかき混ぜる。


 正顕が味見をする。


 さやかが横から覗き込む。


 距離が近い。


 とにかく、近い。


(……カップルかよ)


 みさおは、シャープペンシルを握る手に力を込めた。


(いや、待て。落ち着け、私)


(あれはママ。私のお母さん)


(そして、正顕さんは私の旦那)


(……なのに、なんであんなに自然に並んでるんだよ)


 しかも、二人の会話は途切れない。


「正顕さん、もやしの水切り、お願いできる?」


「はい。これ、結構水が出ますからね」


「そうなのよ。水っぽくなると、せっかくの味付けがぼやけちゃうから」


「分かります。中華サラダは、そこが大事ですよね」


「でしょう?」


 さやかが嬉しそうに笑う。


 正顕も、ごく自然に笑い返した。


 ――なんだ、この空気は。


(私の知らないところで、何を積み重ねてきたんだよ……!)


 もちろん、積み重ねているのは、ここ最近の共同生活である。


 ただし、みさおの心は、そんな冷静な分析を受け入れてくれなかった。


「……ねえ、ママ」


「何?」


「私、ここにいてもいい?」


「何言ってるの。自分の家なんだから、好きにしてなさい」


「……そっか」


 みさおは、再び参考書へ目を落とした。


(いや、そうじゃない)


(そういう意味じゃないんだよ……!)


 しかし、口に出せば余計に面倒なことになる。


 母親の機嫌を損ねるのは、昔から得策ではなかった。


 みさおは、ぐっと堪えた。


 そのとき。


「正顕さん、料理、ずいぶん手際がいいのね」


 さやかが、ふと感心したように言った。


「昔、教えてもらったんです」


「誰に?」


「千代さんという、お手伝いの方に」


 正顕の声が、少しだけ柔らかくなった。


「母が早くに亡くなって……父も仕事で家を空けることが多かったんです」


 さやかの手が止まった。


「そうだったの……」


「ええ。千代さんが、母親代わりみたいな人でした」


 正顕は、少し照れたように笑う。


「料理も教えてもらいましたし、無理を言って、一緒に食事をしてもらったこともあります」


「無理を?」


「一人で食べるのが、あまり好きじゃなかったんですよ」


 正顕は、鍋の火加減を確かめながら続けた。


「父は忙しかったですし、千代さんにも仕事があった。それでも、どうしても一緒に食べたくて」


「……」


「今思えば、ずいぶん困らせたんでしょうね」


「そんなことないわ」


 さやかが、静かに首を振った。


「子供が誰かと一緒に食べたいと思うのは、当たり前のことよ」


「……そうですかね」


「そうよ」


 さやかは、正顕を見つめた。


 その眼差しには、からかいも、同情もなかった。


 ただ、相手の寂しさを理解しようとする、穏やかな温かさがあった。


「だから、普通の家庭に憧れるんです」


 正顕は、少し困ったように笑った。


「みんなで食事をして、今日あったことを話して……そんな、ごく普通の生活に」


「……そう」


 さやかは、柔らかく微笑んだ。


「なら、今はそれができているじゃない」


「ええ。ありがたいことに」


 二人は、自然に笑い合った。


 その光景を、みさおは見ていた。


 見てしまっていた。


(…………)


(なんだよ、その顔)


(なんでママが、そんな顔するんだよ)


 さやかの表情は、いつもの母親のそれとは、ほんの少し違っていた。


 娘を見守る顔とも違う。


 年下の男性をからかう顔とも違う。


 もっと柔らかくて、どこか大切なものを見つめるような顔。


(……いやいやいや)


 みさおは、勢いよく首を振った。


(気のせいだ。絶対に気のせい)


(だって、ママだぞ?)


(私の母親だぞ?)


 しかし、胸の奥に生まれた小さな疑念は、消えてくれなかった。




 みさおには、もう一つ納得できないことがあった。


 洗濯である。


 以前、みさおが自分の洗濯物を母親に頼んだとき、さやかは即座に言い放った。


『あんたとはもう家が違うじゃない。それくらい自分でしなさい』


 正論である。


 正論なのだが。


(……冷たくない?)


 そして翌日。


 正顕の洗濯物が、きれいに畳まれていた。


「……ママ」


「何?」


「これ、正顕さんの洗濯物?」


「そうよ」


「洗ったの?」


「ええ」


「……私のは?」


「自分でやりなさいって言ったでしょう?」


「いや、そうだけどさ!」


 みさおは、思わず声を上げた。


「なんで正顕さんのは洗うの!?」


 さやかは、きょとんとした顔をした。


「正顕さんの分を、そのままにしておくわけにはいかないでしょう?」


「…………」


(おかしくないか?)


(おかしいだろ、どう考えても!)


(こっちは実の娘だぞ!?)


 もちろん、口には出さなかった。


 出せば、さらなる正論で叩き伏せられるのが目に見えていたからだ。


 しかも、最近のさやかは、妙に機嫌がいい。


 以前より化粧に時間をかけるようになった。


 美容院も変えた。


 服装にも、どこか気を遣っているように見える。


 そして何より――。


 正顕さんが帰ってくると、さやかの表情がほんの少し明るくなるのだ。


「お帰りなさい、正顕さん」


「ただいま戻りました」


「今日は遅かったわね。疲れたでしょう?」


「まあ、少し。でも、さやかさんがいてくれると助かります」


「……そう?」


 さやかは、頬をわずかに染めた。


 ほんの一瞬。


 普通なら見逃す程度の変化だ。


 だが、みさおは見逃さなかった。


(…………あれ?)


(今、ママ、照れた?)


(え?)


(ええっ!?)


 みさおの頭の中で、警報が鳴り始めた。


(まさか……)


(いや、そんな……)


(ママも、正顕さんに……?)


 考えたくない。


 考えたくないのに、考えてしまう。


 なにしろ、目の前の二人は、今日も並んで夕食を作っているのだから。


 しかも、楽しそうに。


 実に楽しそうに。


(面白くない……)


 みさおは、参考書のページをめくった。


(実に、面白くない……!)


 なお、勉強は一ページも進んでいなかった。




☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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