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第27話 血塗れの朝帰り――スナック「白い虎」と嫉妬の包丁。(2)

 母親同士。


 それだけで、分かり合えることもあるらしい。


 そのときだった。


 敦子が、ふと店の入口へ目を向けた。


 微笑みが消える。


「……ちょっと、ごめんなさいね」


「ママ?」


「すぐ戻るわ」


 敦子は静かにカウンターを離れ、店の外へ出ていった。


 その背中を見送りながら、さやかは小さく首を傾げた。


 


 店の外。


 街灯の届かない路地に、漆黒の影がいくつも立っていた。


 人の形をしている。


 だが、人間ではない。


 敦子は、その影を見ても驚かなかった。


「……あんたたち、うちの店に何の用?」


 返事はない。


 影の一つが、ゆっくりと動いた。


 敦子の瞳が、金色に輝いた。


「聞こえなかったかしら?」


 声音は穏やかだった。


 怒鳴りもしない。


 脅しもしない。


 ただ、そこから先へ進むことを許さない。


 それだけの気配が、路地を満たしていた。


 影たちが、一斉に動きを止めた。


 次の瞬間。


 街灯が、ひとつだけ明滅した。



 ――それから二分後。



 敦子は何事もなかったかのように店へ戻ってきた。


「おかえり、ママ」


 あかりが声をかける。


「おう。何かあったのか?」


「いいえ。ちょっとした用事よ」


 敦子は微笑んだ。


 その瞳が、一瞬だけ金色に光った。


 あかりは何も聞かなかった。


 さやかだけが、背筋に冷たいものを感じていた。


(……何なの、この店)


 視線を上げる。


(このママさん……絶対、人間じゃない)


 いや。


 人間ではない、というだけでは足りない。


 自分の知るどんな強者とも違う。


 そもそも、強さを比べること自体が間違っている気がした。


 さやかは、忍びとして生きてきた。


 人の気配を読む。


 殺意を察する。


 視線や呼吸から、相手の考えを推測する。


 そのための技術を磨き続けてきた。


 心を読ませない術だって、身につけている。


 それなのに。


(……この人、私の考えを見透かしている?)


 敦子は、さやかを見つめた。


「気がついた?」


「……何に?」


「ここはね、誰でも簡単にたどり着ける場所じゃないの」


 敦子は、カウンターの向こうでグラスを磨きながら言った。


「あなたも、それなりに訳ありってことね」


 さやかの顔がわずかに歪む。


「……心を読んだの?」


「どうかしら」


 敦子は、楽しそうに微笑んだ。


「あなた、分かりやすいわ」


 紫煙が、ゆっくりと宙を漂う。


 さやかは思わず拳を握った。


(私には、心を読ませない術があるはず……)


 それを、いとも簡単に見抜かれた。


 いや。


 見抜かれたどころではない。


 この女性は、自分の術など最初から問題にしていないのだ。


「……私は忍びなのよ」


 さやかは、あえてそう告げた。


 自分の立場を明かせば、相手の反応が分かるかもしれない。


 だが。


「そう」


 敦子は、歯牙にもかけなかった。


 それだけだった。


 忍びであることも。


 どんな技術を持っていることも。


 この女性にとっては、特別な意味を持たないらしい。


 殺すほどの価値もない。


 足元にすら近づけない。


 そう言われているような気がした。


 さやかは、初めて理解した。


 この店では、決して逆らってはいけない。


 いや。


 逆らうという発想そのものが、間違っているのだ。


「……ママ」


 さやかは、慎重に口を開いた。


「あなたは、一体……」


 そのとき。


 店内の有線放送から、イントロが流れ始めた。


 聞き覚えのある、どこか物悲しい旋律。


『案山子』。


 さだまさしの名曲だった。


 敦子は、何も答えずに音楽へ耳を傾けた。


 あかりの手が止まる。


「……ママ」


 その声が、わずかに震えた。


「それは、ずるいぜ……」


 あかりは顔を伏せた。


 ぽたり。


 グラスの中に、水滴が落ちる。


 いや。


 それは、水滴ではなかった。


「……くそっ。泣いてねえからな」


「はいはい」


 敦子は、優しく笑った。


「そういうことにしておきましょうね」


 あかりは乱暴に目元を拭った。


 さやかは、曲を聴きながら目を伏せた。


 遠く離れた子どもを気遣う親の心。


 無事に暮らしているだろうか。


 ちゃんと食べているだろうか。


 寂しい思いをしていないだろうか。


 そんな思いが、歌声に乗って胸へ染み込んでくる。


「……そうね」


 さやかは、静かに呟いた。


「それは、ずるいわね」


 その夜。


 女たちは、朝まで飲んだ。


 母親としての寂しさを語り。


 子どもの将来を案じ。


 時折、どうしようもない愚痴をこぼしながら。


 カウンターでは正顕が、最後まで目を覚まさなかった。


 


