エピローグ 幸せいっぱいの新妻みさお! 「永久就職先が決まってます!」――洗脳を言い訳にしても、家事と勉強からは逃げられません!
朝。
カーテンの隙間から、柔らかな日差しが差し込んでいた。
みさおは、隣で寝息を立てている男を横目で見つめ、頬を赤くした。
(わ、私……正顕さんと……)
隣にいるのは、茆原正顕。
自分の夫となった人だ。
普段は落ち着いていて、何事にも動じない。少しばかり不器用なところもあるけれど、誰よりも自分のことを考えてくれる。
その寝顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなった。
(……幸せ)
思わず、笑みがこぼれる。
もちろん、心のどこかに不安がないわけではない。
自分の気持ちは、本当に自分のものなのだろうか。
かつて受けた洗脳の影響が、今も残っているのではないか。
そんな疑問が、ふと頭をよぎることもある。
けれど。
(……それでも、いい)
みさおは、そっと目を細めた。
(正顕さんが私を大切にしてくれている。それは間違いないもの)
自分の気持ちを急かさず、無理に答えを求めず、それでも必要なことから逃げようとすれば、きちんと向き合ってくれる。
優しくて、頼りになって、何よりも自分のことを考えてくれる。
その人が、今、自分の隣にいる。
(私……本当に、愛されてるんだ)
考えた途端、顔がますます熱くなった。
そのとき。
「……ん」
正顕が、ゆっくりと目を開けた。
視線が合う。
「……おはよう、みさお」
穏やかな微笑み。
「っ……!」
みさおの心臓が跳ねた。
「お、おはよう……ございます……!」
「うん。どうした? 顔、赤いぞ」
「な、なんでもありませんっ!」
「そうか?」
「そうです!」
正顕は不思議そうに首を傾げた。
みさおは布団をぎゅっと握りしめる。
(あああああ……! 朝から心臓に悪い……!)
好きな人が目を覚まし、自分に微笑んでくれる。
それだけで、こんなにも嬉しい。
これが幸せでなければ、いったい何なのだろう。
「……じゃあ、起きるか」
正顕はベッドから出ると、Tシャツに袖を通した。
「朝飯、作るよ」
「……!」
みさおの目が輝いた。
(朝ご飯! 正顕さんの手料理!)
幸せな朝。
大好きな夫。
そして、おいしい朝ご飯。
(……私、世界一幸せな女の子なのでは?)
そのときのみさおは、まだ知らなかった。
この幸せな朝が、家事と勉強をめぐる戦いの始まりになることを。
◇
しばらくして。
食卓には、見事な和朝食が並んでいた。
炊き立てのご飯。
野菜たっぷりの味噌汁。
ふっくらと焼き上げられた卵焼き。
そして、艶やかな照りが食欲をそそる、きんぴらごぼう。
奇をてらった料理はない。
だが、一品一品が丁寧に作られている。
まさに、理想的な朝食だった。
「それじゃあ、いただきます」
「「いただきます!」」
正顕の声に、みさおとさやかが続いた。
三人で囲む朝食。
正顕とみさおが暮らすマンションの隣室には、さやかが住んでいる。
もともと空いていた部屋を借りることになったのだ。
もっとも、さやかは最初から乗り気だったわけではない。
他人に頼ることを好まない彼女にとって、娘夫婦の世話になるのは本意ではなかった。
だが――。
『もう家族だから、遠慮しないでください』
正顕にそう言われ。
『お母さんも近くにいてくれたほうが、私も嬉しい!』
みさおにそう頼まれては、強く拒絶することもできなかった。
結果、隣室への引っ越しが決まったのである。
そして今。
