第31話 私の旦那に色目を使うな! ――嫉妬するみさおと、迫り来る洗脳解除
昼休み終了まで、あと十分。
久遠彼方――その身体の中にいる茆原正顕は、いつもより少し早く三年生の教室へ戻ってきていた。
次の授業の準備をするためだ。
教科書を教卓に置き、チョークを手に取る。黒板に公式を書き込みながら、正顕は何気ない様子で教室を見渡した。
生徒たちの様子を観察するのも、教師としての仕事の一つ。
……ということにしておこう。
「彼方っち、ここわかんないんだけど」
背後から、甘えるような声がした。
振り向くと、根津美束がノートを手に立っていた。
彼女はニコッと笑うと、ためらいもなく正顕の隣に並ぶ。
そして――。
ぴとっ。
ごく自然な動作で肩を寄せてきた。
豊かな胸元が彼の腕に触れる。
普通の男子高校生なら、思わず意識してしまう場面だろう。
しかし、正顕は違った。
すっと身体をずらし、自然な距離を保つ。
「ああ、ここはね。まず、この公式を使うんだ」
「えー、そこから? 彼方っち、もうちょっと優しく教えてよ」
「十分優しく説明しているつもりだけど?」
「そういうところ、ほんっと先生だよねー」
美束は不満そうに頬を膨らませた。
だが、その顔には少しも嫌そうな色がない。
むしろ、もっと構ってほしいと言わんばかりだった。
その様子を見ていた別の女子生徒が、すかさず声を上げる。
「あ、あの! 先生、ここも教えてください!」
「私もお願いします!」
「先生、この問題の解き方って……」
「順番にね。全員、一度に来られても対応できないから」
正顕は苦笑しながら、一人ずつ質問に答えていく。
すると。
「あ、あの……これ」
一人の女生徒が、おずおずとピンク色のノートを差し出した。
「ん? 課題は出していないはずだけど……」
「ち、違います! その……とにかく、見てください!」
顔を真っ赤にして、ノートを押しつけるように渡してくる。
「返すのは、いつでもいいので……」
「わかった。ありがとう」
正顕は、穏やかに微笑んだ。
それだけだった。
それだけなのに。
「はうっ!」
「きゃっ……!」
「い、今の笑顔……!」
周囲の女子生徒たちが、一斉に胸を押さえた。
ノートを渡した女生徒に至っては、正顕の顔をまともに見られなくなったらしい。
「じゃ、じゃあ、失礼します!」
彼女は逃げるように駆け出していった。
正顕は、その後ろ姿を優しい眼差しで見送る。
ただ、それだけ。
特別なことなど、何もしていない。
――本人に、その自覚がないだけで。
かつての久遠彼方なら、女子生徒たちに媚びられることを当然のように受け止めていたのかもしれない。
だが、今の彼方は違う。
相手の立場を尊重し、必要以上に踏み込まず、それでいて困っている生徒には手を差し伸べる。
そんな当たり前の振る舞いが、かえって彼の魅力を際立たせていた。
そして。
その光景を、鋭い目つきで見つめている少女がいた。
高城みさおである。
ぎりっ。
彼女の歯が、小さく鳴った。
(美束……あいつ……!)
正顕に近づく女子生徒たち。
その一人ひとりを、みさおはじっと観察していた。
(何よ、あの距離!)
(他の女も、当然みたいに色目を使って……!)
(私の旦那だぞ!)
心の中で叫ぶ。
かつての彼女なら、こんな感情を抱くことすらなかっただろう。
正顕を主人として慕い、その言葉に従うことを当然としていた少女。
だが、今は違う。
正顕が誰を見ているのか。
誰に微笑んだのか。
誰と話しているのか。
そんな些細なことが、気になって仕方がない。
彼が自分以外の女性に優しくするたび、胸の奥がざわつく。
そして、その感情をどう扱えばいいのか、本人にもよくわかっていなかった。
(正顕も正顕よ!)
(あいつ、私がいるでしょ!)
心の中では、もはや呼び捨てである。
以前の「ご主人様」という呼び方は、どこへ消えたのか。
(そこは、こう言うところでしょ!)
(『やめろ! 俺には、みさおという最愛の妻がいるんだ!』って!)
(なのに、何を普通に笑ってるのよ!)
正顕が女子生徒に微笑む。
女子生徒が赤面する。
その様子を正顕が穏やかに見送る。
――みさおの中で、何かがぷつりと切れた。
(帰ったら、とっちめてやる……!)
