第20話 「俺は三十八歳の異世界人です」――信じられない告白と、月夜の露天風呂
彼方は、一度だけ息を吐いた。
「まずは、自己紹介から始めましょう」
みさおとさやかが、彼の言葉を待つ。
そして――。
「俺の名前は『茆原正顕』。ホントは三十八歳なんです……」
沈黙。
さやかは、瞬きすら忘れたように彼方を見つめていた。
みさおも、口を半開きにしたまま固まっている。
久遠彼方。
目の前にいるのは、間違いなくその顔をした男だ。
なのに、本人は自分をまったく別の名前で呼んだ。
しかも。
三十八歳。
「……三十八歳?」
ようやく声を絞り出したのは、さやかだった。
「あなた、私より年上じゃない」
「そうですね」
彼方――いや、正顕は、あっさりと頷いた。
さやかは、思わず額に手を当てた。
自分は三十七歳。
つまり、目の前の男は本来の年齢なら自分より一つ年上ということになる。
……いや、待って。
そう考えれば、納得できる部分もあった。
以前に、娘から聞いていた彼方とは、明らかに違う。
落ち着きがありすぎる。
こちらの挑発にも簡単には乗らず、感情的になることも少ない。
みさおへの接し方も、妙に大人びていた。
二十代の男が急に身につけられるような余裕ではない。
もちろん、だからといって三十八歳の異世界人だなどという話を信じられるわけではないが。
「……それで?」
さやかは、腕を組んだ。
「異世界人というのは、どういう意味?」
「言葉どおりです。この世界とは別の世界から来ました」
正顕は、グラスに残っていた焼酎をひと口飲んだ。
まるで、仕事の打ち合わせで自分の経歴を説明しているかのような落ち着きぶりだった。
「ついこの前、こちらの世界に来たんです。久遠彼方の身体を……そうですね。乗っ取った、という表現は正確じゃない。譲り受けた、と言ったほうが近いのかな」
「譲り受けた……?」
みさおが、呆然と呟く。
「はい。詳しい経緯は、順番に説明します」
「順番に説明されれば理解できる話だと思っているの?」
「理解できるかどうかは、聞いてから判断してください」
「…………」
さやかは、言葉に詰まった。
反論しづらい。
というより、この男はどうしてこんなに落ち着いているのだろう。
自分たちの常識を根底から覆すような話をしているというのに。
その態度には、妙な説得力があった。
そして、その説得力を裏づけるように。
正顕は、次の言葉を口にした。
「合詞は、『神に逢えば神を切り、仏に逢えば仏を切る』……でしたよね」
さやかの表情が、凍りついた。
「…………っ」
喉が鳴る。
その言葉を知っている者は一人だけ。
しかも、それだけではない。
この先には、もう一つの言葉がある。
普通の人間が知るはずのない、秘密の続きが。
まさか。
いや、あり得ない。
しかし、正顕はさやかの反応を確かめるように、一拍置いてから続けた。
「『我ら冥府魔道に生きる者』」
「……くっ」
さやかは、思わず唇を噛んだ。
「下の句まで知っているのね……」
「ママ……?」
みさおが、驚いたように母親を見た。
「その言葉、そんなに特別なものなの?」
「……特別どころの話じゃないわ」
さやかは、彼方から視線を外さなかった。
「その合詞は、高城一族の当主しか知らないはずの言葉よ。私は、あなたに教えていない」
「え……?」
今度は、みさおが絶句した。
母親は嘘をついていない。
その声の調子でわかる。
なら、どうして彼方が知っているのだろう。
「それに……」
さやかは、さらに問い詰めようとした。
しかし、正顕は静かに首を振った。
「すみません。俺も、その言葉の本当の意味までは知りません」
「だったら、どうして知っているの?」
「彼女から聞いたからです」
正顕は、みさおを見た。
「……私?」
みさおは、目を見開いた。
「うん。君から聞いた…」
「そんな……私、先生にそんなこと……」
教えた覚えはない。
そもそも、自分自身がその言葉を知らなかったのだ。
正顕は、それ以上の説明を急がなかった。
「父親の口癖。アイスクリームの種類と順番。そして、この合詞。俺が君たちのことを知っている理由は、そこにも関係している」
さやかは、深く息を吸った。
否定したい。
こんな話、信じられるはずがない。
それでも、否定できなかった。
彼方が知っていることは、あまりにも具体的だった。
偶然で説明できる範囲を、とっくに超えている。
そして、ようやく本題に入った。
*
話は、さらに荒唐無稽だった。