さやかは、目の前のきんぴらごぼうを口に運んでいた。
「……!」
ほどよい甘辛さ。
ごぼうの風味と、絶妙な歯触り。
悔しいが、実においしい。
「……本当においしいわね」
「でしょー!」
待ってましたとばかりに、みさおが身を乗り出した。
「正顕さんの料理、すっごくおいしいんだから!」
「まだ、きんぴらしか食べていないんだけど?」
「味噌汁もおいしいよ! 卵焼きも絶品! ご飯だって炊き加減が完璧なの!」
「……あなたが作ったわけじゃないでしょう」
「私の旦那様が作ったんだもん!」
なぜか、みさおは胸を張った。
まるで自分の手柄であるかのように。
「ふふん。どう? うらやましい?」
「……悔しいけど、料理の腕は確かね」
「でしょ、でしょ!」
みさおは満面の笑みを浮かべた。
「さすが、私の旦那様!」
その瞬間。
さやかの箸が止まった。
ゆっくりと娘に視線を向ける。
「……みさお」
「なあに?」
「この朝食、誰が作ったの?」
「正顕さん!」
「食器を片づけるのは?」
「……正顕さん?」
「洗濯は?」
「…………」
「掃除は?」
「………………」
みさおの笑顔が、徐々に引きつっていく。
さやかは箸を置いた。
「なんで自分の亭主に朝食を作らせているのよ!」
「えーっ!?」
「えーっ、じゃないわよ!」
「だ、だって! こんな料理上手な旦那様に、私が作ったご飯なんて出せないよ!」
「そこは練習しなさい!」
「でも、おいしいものが食べたいじゃん!」
「開き直るな!」
「事実だもん!」
みさおは頬を膨らませた。
正顕は、二人のやり取りを眺めながら味噌汁を飲んでいる。
そして、さやかの視線が彼に向いた。
「正顕さん、ごめんなさいね。うちの娘がこんな調子で」
「いえ、料理は好きなので、そこは構いませんよ」
「そういう問題じゃないの!」
さやかは即座に返した。
「この子が何もできないままでいいわけがないでしょう!」
「……確かに」
正顕はうなずいた。
そして、みさおに視線を向ける。
「みさお。家事は覚えてもらうぞ」
「……え?」
「さやかさんに教えてもらうといい。俺も必要なら手伝うから」
「……ええっ!?」
みさおの顔が引きつった。
まさか、正顕まで母親側につくとは。
「正顕さん、私のこと愛してるよね?」
「もちろん」
「じゃあ、家事をしなくてもいいよね?」
「どうしてそうなるんだ」
「愛があれば家事なんて些細な問題だよ!」
「その理屈で、俺に全部やらせるつもりか?」
「……はい!」
「正直だな…」
正顕は額に手を当てた。
さやかは、すっと背筋を伸ばす。
「正顕さん。安心して。私が責任を持って、この子を仕込むわ」
「お願いします」
「料理も掃除も洗濯も、基礎からきっちり教えるから」
「厳しく仕込むわよ」
さやかの目が、きらりと光った。
「ひぃっ!」
みさおは、思わず正顕のほうへ身を寄せた。
しかし、正顕は助け舟を出さなかった。
「それじゃあ、俺は勉強を教えます」
「……え?」
「卒業できるように、きちんと勉強を見ていきます」
「…………え?」
「さやかさん、家事のほうはお願いします」
「ええ、任せて」
「ちょっと待ってぇっ!」
みさおの悲鳴が響いた。
母親が家事担当。
夫が勉強担当。
本人の同意なしに、完璧な分業体制が成立していた。
◇
みさおは考えた。
どうすれば、この状況から逃げられるのか。
家事は母親が教える。
勉強は正顕が教える。
しかも、二人ともやる気満々だ。
正面突破は不可能。
ならば、論理で攻めるしかない。
(……そうだ!)
