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第26話 血塗れの朝帰り――スナック「白い虎」と嫉妬の包丁。(1)

「うっっえっ!! 血まみれじゃねえか!」


 廃ラブホテルの窓から身を乗り出したあかりが、盛大に顔をしかめた。


 原因を作った本人の台詞とは思えない。


 その後ろでは、さやかが額に手を当てていた。


「……どうして、こうなるのよ」


 返事はない。


 建物の外。


 そこに立ち尽くしていた正顕は、全身を赤黒く染めていた。


 スーツも、シャツも、手も。


 何が起きたのか、本人にも分かっていない。


 ただ、目の前に広がる光景と、自分の震える手を交互に見つめていた。


「気がついたら……」


 声がかすれる。


「気がついたら、こうなっていたんだ」


 自分が何をしたのか。


 それを理解してしまったのだろう。


 正顕の顔から、血の気が引いていく。


 あかりは窓枠に肘をつき、ひらひらと手を振った。


「まあ、いいってことよ」


「よくないでしょう!」


 さやかの怒声が飛ぶ。


「いや、気にすんなって。どうせろくでもねえ連中だ。死んで当然だろ」


 あかりは、本当に気にしていなかった。


 人が何人死んだか。


 そんなことよりも、今は別の問題があるらしい。


「ただなあ……」


 あかりは頭をかいた。


「一人くらい、生かしておいてくれたらよかったんだが」


 そのときだった。


「う……うう……」


 瓦礫の陰から、かすかな呻き声が聞こえた。


 あかりの顔がぱっと明るくなる。


「おっ、いたいた!」


 まるで、落とした財布でも見つけたような調子だった。


 あかりは階段を駆け下り、呻き声の主へ歩み寄る。


 男は、まだ息があった。


 もっとも、まともに動ける状態ではない。


 あかりは腰のホルスターから拳銃を抜き、男の顔に突きつけた。


「おい」


 その声だけが、急に冷たくなった。


「コベニとツバキ。あいつら、どこにいる?」


 男の顔が引きつった。


「し、知ら……」


「知らねえ?」


 あかりは首を傾げる。


「そっか。じゃあ、別の質問だ」


 さやかは、その横顔を見て眉をひそめた。


 先ほどまでの軽薄な態度が、嘘のように消えている。


 あかりの目には、怒りも焦りもなかった。


 ただ、必要な情報を得るために、必要なことをする。


 それだけの目だった。


「おい、待て……俺は、本当に――」


 男が何かを言いかけた。


 だが、その言葉が最後まで続くことはなかった。


 あかりは小さく息を吐き、拳銃を下ろした。


「……あーあ」


 それから、周囲を見回す。


 倒れた男たち。


 砕けた窓。


 崩れた壁。


 そして、何も言えずに立ち尽くす正顕。


「どうすんだよ、これ」


 あかりは困ったように頬をかいた。


 原因を作った本人が言う台詞ではない。


「……正顕さん」


 さやかが声をかけた。


 正顕は答えなかった。


 ただ、自分の両手を見つめている。


「俺は……」


 唇が震えた。


「俺は、何を……」


 あかりは一瞬だけ、正顕を見た。


 そして、いつもの調子で言った。


「飲みに行くか」


「……は?」


 さやかが振り返った。


「飲みに行くか、じゃないでしょう!」


「いや、こういうときは飲むに限るだろ」


「限らないわよ!」


「じゃあ、ほかに何すんだよ。ここで朝まで反省会か?」


「少しは反省しなさい!」


「俺じゃねえ。こいつがやったんだよ!」


 あかりが正顕を指さす。


 正顕は、ぴくりとも動かなかった。


「……最低ね、あなた」


「よく言われる」


 あかりは悪びれもせず、拳銃をホルスターに戻した。


「とにかく、ここにいたって仕方ねえ。行こうぜ」


 こうして。


 全身血まみれの男と、忍びの女と、場違いなほど陽気な金髪の女は、惨劇の現場を後にした。


 向かった先は、夜の街の片隅にひっそりと佇む、一軒のスナックだった。


 