彼女の目が、すっと細くなる。
夫婦の力関係というものは、変わるらしい。
少なくとも、この二人に関しては。
かつて正顕を主人と仰いでいた少女は、いつの間にか夫の行動を監視し、帰宅後の尋問を計画する妻へと変貌していた。
もっとも。
本人に言わせれば、これは正当な権利の行使である。
浮気防止。
夫婦円満のための、必要不可欠な措置。
……本人は、本気でそう考えていた。
◇
そんなみさおの殺気じみた視線に気づいているのか、いないのか。
正顕は、教室の別の一角へ目を向けていた。
そこにいたのは、藤堂やまと。
この世界における、本来のゲーム主人公である。
そして、その周囲には――。
幼馴染の紗理奈。
その隣には、飯塚萌歌。
丁寧に編み込まれた髪に眼鏡。庇護欲をくすぐるような顔立ち。
整った身なりと真面目な立ち居振る舞い。
誰もが委員長と聞いて思い浮かべるような、優等生然とした少女である。
そして、柏木アリス。
銀色の長い髪に碧眼。すっと通った鼻筋と雪のように白い肌。
冷たい美貌を持つハーフの少女だが、そのスタイルは、本人のクールな印象を裏切るほどに華やかだった。
正顕は、三人を順番に見やった。
(……なるほど)
(人気投票の一位から三位まで、きっちり主人公の周りに集まっているな)
紗理奈。
萌歌。
アリス。
かつて何度もプレイしたゲームの記憶と、目の前の光景が重なる。
ゲームのシナリオは、順調に進行しているらしい。
作品名は『凌辱の退魔 学園が堕ちるとき』。
通称――『リョタイ』。
古いアダルトゲームであり、戦闘パートはシミュレーション形式。
複数のヒロインから任意の三人を選び、戦闘を進めていくシステムだった。
攻略対象となるヒロインは七人。
サブヒロインまで含めれば、総勢十四人に及ぶ。
戦闘システムは使い勝手がよく、育成や編成にも工夫の余地がある。
そして、戦闘後のお楽しみイベントも人気を集めていた。
当時のプレイヤーたちが熱中したのも、理解できなくはない。
正顕自身、ゲームとしての完成度は評価していた。
ただし。
(みさおは、人気がなかったんだよな……)
ヒロイン人気投票では、まさかの最下位。
七人中、七位。
サブヒロインを含む総合順位でも十三位。
実の母親であるさやかのほうが、人気では上だった。
(理由は、まあ……わからなくもない)
みさおは、戦闘ユニットとして扱いにくかった。
主人公と能力が被るうえ、性能を十分に引き出すには手間がかかる。
しかも、育成の難易度は最高クラス。
シナリオ面でも、彼女のルートには暗い展開が多く、プレイヤーによっては目を背けたくなるような場面もあった。
強くなるまでが長い。
扱いづらい。
物語も重い。
人気が伸びなかった理由は、いくつも思い当たる。
だが――。
(だからといって、今のみさおを見捨てる理由にはならない)
正顕は、胸の内でそう結論づけた。
ゲームの人気投票と、目の前にいる一人の少女の価値は別物だ。
そもそも、彼は攻略対象を選ぶプレイヤーではない。
この世界で生きる、一人の人間なのだから。
それに、正顕には気がかりなことがあった。
(この流れなら、次のイベントは修行イベントか)
ゲームの記憶をたどる。
この先、主人公たちは大きな試練に直面する。
その過程で、高城さやか、あるいは凄腕の退魔師である山城はるかの指導を受け、四人がそれぞれの力を覚醒させる。
ゲームのシナリオ上では、重要な転換点だった。
(はるかのところへ行くのか?)
(だとしたら、今週末……)
正顕の脳裏に、ある場所が浮かぶ。
シナリオがそのまま進むなら、次に起こる出来事もある程度は予測できる。
だが、ゲームと現実は同じではない。
彼が行動すれば、展開は変わるかもしれない。
むしろ、変えなければならない場面もあるだろう。
正顕が思考を巡らせていると――。
(……また別の女を見てる)
背後から、じっとりとした視線が突き刺さった。
(しかも、三年の綺麗どころばっかり……!)
