第12話 「君の恋心は、偽物かもしれない」――彼女が初めて恋を知り、初めて失恋した夜(4)
高城家。
古びたアパートの一室は、夜の静けさに包まれていた。
玄関のドアが開く。
「ただいま……」
みさおの声は、かすれていた。
居間にいたさやかが、顔を上げる。
「おかえり、みさお。今日は遅かったわね」
「……うん」
「ご飯は食べた?」
「……食べた」
「そう。じゃあ、お風呂は――」
「ママ、ごめん」
みさおは、母の言葉を遮った。
「……私、もう寝るね」
さやかは、娘の顔を見つめた。
何かがおかしい。
声に力がない。
視線が合わない。
いつもなら、帰宅すると何かしら話してくれる娘が、今日はそれすらしようとしない。
「……みさお?」
「……おやすみ」
みさおは、逃げるように寝室へ向かった。
さやかは、しばらくその背中を見送っていた。
そして、静かに眉を寄せた。
(……何があったのかしら)
母親として、娘の異変を見過ごすことなどできなかった。
しかし、今は無理に問い詰めるべきではない。
そう判断したさやかは、娘のために、そっと寝室の明かりを消した。
*
布団の中。
みさおは、膝を抱えていた。
涙が止まらなかった。
声を出さないように、口元を押さえる。
けれど、どうしても嗚咽が漏れてしまう。
(……私の気持ち、全部……)
偽物かもしれない。
彼方に惹かれたこと。
彼方の声を聞くと嬉しくなること。
彼方が他の女の子に褒められると、胸が痛むこと。
彼方に会いたくて、次の日が来るのを待ち遠しく思うこと。
全部。
全部、術のせいなのだろうか。
(……違う)
みさおは、首を振った。
そんなはずはない。
彼方が自分に向ける優しさに、嬉しくなった。
彼方が自分の将来を心配してくれたことが、嬉しかった。
彼方が作ってくれた料理を、もっと食べたいと思った。
彼方と一緒にいる時間が、幸せだった。
それは、自分の気持ちではないのだろうか。
自分が、そう感じたのではないのだろうか。
けれど、彼方は言った。
その気持ちが、術によって作られた可能性があると。
だから、彼女の気持ちを受け入れることはできないと。
(……私、どうすればいいの?)
胸が苦しい。
彼方を好きになってしまった。
それを認めたばかりだった。
ようやく、自分の気持ちが分かったと思ったのに。
その気持ちが本物かどうかさえ、自分では分からなくなってしまった。
彼に近づけば、術の影響が強くなるかもしれない。
だから、会う回数を減らす。
彼のためにも、自分のためにも。
それが正しいのだろう。
分かっている。
分かっているのに。
(……会いたい)
彼方に会いたい。
声を聞きたい。
笑ってほしい。
自分のことを見てほしい。
その気持ちが、胸の奥から溢れてくる。
みさおは、布団の中で小さく身を縮めた。
「……うっ……」
涙が、頬を伝う。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
どうして、好きになってしまったのだろう。
どうして。
どうして、彼は自分を選んでくれないのだろう。
そのとき。
「……みさお?」
すぐ隣から、声がした。
さやかだった。
母は、娘の小さな嗚咽に気づき、そっと身体を起こしていた。
「どうしたの?」
「…………」
「みさお?」
さやかは、娘の肩に手を伸ばした。
その瞬間。
「……ママ」
みさおが、顔を上げた。
涙で濡れた顔。
焦点の合わない瞳。
今にも崩れてしまいそうな表情。
さやかは息を呑んだ。
「……どうしたの、みさお」
優しく問いかける。
その声を聞いた瞬間、みさおの中で、何かが切れた。
「……ママ……っ」
みさおは、母にしがみついた。
「私……私……っ」
言葉にならない。
胸が苦しくて、息がうまくできない。
嗚咽が喉に詰まり、声が出ない。
それでも、どうにか伝えようとする。
「……どうしたら……」
みさおは、母の服をぎゅっと握りしめた。
「どうしたら、いいの……?」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「私……どうしたら、いいの……っ!」
さやかは、何も尋ねなかった。
娘が何をしたのか。
誰と会ったのか。
何があったのか。
今は、そんなことを聞く必要はない。
ただ、泣いている娘がいる。
自分を頼ってくれた娘がいる。
それだけで十分だった。
さやかは、みさおをそっと抱きしめた。
背中に腕を回し、ゆっくりと撫でる。
「……うん」
優しい声で、囁いた。
「いいのよ」
みさおの肩が震える。
「……ママ……っ」
「大丈夫。今は泣いていていいから」
さやかは、娘の頭を撫で続けた。
「話せるようになったら、話してちょうだい」
「…………」
「何があったのか、何に困っているのか。ゆっくりでいいから」
そして、母は微笑んだ。
どんな事情があろうと、娘の味方でいる。
それだけは、決して変わらない。
「……力を貸してあげるから」
みさおは、母の胸に顔を埋めた。
その言葉を聞いて、また涙が溢れた。
今度は、もう我慢しなかった。
母の腕の中で、声を上げて泣いた。
恋を知ったばかりの少女は、初めての恋に傷つき、初めて、自分の気持ちさえ信じられなくなっていた。
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