第71話 雨降れば風邪の道
ヒミグレーヴァは虹湖の中央で横になり、優雅に浮かんでいた。浮き草を丸め、柔らかな茎で縛ったのを枕にしている。風が穏やかに頬を撫で、水温は陽光の当たるところが心地よい温度になっている。ぽちゃりと、可愛らしい色合いをした魚が水面を跳ねた。パチパチと瞼を開いて閉じる。意識しないと眠ってしまいそう。
シィラ滝の方角は太陽が目に入って眩しいけれど、見ていたい。ちょっと待ちくたびれてきた頃に大きな歓声を風が運んできた。
八つの影が湖面を滑ってくる。その迫力に、思わず湖中へ潜りそうになった。
馬鹿な男の叫び声が聞こえた。ヒミグレーヴァは静かに手元の酒を飲む。虹湖の名前を冠したこの酒は茜色と水色が中途半端に混ぜられたような色合いだった。
*
風を切る音で声が消える。ヴェルに速度を上げていいか聞きたかった。
前には五台。先頭はギムレーで、最初の加速が圧倒的だった。一息に二台分くらいの差をつけ、それがどんどん開いていく。
そろそろか。
「3速に上げるぞ!」
「おお!」
がくんとソリの動きが止まった。ギアを上げる魔力が足りない。
しまった――。
畜魔器に魔力を入れながら飛んでいるのを忘れていた。
急いで1速に戻し、2速へ上げる。その間に一台に抜かれた。ヴェルが速度を落とさないよう、懸命に羽ばたいてくれたのでまだその程度で済んだ。
虹湖を渡っていく。大きいのは知っていたが、実際に横断しようとすると、その大きさが分かる。
「このままだと負けるぞ!」
ヴェルの声が耳の横を掠め、すぐに後方へ流れる。
「焦るな」
「あんたは焦ることを覚えてくれ!」
3速が安定し始める。少し余裕が出てきた。一位のギムレーは風の道が分かるのか、大気の隙間を縫うようにスイスイと飛んでいる。こちらは時折、塊のような逆風が顔に当たった。
「ヴェル。ギムレーが通ったところを進め」
「ああ!」
さすがは鷲の亜人だ。何が言いたいかそれで分かったらしい。
効果はすぐにスピードに出た。
あともう少しで前の一台に追い付く。
前の機関手がこちらを見た。先ほど抜かされたソリだ。
ギアを無理に上げたのか、ブルリ、ブルリと機体が振動した。黒い煙が機関部分から立ち上ると、透明な道がそこで途切れように墜ちていった。これでまた五位。
四位との距離を徐々に詰め、それから同じ時間を掛けて距離を広げた。四位。
前にあと三台だが、ギムレーはかなり先だ。その後ろ、巨人が放った矢が飛んでいく姿はゲルミル工房で、少し距離を置いて三位が見えた。
虹湖を渡り終えると、ヴェルの羽に緊張が見える。ここまでは最悪墜落しても湖だが、ここからは固い地面だ。死の水平線上を、余計な重りを抱え飛ばしている。
少しして、大地の乳房のような山間が見えてきた。ギムレーの黄色い機体が吸い込まれていく。二位、三位と続く。グレイプルからのアドバイス通り、アールは3速から2速へ減速した。
山間は気流が乱れる。
ヴェルの羽が前傾して、高度が落ちる。持ち直したところでアールたちも山に挟まれた狭い空間へ突入する。ギムレーたちからは、遅れていた。
山間の先には鬱蒼とした小山があり、背の高い木が壁のように並んでいた。そのせいで下の道はT字路になっている。
右に曲がるので、ヴェルが翼を傾け、空気を下へ落として抑える。壁になった木々が間近に迫り、その輪郭がソリの側面を擦りそうになった。アールも精一杯に体を右へ傾けた。
後ろから五位が追い付いてきて、斜め後ろに着く。抜かされるか。五位は尚も速度を上げ、徐々に左へ流れていき、力尽きたように背の高い木々の中へ突っ込んでいった。あの速度では曲がり切れない。
気流が下から上へ、ソリをひっくり返すような強風が吹く。羽の付け根の筋肉が盛り上がり、ギシギシと軋む音がするようだ。
耐え切った。
曲がり終え、山肌に沿って飛ぶとモロコシ街が見える。
ポツポツとなにかが肌を刺した。雨だった。ひどくは降っていない。小雨だが邪魔なのは変わりない。
「レーンは右から三番目だ!」
ヴェルに叫ぶ。
モロコシ街に用意された着陸レーンはそれぞれの工房毎に割り当てられている。長い直線に、緩やかな下り坂が加えられた。飛ぶ時はそのまま発射台になる。
「分かってる!」
レーンの先には四角い空き地が用意されている。その中に停め、機関手が傍の係員から到着の証を貰う。その時に積荷を下ろす。それから空輸機械を反転させ、またシィラを目指す。反転するのと荷物の積み下ろしのみ、荷役が手伝っていいことになっていた。
「速度を落としてくれ」
ヴェルの言葉で、ギアを3速から2速へ。
レーンがしっかりと見えた。空輸機械を一目見ようと、多くの人が詰めかけている。建物の窓からも子供たちが手を振っているのが小さく見えた。
モロコシ街は山から伸びた平原を見下ろし、肩を支え合うようなに建物が並ぶ、旅の最中に立ち寄ることで生まれた小さな街だ。
ラザニ村の面影を見る。アイゼに手紙を書きたくなったが、今はそんなことを考えている余裕はない。モロコシ街では先に移動していたマグルと、ランドにヴィゾが待っていた。
1速から0速へ。機関を停止して滑空する。途端に飛ぶのが鈍重になった。速度が落ちていく。辿り着くか微妙だ。
慌ててまた1速へ上げ、レーンに着地してから0速へ落とした。
ソリの底に着いた車輪が悲鳴を上げる。車軸付近から火花が散った。
「止まらない!」
ヴェルが悲鳴を上げる。接地した摩擦だけじゃ足りない。
大幅にオーバーすれば、レーンを取り囲む観客にぶつかる。
「マグル! 抑えろ!」
「はえ?」
――うお、すげぇ。本当に飛んでるよ。見ろよヴィゾさん、あんたのお陰で飛べなかったヴェルがあんだけ立派に飛んでるぜ。やっぱ足りなかったのは度胸と速度だったかあ。
まるでそんな話をしている顔だ。興奮してぽっかり口を開けたマグルがこちらを見ている。
「止めろ!!」
ヴィゾとマグルが二手に分かれ、空輸機械を左右から受け止める。積荷を含め、少なくとも二百キロはある機体だ。小さな体のランドは触れた瞬間に視界外へすっ飛んだ。
地上の二人が受け止めたのを確認し、まだ機体が止まらない内からアールはひらりと身軽な仕草で飛び降りる。係員から到着した証を受け取る。木で作られた割符だ。
後ろを振り返る。ギムレーが飛び立ち、ゲルムル工房が後を追ってレーンを走りだす。
その迅速な積荷の下ろしと反転、綺麗な飛び立ちは見事だった。
悔しい思いが胸一杯に広がる。私の十年ワインが――。
最早この差は覆せそうにない。
どうする。なにか策は。ヴェルと目が合う。同じく、このままでは勝てないことを悟っていた。それでも闘志は衰えず、勝利を手放そうとしていなかった。しかし今さら足掻けることなど、……ある!
「積荷を下ろすな」
考えると同時に口から言葉が発せられる。
弾き飛ばされ、目を回しながらもランドは積荷を固定するロープを外そうとしている。その手を止めた。