正顕は、もともと別の世界に生きていた。
三十八歳。
彼は末期がんを患っていた。
医師から告げられた余命は、およそ一年。
その先に待つはずだった人生を、半ば諦めていた。
そんな彼が、異世界でみさおと出会った。
そして、どうしても彼女のもとへ行きたいと願い、邪龍ツボニール・ツヴァイに助けを求めた。
その対価として用意した金額は、七千万円。
さらに、龍人の加護を得て、この世界へ転移した。
その際に、久遠彼方の身体を得た――というのが、正顕の説明だった。
「…………」
さやかは、黙って聞いていた。
情報が多すぎる。
異世界。
末期がん。
邪龍。
七千万円。
龍人。
身体の譲渡。
どれか一つだけでも、普通なら冗談として片づける話だ。
それなのに、彼方が実際に見せた力を思い出すと、すべてを嘘だと切り捨てることもできない。
「ちょ、ちょっと待ってください……」
みさおが、おずおずと手を挙げた。
「先生……じゃなくて、正顕さんは……」
「今までどおり、先生でいいよ」
「えっ」
「急に名前を変えられても、君も困るだろう?」
「そ、そうですけど……」
みさおは、困惑した。
自分の知っている彼方とは違う。
でも、目の前にいる人が、あの彼方と同じ顔をしているのも事実だった。
何より。
三十八歳。
その数字が、頭から離れない。
――先生って、私のお父さんと同じくらいの年齢なんだ……。
みさおの父親は、早くに亡くなっている。
父親との思い出は、今でも大切なものだった。
だからだろうか。
自分よりずっと年上の男性が、落ち着いた声で話し、慌てず、怒らず、こちらの言葉を受け止めてくれる。
そんな姿に、安心してしまう自分がいた。
以前の彼方には、感じたことのない感覚だった。
それどころか、今の彼方には、年齢相応の余裕がある。
無理に格好をつけるわけでもない。
自分を大きく見せようとするわけでもない。
知らないことは知らないと言い、間違っていれば認める。
それなのに、必要なときには迷わず行動する。
みさおは、そんな彼の姿から目を離せなかった。
……だめ。
また、こんなことを考えている。
自分の気持ちが呪いの影響を受けているかもしれないと、あれほど悩んだのに。
それでも、彼方の言葉や態度に惹かれてしまう。
みさおは、熱くなった頬を隠すように俯いた。
*
「……で?」
さやかが、再び口を開いた。
「向こうの世界では、何をしていたの?」
「小さな会社を経営していました。コンサルですね。投資や税務相談、会計処理なんかを請け負っていました」
「……裏の会計処理や、マネーロンダリングも?」
「節税と言ってください」
正顕は、涼しい顔で返した。
「違法なことはしていませんから」
「その言い方が、いちばん怪しいのよ」
「そうですか?」
「そうよ」
さやかは、じろりと睨んだ。
しかし、正顕は動じない。
その余裕が、かえって腹立たしい。
「つまり、経営者で、投資もしていて、会計にも詳しい。そういうこと?」
「ええ。まあ、そこそこの学歴と社会人経験はあります」
「……エリートなんだ」
思わず口にしたのは、みさおだった。
正顕は少しだけ苦笑した。
「エリートと言われるほどではないですよ。世の中、上には上がいますから」
謙遜しているのに、卑屈さはない。
自分の経験を誇示することもない。
ただ、自分が積み上げてきたものを、淡々と語っている。
その姿が、みさおにはまぶしかった。
大人の余裕。
自分の言葉に責任を持つ態度。
何かあっても、すぐに取り乱さない落ち着き。
父親を早くに亡くしたみさおにとって、それはどこか懐かしく、同時に新鮮なものだった。
もちろん、だからといって彼方を父親の代わりにしたいわけではない。
むしろ、彼の隣にいると、自分が一人の人間として扱われていると感じられる。
守られるだけではない。
自分の将来を考え、自分の意思を尊重しようとしてくれる。
それが、うれしかった。
だからこそ――。
「……先生って、やっぱり大人なんですね」
みさおは、ぽつりと呟いた。
「まあ、年齢だけはね」
「そういうところです……」
「ん?」
「い、いえ! 何でもありません!」
みさおは慌てて首を振った。
顔が熱い。
自分でも、どうしてこんなに照れているのかわからない。
ただ一つわかるのは、今の彼方に、ますます惹かれているということだった。
その様子を見ていたさやかが、ふと思い出したように尋ねた。
「……ところで、あなた」
「はい?」
「みさおが高校生だってことは、わかっているわよね?」