みさおは、ぱっと顔を上げた。
「ちょっと待って!」
「何?」
正顕が尋ねる。
「私、もう永久就職先が決まってるんだけど!」
「……俺のことか?」
「うん!」
みさおは自信満々にうなずいた。
「だったら、勉強はぼちぼちでいいし、家事だってゆっくり覚えればいいと思うんだ!」
「つまり?」
「今のままでいいと思います!」
「却下」
「早いよ!?」
正顕は即答した。
「結婚したら勉強しなくていい、という理屈にはならないだろ」
「うっ……!」
「進学するにしても、就職するにしても、選択肢は多いほうがいい。だから勉強はする」
「ううっ……!」
「家事も覚える」
「うううっ……!」
みさおは椅子の上でじりじりと後ずさった。
そして――。
「あっ! そうだ!」
突然、顔を輝かせた。
「私、洗脳されてたんだった!」
「……それが?」
「それが、じゃないよ! 洗脳されてたんだよ!?」
「知ってる」
「だったら、急に家事とか勉強とか言われても困るじゃん!」
「ゆっくり覚えればいい」
「だから、その『ゆっくり』が大変なんだってば!」
「……みさお」
正顕が、じっと妻を見た。
「洗脳されていたことと、食器を洗わなくていいことに、何の関係があるんだ?」
「…………」
「数学の問題を解くのと、洗濯物を畳むのにも、何の関係がある?」
「……洗脳の影響?」
「うーん…」
正顕が思わず額を押さえる。
さやかが、すかざずが補足する。
「みさお。洗脳されていたことは、ちゃんとわかっているわ」
「お母さん……!」
「だから、無理をしろとは言わない」
「そうだよね!」
「でも、怠けていい理由にはならないわよ」
「お母さんまでぇっ!」
「はい、決まり。家事は私が教える。勉強は正顕さんが教える」
「ちょっと待って! 今、決まりって言った!?」
「言ったわよ」
「私の意見は!?」
「聞いたうえで却下したの」
「ひどいっ!」
みさおは、正顕に救いを求めるような視線を向けた。
「正顕さん……。私、心に傷を負ったか弱い新妻なんですよ……?」
「そうだな」
「だから、優しくしてほしいな……?」
「もちろん。わからないことは丁寧に教えるし、失敗しても怒らない」
「……!」
みさおの顔が明るくなった。
「じゃあ――」
「ただし、やることはやる」
「そこは譲ってよぉっ!」
正顕は額を押さえた。
さやかは深々とため息をつく。
「……この子、本当に都合のいいところだけ覚えているわね」
「お母さん、聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったのよ」
「ひどい!」
みさおは頬を膨らませた。
そして、最後の抵抗を試みる。
「……では、ここは一つ、家庭内CEOということで!」
「何の話だ?」
「久遠家なのか茆原家なのかはさておき、私は家庭内CEO! 家事と勉強は部下に任せます!」
正顕は額を押さえた。
さやかの顔が引きつった。
「……みさお」
「はい!」
「んなわけないだろ」
「ですよねぇっ!」
「わかってるなら言うな!」
「だって、言ってみるだけならタダだもん!」
「その口を動かす元気があるなら、食器を片づけなさい」
さやかが、食卓の皿を指さした。
「勉強もあるぞ」
正顕が追い打ちをかける。
「…………」
みさおは、二人を交互に見た。
母親と夫。
どちらも優しい。
どちらも自分を大切にしてくれる。
そして、どちらもまったく容赦がない。
「……私、愛されてるんだよね?」
「もちろん」
「ええ、当然よ」
「じゃあ、もうちょっと甘やかしてよぉぉぉ!」
「「それとこれとは別!」」
二人の声が、見事に重なった。
「息ぴったりすぎるでしょぉっ!」
◇
こうして、みさおの新たな生活が始まった。
料理上手で、優しくて、頼りになる夫。
隣の部屋には、頼もしい母親。
幸せな環境。
愛情に満ちた毎日。
ただし――。
家事からは逃げられない。
勉強からも逃げられない。
そして何より。
「永久就職先が決まっているから、もう頑張らなくていい」という、みさおの人生計画は、開始早々に却下された。
「……正顕さぁん。私、洗脳されてたんですよぉ?」
「わかってる。だから、ゆっくり覚えような」
「お母さぁん……?」
「大丈夫。ゆっくり、みっちり教えてあげるから」
「その『みっちり』が怖いんだけど!」
みさおは食卓に突っ伏した。
それでも、顔を上げれば正顕がいる。
隣の部屋には、さやかがいる。
二人とも、自分を大切にしてくれている。
だからこそ、逃げ道を塞いでくるのだ。
……愛情という名の、鉄壁の包囲網で。
「ところで、正顕さん。数学だけは洗脳の後遺症ってことになりませんかね?」
「ならない」
「即答!?」
「まずは食器を片づけて、それから勉強だ」
「えーーーーーーっ!!」
幸せいっぱいの新妻みさお。
その前途は、どうやら甘いだけではないらしい。
だが、本人がどれほど逃げようとも。
正顕とさやかに、逃がすつもりはなかった。
――愛情と容赦のなさに満ちた、新婚生活の始まりである。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。