 翌朝。


 高城家。


 玄関の扉が開いた。


「「ただいまー……」」


 正顕とさやかが、揃って帰宅した。


 二人とも、疲労困憊だった。


 正顕は目の下に隈を作り、さやかは肩を回しながら腰をさすっている。


 そして。


 玄関の正面には、腕を組んで仁王立ちするみさおがいた。


「……おかえりなさい」


 笑顔だった。


 ただし、目が笑っていない。


「二人とも」


 みさおは、ゆっくりと口を開いた。


「朝まで、どこに行ってたの?」


「仕事」


 正顕は即答した。


「もう眠い。寝る」


「待って」


 みさおの声が低くなる。


「ママも?」


「ええ。仕事よ」


 さやかは、疲れた様子で首を回した。


「もう年ね……腰が痛いわ」


「……腰?」


 みさおの眉がぴくりと動く。


 だが、さやかは気づかない。


「ママなんか、もう足腰が立たないわ」


「…………」


「やめましょうって言っても、正顕さん、ずっと動きっぱなしなんだもの」


「………………」


「止まらないんだものねえ」


 正顕が、ぴたりと足を止めた。


「さやかさん」


「何?」


「言い方」


「え?」


「言い方を考えてください」


「何を言っているの? 仕事の話でしょう?」


「だから、その言い方!」


 みさおは、二人を交互に見た。


 正顕は疲れ切っている。


 さやかも、ぐったりしている。


 そして、二人とも朝帰り。


 しかも。


「……仕事かあ」


 みさおは、ふう、と息を吐いた。


「それなら仕方ないか」


「分かってくれたか」


 正顕は心底ほっとした。


「うん。二人ともお疲れ様」


 みさおは、にっこりと微笑んだ。


 正顕がコートを脱ぐ。


 それを、みさおが自然に受け取った。


(……新婚夫婦みたい)


 自分でそう思い、頬が緩む。


 夫が帰ってきて、妻がコートを受け取る。


 ただそれだけのことなのに、嬉しかった。


 ところが。


 コートのポケットに、何かが入っていた。


「……あれ?」


 みさおは手を入れた。


 指先に触れたのは、小さな金属の感触。


 取り出す。


 ライターだった。


 黒い本体に、白い文字。


『ラブホテル ワンナイト』


 みさおの笑顔が消えた。


「…………え?」


 もう一度、文字を見る。


『ラブホテル ワンナイト』


 見間違いではない。


 みさおの手が震えた。


(……ラブホテル?)


 頭の中に、さっきの会話が蘇る。


 ――ママなんか、もう足腰が立たないわ。


 ――やめましょうって言っても、正顕さん、ずっと動きっぱなしなんだもの。


 ――止まらないんだものねえ。


 みさおは、ゆっくりと顔を上げた。


 正顕は、すでに廊下を歩いている。


 さやかは、欠伸をしていた。


 二人とも、何も気づいていない。


(……え?)


(えっ?)


(えええええええええっ!?)


 みさおの脳内で、何かが音を立てて崩れた。


(ママと……正顕さんが……?)


(朝まで……?)


(ラブホテルで……?)


(私が寝ている間に……?)


「…………」


 みさおは、無言でキッチンへ向かった。


 正顕が振り返る。


「みさお?」


 返事はない。


「どうした?」


 みさおは、戸棚を開けた。


 そして。


 出刃包丁を手に取った。


「……え?」


 正顕の顔が引きつる。


 みさおは、包丁を両手で握りしめた。


 その目から、すうっと光が消えていく。


「……そっか」


「みさお、待て」


「そういうことだったんだね」


「いや、違う。話を聞け」


「家族だもんね……」


「何が!?」


「みんなで一緒になろうね……」


「待て待て待て! 何をどう解釈した!?」


 みさおは、ゆっくりと振り向いた。


 そして。


「てめえら、殺してやるーーーーーーっ!!」


「誤解だからああああああっ!!」


 正顕が叫んだ。


 さやかも、慌てて両手を振る。


「違うのよ! これは事故! そう、事故なのよ!」


「言い方ーーーーーーっ!!」


 正顕の絶叫が、家中に響き渡った。


「なんで事故で片づけようとするんですか!?」


「だって、本当に事故みたいなものだったじゃない!」


「何の事故ですか!?」


「だから、いろいろよ!」


「その『いろいろ』が一番まずいんですよ!」


「二人とも、うるさいっ!!」


 みさおが包丁を振り上げた。


「まずは正顕さん! それからママ! 最後に私!」


「最後に自分を入れるなああああっ!!」


「家族なんだから、みんな一緒だよね……?」


「その理屈で無理心中を正当化するな!」


 正顕は必死に逃げ回り、さやかは娘を止めようとする。


 しかし、さやかが近づけば近づくほど、みさおの誤解は深まっていった。


「ほら! やっぱりママは正顕さんを庇うんだ!」


「娘を止めようとしているだけでしょうが!」


「私より正顕さんが大事なんだ!」


「そういう話じゃないわよ!」


「もういい! 二人とも、覚悟して!」


「みさお、頼むから落ち着いてくれ!」


「落ち着いてるよ!」


 包丁を持ったまま、みさおは満面の笑みを浮かべた。


「すごく落ち着いてるよ?」


「その笑顔が一番怖いんだよ!」


 その瞬間。


 高城家の朝は、戦場と化した。


 ――なお。


 問題のライターは、ただの店の備品である。


 正顕とさやかに、やましいことは何ひとつない。


 ただし。


 それを説明する前に、二人はまず、包丁を持った新妻をどうにかしなければならなかった。


 惨劇の夜を生き延びた男に、休息の朝は訪れない。


 むしろ。


 本当の地獄は、ここから始まるのだった。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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