「もちろんです」
「あなた、本当に三十八歳なのよね?」
「そう言っています」
「……ロリコンなの?」
「ママっ!?」
みさおが、思わず叫んだ。
「な、何を聞いてるの!」
「大事なことでしょう?」
「大事だけど! 聞き方ってものがあるでしょ!」
「そうかしら?」
さやかは、平然としていた。
正顕は、困ったように頭を掻いた。
「……まあ、そう疑われても仕方がないとは思います」
「否定しないの?」
「俺がどう思われるかより、みさおがどう感じるかのほうが大切ですから」
その答えに、さやかは少しだけ目を細めた。
正顕は、みさおのほうを向く。
「君が不安なら、距離を置いてもいい。俺を信用できないなら、無理に信用する必要もない」
「……先生」
「ただ、君にかけられた術については、責任を持って解くつもりだ」
その声音に、冗談めいた響きはなかった。
「君に術をかけたのは、俺じゃない。前の久遠彼方だ」
みさおの表情が、わずかに曇る。
「……前の、先生?」
「ああ。俺がこの身体を得る前の彼方だ」
正顕は、静かに続けた。
「あいつは、もういない。完全に消滅している。少なくとも、俺にはそうわかる」
「…………」
「でも、それを理由に責任から逃げるつもりはない」
彼は、まっすぐにみさおを見つめた。
「この身体で生きているのは、今の俺だから。君が受けた被害も、君が抱えている苦しみも、なかったことにはできない」
みさおは、息を呑んだ。
正顕は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「君には、誠実でありたいんだ」
その言葉は、静かだった。
飾り気も、気負いもない。
だからこそ、みさおの胸に深く響いた。
――やっぱり、好きなのかもしれない。
胸の奥で、そんな気持ちが膨らむ。
でも、怖かった。
この気持ちが本物なのか、まだわからない。
それでも。
彼の言葉を信じたいと思ってしまう。
その事実が、何よりもみさおを戸惑わせていた。
*
その夜。
旅館の露天風呂には、静かな湯けむりが立ち込めていた。
女湯には、さやかとみさおの二人だけ。
山あいの夜空には、丸い月が浮かんでいる。
木々の向こうから、虫の声がかすかに聞こえていた。
「……ふう」
さやかは、肩まで湯に浸かると、大きく息を吐いた。
湯の温かさが、張り詰めていた身体を少しずつほぐしていく。
しかし、頭の中はまったく休まらなかった。
異世界から来た三十八歳の男。
邪龍ツボニール・ツヴァイ。
龍人の加護。
そして、久遠彼方の身体。
あまりにも情報が多すぎる。
「……ママ」
隣で湯に浸かっていたみさおが、小さく声をかけた。
「ん?」
「あの話……どう思う?」
さやかは、しばらく黙っていた。
「正直に言うと、まだ整理が追いつかないわ」
「……だよね」
「普通なら、信じられる話じゃないもの」
みさおは、膝を抱えるようにして、湯の中で小さくなった。
けれど、さやかは続けた。
「ただ……邪龍ツボニール・ツヴァイが関わっているなら、話は別よ」
「ツボニール……?」
「ええ」
さやかは、月を見上げた。
「『混沌の王』にして『世界の破壊者』。光と闇、双方の勢力と戦い続け、ついには世界から追放された邪神……」
その声は、いつになく重かった。
「そんな存在の眷属なら、異世界から来たという話も、あの力も……完全には否定できない」
「……先生の、あの姿も?」
「ええ」
さやかは、ゆっくりと頷いた。
あのとき、彼方が見せた力。
常人離れした身体能力。
そして、龍人へと変貌した姿。
あれが本物なら、彼は人間の常識で測れる存在ではない。
「……私たちを殺そうと思えば、いつでも殺せるってことね」
みさおの顔が、こわばった。
「ママ……」
「大丈夫。今のところ、敵ではない。それが救いね」
さやかは、深くため息をついた。
だが、安心したわけではない。
正顕は、みさおを守ると言った。
彼女に誠実でありたいとも言った。
その言葉に嘘があるようには思えなかった。
けれど、彼が何を考え、何を知っているのか。
すべてが明らかになったわけではない。
むしろ、謎は増えている。
再び月を見上げた。
湯けむりが、月明かりの中をゆっくりと流れていく。
さやかは、静かに目を閉じた。
その夜、母と娘は同じ月を見上げながら、それぞれの思いを胸に秘めていた。
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