みさおの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
(へえ……)
(なるほどねえ……)
その目が、きらりと光った。
(これは帰ったら、お仕置きね)
もちろん、正顕は知らない。
ゲームのシナリオを分析しているだけで、妻の嫉妬ゲージが着実に上昇していることなど。
そして、そのゲージが限界に達したとき、どれほど面倒な事態になるのかも。
◇
――その日の帰宅後。
正顕は、早々に異変を察知した。
ダイニングテーブル。
そこに座っているみさおは、露骨に不機嫌だった。
顔をそむけ、こちらを見ようともしない。
腕を組み、唇を尖らせている。
その全身から、言葉にしなくても伝わってくるものがあった。
――察しろ。
――今すぐ察しろ。
――そして、適切に対処しろ。
隣では、さやかが頬に手を当て、困ったような表情を浮かべていた。
「……正顕さん」
「はい」
「みさお、さっきからずっとこの調子なの」
「なるほど……」
正顕は、心の中でため息をついた。
原因は、だいたい想像がつく。
こういうとき、知らないふりをするのは悪手だ。
放置すれば拗ねる。
下手に言い訳すれば、さらに拗ねる。
冗談で流そうものなら、あとが怖い。
ならば、まずは話を聞く。
「みさお……」
「今日もモテモテじゃない」
低い声だった。
みさおは、こちらを見ない。
「……そうかな?」
「そうかな、じゃないでしょ」
ぴしゃり。
「女の子に囲まれて、楽しそうだったじゃない」
「質問に答えたり、勉強を教えたりしていただけなんだけど……」
「へえ。ノートを渡してくる女の子もいたんだ?」
「見ていたのか……」
「見えるところにいたんだから、見えるでしょ!」
ようやく振り向いたみさおの目は、じとっと据わっていた。
「それで?」
「それで、とは?」
「ノート。何が書いてあったの?」
正顕は少し考えた。
あの女生徒の顔。
赤くなった頬。
そして、ノートを渡すときの様子。
おそらく、あれは勉強の質問だけではなかったのだろう。
しかし。
「……それは言えないな」
「は?」
みさおの眉が跳ね上がる。
「どうしてよ!」
「本人のプライバシーだからね。君が逆の立場だったら、勝手に中身を話されるのは嫌だろう?」
「へえ……」
みさおは、冷ややかに笑った。
「モテ男は言うことが違うわね」
痛いところを突いてくる。
正顕は、苦笑するしかなかった。
ここで「別に何もなかった」と強く否定しても、逆効果だろう。
みさおが知りたいのは、ノートの中身だけではない。
自分が正顕にとって、どれほど大切な存在なのか。
それを確かめたいのだ。
以前なら、こんなことを気にする少女ではなかった。
正顕が何をしようと、どこへ行こうと、彼の判断に従うことを優先していた。
だが今は。
自分の感情を隠そうともしない。
嫉妬して、拗ねて、怒って。
それでも、正顕に自分を見てほしいと願っている。
その変化を、正顕はどう受け止めるべきなのか。
彼は、みさおの目をまっすぐに見た。
「俺は、君が一番大切だから」
「――っ!」
みさおの肩が、ぴくりと跳ねた。
次の瞬間。
顔が、みるみる赤くなる。
「なっ……! そ、そういう……!」
さっきまでの不機嫌は、どこへ行ったのか。
みさおは口をぱくぱくさせ、視線をさまよわせた。
「う、うん……」
やがて、彼女はこほんと咳払いをした。
「そ、そういうことなら……今回は許してあげる」
「ありがとう」
「べ、別に! 私は正妻なんだから、当然でしょ!」
正顕は、思わず笑いそうになった。
どうやら、ひとまず危機は脱したらしい。
ただし。
この少女の嫉妬心が、これで収まるとは思えなかった。
むしろ、正顕への依存と執着は、以前よりも強くなっている。
彼が優しくすればするほど、みさおは彼を求める。
彼が自分以外の誰かに微笑めば、胸がざわつく。
そして、彼が遠くへ行ってしまうことを、何よりも恐れている。
――その感情が、彼女自身の意思によるものなのか。
それとも、かつて刻まれた洗脳の名残なのか。
正顕には、まだ断言できなかった。
だからこそ。
「……みさお。さやかさんも、少しいいかな」
「え?」
「話しておきたいことがあるんだ」
正顕の声色が変わった。
ふざけた調子は、もうない。
みさおとさやかが、同時に彼を見る。
「洗脳を解こうと思う」
「……え?」
みさおの表情が止まった。
隣のさやかも、目を見開く。
「この前、術式が完成したんだ」
正顕は、二人の顔を見つめながら続けた。
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