第72話 少し不格好だったか?
「え? でもアールさんそれじゃ飛べるかどうか」
荷台の上に立ち、こちらを見たランドが抗議の声を上げようとするのを制する。一瞬でも惜しい。
「荷物のマージンで勝つしかない。このまま行くぞ。反転させろ」
「よし来た」
ヴェルとヴィゾの二人がまず動いて、それからマグルも加わった。普通なら積荷を下ろすから軽くなる。四十キロを残して動かすのもギリギリだった。この重さを人力で半回転させるのは骨が折れる。
「んぎぎぎっぎぎいいい」
信じられない顔で踏ん張るマグルの肩を飛び越え、機関手席に舞い戻る。割符はマジックバックに入れた。
――全身から余計な力を抜き、精神を落ち着ける。大魔法を詠唱する時のように心を穏やかにした。
まだ九十度。
「斜めになったら出るぞ」
聞こえるか分からないほどの声で呟いた。自分に言い聞かせるようでもあった。
「ぬおおおおおおおおお!」
ヴィゾが渾身の力を出す。傷痕だらけの翼をはためかせ、悲鳴に似たか細い風で体ごと前へ押し込む。
まだ百度。
薄目を開けた瞼の隙間から、三位を見た。この時点で、まだ荷物を下ろしている。雨のせいで時間が掛かっているのも好都合だ。これで三位。
百十度。六位の工房がレーンを滑って来る。
「もう出せるぞ!」
ヴェルが言う。
「んににににに」
最後の一押し。顔を真っ赤にし、タコみたいに口をすぼめたマグルに告げる。とんでもない表情はおそらく母親さえマグルか判別できない。ずりっと機体が動いて前を向いた。
「上出来だ。離れろ」
1速へ。
売れ残りの茄子みたいにどちゃりと崩れ落ちた三人を残して、ソリがまた動き出す。ギムレーの後ろ姿は、――まだ見えた。
ヴェルが羽ばたく。浮力を出し、少しでも動き出しを軽くする為に。
2速へ。
ソリはチーズを満載した荷車より重そうに発射台を登っていく。出発は滝から落下する速度も利用した。ここからの発射は四十キロの積荷でしかやっていない。だからもう少しレーンの距離が欲しかった。
ヴェルが宙に立ち、それからアールの乗ったソリが発射台を離れる。
がくんと下がった。同調中のヴェルも上から押し潰されたようにする。まさにヤルンを抱え川へ墜落した時の姿勢と合致する。
ここからだ。畜魔器のボタンを押す。
機関がギュルギュルと高速で稼働し、3速へ上げる。
咲いていた黄色い花が折れる。地面すれすれから、弾かれたようにソリが速度と高度を上げた。急加速に、アールも狭い座席の中で踏ん張った。
大型の魔物が唸るようなソリの声を聞き、それから4速へ。
遠くの景色は変わらない。だが路傍の木々はびゅんびゅんと後ろへ消えていく。風がソリを避けていく。
ギムレーの黄色い機体が見える。二位のゲルムル工房は直線で追いつこうとしていたが、左へのカーブに備えて速度を落とした。ギムレーはギアを変えない。
そのまま、カーブへ突っ込む。
「あいつら死ぬぞ!」
ゲルムル工房のダミ声が風の中に残されていた。
もうカーブに差し掛かる。まだ減速する様子はない。
曲げるのではなく、左へ回転し始めた。目を疑ったが、その頃にはもう機体は九十度傾いている。もっと目が良かったら、機体から落ちないよう必死に捕まるギムレーが見えたことだろう。
ギムレーはそのままカーブへ。きりもみするように回転しながら、高速で曲がっていく。後ろに積荷がないからこそできる芸当だった。
クルクルと黄色い軌跡だけが空中に残った。
「有り得ねぇ!」と、ダミ声。
ヴェルとアールにそんなことが出来るわけもなく、きっちり速度を落としてカーブを曲がる。ゲルムル工房が何事か喚くのが五月蠅い。雨の影響は時間が経つほどに大きく、ヴェルの動きも重たくなっていく。彼は定期的に翼を大きく動かし、雨露を払った。
カーブを抜けた。2速から3速へ。ゴールも近い。今は三位で、前には二台ある。
いつの間にかゲルムル工房の大きな矢が目の前にある。高い音を立てながら空気を裂いていた。
機関手が振り向いて言う。
「おい。近づくとぶっ殺すぞ!」
意味が分からないな――。
アールは返事する気も起きない。
出し惜しみはなしだ。畜魔器のボタンを空になるまで押す。
再び4速へ繋げた。
グングンと速度を増す。最高速度はこちらが上だ。改めてグレイプル工房の技術力の高さを思い知る。
横に並ぶ。
ギムレーは先をいってい、――ガツン。
「死ねぇ」