 数時間後。


 スナック『白い虎』。


 そこには、どこか懐かしい昭和の空気が漂っていた。


 年季の入った木製のカウンター。


 磨き込まれたボトル棚。


 琥珀色の照明。


 壁には古い映画のポスターと、色褪せたレコードのジャケット。


 店内には、昭和歌謡が静かに流れている。


 古びてはいるが、埃ひとつない。


 カウンターも床も、きちんと手入れされていた。


 ここだけ時間がゆっくり流れているようだった。


 そのカウンターに、三人の客が並んでいた。


 あかり。


 さやか。


 そして、正顕。


 正顕は龍人化で力を使い果たし、店に入るなり水を一杯飲んだ。


 それから、カウンターに突っ伏した。


「……すぅ……」


 寝息が聞こえてきた。


「おいおい。寝るの早すぎだろ」


 あかりが呆れた声を出す。


「仕方ないでしょう。あれだけの力を使ったんだから」


 さやかは、隣で眠る正顕を見た。


 その顔には、まだ心配の色が残っていた。


「……あの人、普段は普通なのに」


「普通ねえ」


 あかりは琥珀色のグラスを傾けた。


「普通の人間は、あんなことにならねえよ」


「……そうね」


 さやかは反論しなかった。


 店の奥から、黒い着物をまとった女性が現れた。


 艶やかな黒髪。


 整った顔立ち。


 妖艶な微笑み。


 ママの敦子である。


「はい、お待たせ」


 敦子が、さやかの前に水割りを置いた。


「ありがとうございます」


「いいのよ。大変だったみたいね」


「……ええ。まあ」


 さやかは曖昧に笑った。


 どこまで話してよいのか分からない。


 そもそも、目の前の女性が何者なのかも分からない。


 ただ一つ確かなことがある。


 この店のママは、普通の人間ではない。


 それも、自分など足元にも及ばないほどの存在だ。


 さやかがそう考えていると、あかりがふいに口を開いた。


「なあ、さやか」


「何?」


「娘、結婚したんだろ?」


「……ええ」


「寂しくねえのかよ」


 あかりは、グラスの中の氷を揺らした。


 からん、と涼しげな音が鳴る。


 さやかは、眠りこける正顕に視線を向けた。


「そうね……寂しいかもしれないわね」


 その横顔には、普段の鋭さがなかった。


「ずっと一緒だったから。あの子が生まれてから、いろいろあったけれど……」


 言葉を切る。


「でもね。娘夫婦が、同居しようって言ってくれたのよ」


「……へえ」


「だから、これからも近くにいられるわ」


 さやかは、少しだけ微笑んだ。


「正顕さんには、迷惑かもしれないけれど」


「いや、あの男は断らねえだろ」


 あかりが鼻で笑う。


「断る理由がねえもんな」


「そうかしら?」


「そうだよ。ああいう男は、面倒ごとを引き受けるのが性分なんだ」


 あかりはグラスを傾けた。


 そして、遠い目をした。


「……くーーーっ。羨ましいぜ」


「え?」


「うちは息子が三人なんだよ」


 さやかが目を瞬かせた。


「三人も?」


「おう。しかも、全員、俺の子どもとは思えねえくらい優秀なんだ」


 あかりは指を三本立てた。


「一人は夢を追ってる。夫婦そろってな。もう一人も大学生だってのに、女を作って、そいつと夢を追うんだと」


「……立派じゃない」


「どこがだよ!」


 あかりが即座に噛みついた。


「学費を稼ぐために、こっちは命懸けなんだぜ!?」


「それは……大変ね」


「だろ!?」


 あかりはカウンターに身を乗り出した。


「勘当するって言ったら、『自分でなんとかする』って啖呵を切りやがってよ!」


「自立心があるのね」


「そういう問題じゃねえ!」


 あかりは頭を抱えた。


「昔は三人とも、俺の後ろから離れなかったんだぞ。それが今じゃ、女ができた途端にこれだ!」


「……子どもって、そういうものよ」


 さやかが苦笑した。


「俺が恋人じゃねえのかよ!」


「母親でしょうが」


 敦子が、さらりと言った。


 あかりは、ぴたりと固まった。


「……ママ」


「はい?」


「それを言っちゃあ、おしまいよ」


 まるで寅さんのような口調だった。


 敦子が、くすりと笑う。


「ふふっ。あんた、邪龍の眷属なのに、ずいぶん人間臭いのね」


「うるせえな。俺だって好きで人間臭くなったわけじゃねえよ」


 あかりは、ふてくされたようにグラスを傾けた。


「でも、勘違いしてるぜ」


「何を?」


「義姉貴だよ。あの人は、もっと人間臭い」


 あかりは、どこか懐かしそうに笑った。


「浪花節を地で行くような人だからな。ああ見えて、涙もろいんだぜ」


「そう……」


 敦子は、静かに頷いた。


「いい人なのね」


「まあな」


 あかりは照れくさそうに鼻をこすった。


「……だから、あんまり泣かせたくねえんだよ」


 その言葉だけは、冗談ではなかった。


 さやかは、黙ってグラスを傾けた。


 母親というものは、どこの世界でも変わらないのかもしれない。


 子どもが離れていくことを寂しく思いながら、それでも、その子の幸せを願ってしまう。


 たとえ、自分の隣からいなくなっても。


 たとえ、もう自分を必要としなくなっても。


「……そういうものよね」


 さやかが呟いた。


「そういうものだな」


 あかりも頷いた。


 二人の間に、妙な連帯感が生まれた。


 母親同士。


 それだけで、分かり合えることもあるらしい。


 

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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