横から体当たりされた。彼らの機体には、自壊する可能性を考えられる脳味噌を付けておくべきだな。
もう一度ぶつかってくる。二度やられて分かった。アールたちは積荷を下ろしていない。重い分だけ相手の方に衝撃が向かっている。それにグレイプルたちが丹精込めて作ったソリはそんじゃそこらの衝撃では故障を起こす余地もない。
「なんとか言えよクソエルフ!」
「てめぇの長い耳をぶった切ってやる」
雑音が耳に入ってくる。最高速度で勝っている以上、もう意識する必要はない。
前だけに集中した。大きな矢はアールの視界から外れ、視界外で徐々に遠ざかっていく。やがて声は聞こえなくなった。
荷物のマージンがある。狙うはただ一つ、ギムレーとの距離を縮めることだ。
*
風を掻き分けて飛ぶのが、これほど気持ちいいとは。フレースが飛びたがったのも理解できる。……そしてその無念を想った。
ヴェルはもう一度、大きく羽ばたいて雫を落とした。やけに翼が重い。
途中から雨の中を飛んだ。そして積荷をそのままに飛び立ったのは奇策だったが、それが功を奏して今は二位だ。広い湖面を伸び伸びと吹き抜ける風に乗り、4速が安定した時だった。
ゴールが見えてくる。モロコシ街と同じくレーンが用意されていた。
それと一緒に、究極の肩凝りと表現した。ヴィゾの言葉を思い出す。
疲労が急に襲ってきた。試験飛行では4速で飛んだことがなく、だから気付かなかった。自分がどれほどの速さで翼を動かしているかに。ペースの配分はその分だけ前にずれる。ただでさえ雨と予期せぬギアチェンジに負担が掛かった。
体が重い。動きも鈍い。一人でに視線が下がる。顔を上げる前に、湖面で浮かぶであろう一人の女を探した。ヒミグレーヴァは寝ているのかもしれない。見れば元気になるのか――。その意味を探そうとして、やはり心の底にしまいこんだ。
考えたくないのか、それとも別の理由があるのか。疲労でドロドロした脳味噌ではよく分からない。
「このまま4速で行く」
アールさんの言葉が聞こえた。返事を一つするのも面倒だ。このペースでゴールまで辿り着けるか?
肺の焼けるような痛みに、無理な理由ばかり思い付く。ここまで頑張った。息を吐き、羽を休めてたとしても誰も怒らない。体の内側を焼かれながら、酸素を取り込み、またその酸素がよく燃えた。灼熱になった血液が体を巡る。さっきからゴールが遠い。
ギムレーがゴールに着いた。頭の中でカウントダウンが始まる。スタート時の歓喜に震えたカウントダウンではなく、絶望へ歩むカウントダウンだ。
10
飛空士も機関手も一流だった。当初のヴィゾとギムレーのコンビだったら確実にグレイプル工房が勝っていただろう。ゲルムル工房が妨害に及ぶわけだ。
9
もう動けない。翼が腐ったカボチャのようだ。この役立たずを引きちぎってヴィゾの背中に縛り付けてやりたい。
8
それが見えた。いや見られていた。
7
道の横にフレースの墓がある。あいつのお守りは服の中、胸の内にある。
6
それが心臓を大きく震わせ、一滴の力を振り絞る。
5
モロコシ街のレーンとは違い、ゴールラインがある。その先には枯草が分厚く積み上げられたクッション。
4
レーンまで少し。
接地した。
「同調を切るぞ」
アールさんが言う。ゴールした後のソリを止める気はないらしい。
機関が停止し、あとは余勢で進んだ。勢いは落ちない。車輪の悲鳴と、観客の悲鳴が重なる。
中央のレーンでは、空輸機械の上で立ち上がったギムレーが喝采を浴びていた。
その横を爆撃するような勢いでソリが降ってくる。ゴールと同時に同調が切られ、重いソリから解き放たれたヴェルは勢いを殺しながら枯草に突っ込んだ。ソリも枯草を盛大に蹴散らし、一度跳ね、それから横倒しになって止まった。
はっとした。アールさんは無事か。機関手席を見る前に、影に気付いた。
目が上を見ると跳躍したエルフの姿がある。最高点でくるりと後ろへ回り、そのままストンと降りる。膝を上げ、何事もないような顔で立ち上がった。
涼しげな顔がちょっと、憎たらしい。
影が顔に差す。横を見た。
「飛べたわね」
立ち上がろうとして、尻をついた。限界になるまでよく頑張れたよ。
差し出されたヒミグレーヴァの手を借り、なんとか尻を上げる。
息を吸って、吐いた。
「少し不格好だったか?」
服に付いた枯草を払い落とす。
「少しなの?」
その笑顔はどうしてだろう、疲れが吹き飛ぶんだ。




