第10話 エルフの歌
「おはよう」
「出発するぞ」
眼球を必死に上へ向けて、うぐうぐとなにごとか唸りながら前髪をいじっている。
そこよりも後ろ髪が爆発しているのをどうかした方がよいのでは。アールは思ったが言わなかった。気にしているのは自身だけなのだから、知らない方が楽なこともある。
「この壁ってこのまま?」
「いや」
ドカッ、とアールが前蹴りをかます。壁は簡単に崩れた。そこから囲いを出ていく。
ビレステは肩を跳ねさせる。乱暴な行動にびっくりした。
「硬質化が切れるとただの盛られた土になる」
「今日はどこまで行くの? また野営?」
ビレステは走ってでも宿に泊まりたかった。
「モッツァ村が途中にある。そこから乗合馬車で行こう」
どんぐり街道は田舎へ行けば行くほど整備がされていない。だから王都に向かうにつれ、道は広く平坦になっていく。
「見えてきたな」
モッツァ村が遠くに見える。ラザニ村よりも一回り大きいくらいの村だ。
反応がない。アールが後ろを見ると、なんだかちらちらと回りを見ている。
「魔物の気配がするか?」
「トイレかも。もう。出発前に済ませればよかったぁ」
申し訳なさそうにビレステは言う。生理現象だ。恥ずべきことじゃない。
「行ってこい。見える範囲に居ろよ」
「はあ? 見える範囲は嫌」
「見ないから大丈夫だ」
興味の欠片もない。
まるで女性として扱われない態度は、ビレステの心を無自覚に逆立たせる。女として肉体的な意識をして欲しくはないが、女性としては扱って欲しいという難しい年頃なのだ。リンゴの木を育てるのはリンゴを食べる為と同じように、男の行動原理をまだ知らないからそこに矛盾が生まれる。そしてその矛盾に甘酸っぱいドラマが生まれるのも、ビレステはまだ知らない。
「見える範囲に居たら見えてるのと一緒なの!」
「見ないから、見える範囲でやれ」
「見える範囲に居たら見えちゃうじゃない」
「見える範囲に居ないと見えないだろうが」
「きゃあああ。変態。最低」
罵声がぴたりと止まり、ビレステが停止する。
「やばい。ほんとうにもう無理かも。絶対見ないでよ。耳も塞いで聞かないで」
「最初から見ないと言っている」
ささっとビレステが木陰の草むらへ行く。
「なんか歌って。エルフの歌とか!」
どうして私が歌う必要があるのか。無視して、アールも肩掛けの鞄を下ろす。残り少ない水を飲み、郵便の入った小袋がちゃんとあるか確認した。短弓は弦を張った状態にしていたが矢筒は蓋をしている。もう村も近いので、弓の弦を外したっていい。
などと考えている時に魔物というのはやってくるのだ。
遠くから聞こえる羽音を捉え、ぴくりとアールの左耳が動く。道の片側は木立だが、視界が遮られるほどではない。
「羽音だ」
矢筒を開ける。矢羽の状態が良さそうなのを三本取った。
「聞いてるでしょ!!」
ブチ切れた声。
今はそれどころじゃない。
「弓を持て。魔法は使うなよ」
羽音が近付いて確信する。やはり魔物だ。
「ルルビーだ。アール。ルルビーが飛んできてる」
ルルビーは蜂型の魔物で、中型犬くらいの大きさをしている。
アールはやむを得ず振り向く。
よかった、ビレステはもう済ませていたみたいだ。横倒しになった矢筒から矢を一本とっている。焦っているのか、動きがぎこちない。
アールは詠唱を始めなかった。今からやっても遅い。それに弓はそれだけに集中しないと射れない。
見た限りでは三体だけだった。
距離を測るために、一射する。手前で落ちた。まだだ。
「合図で同時に射るぞ」
ビレステが弓を引き絞る。
「今だ」
運良く互いに違うルルビーを射た。矢が短いせいか威力が足りない。二匹とも、矢が腹に刺さったまま突っ込んで来る。
「避けろビレステ」
「うわわ」
もう一射。二本目が突き刺さったルルビーは墜落して転がった。
一匹は勝手に木にぶつかった。
無傷のが一匹、突っ込んでくる。
避けづらい飛び方だ。ルルビーの体がゆらゆらと動いて、どっちに避けても当たる気がした。
慎重に見極めて、右に上体を躱す。
すぐに矢を取り、射た。今度は一発で仕留められた。
「怪我はないか」
「びっくりしたぁ。魔法でちゃったかも」
一匹が勝手に木に当たったかと思ったが、ビレステの魔法に弾かれたのかもしれない。
「モッツァ村はもう少しだ。さっさと行こう」
「ルルビーの目は見た?」
目が真っ赤なものは体内に花粉で作られた結晶を持っていることが多い。ビゼイルもよく小遣い稼ぎしたと言っていた。
「三体ともピンク色だったな。期待は出来ないだろう」
無属性魔法を使ったなら早く休ませた方がいい。もし結晶があれば取り出すのに時間が掛かる。アールは適当に言った。
「なぁんだ」
「弓の練習はちゃんと続けていたようだな」
ビレステに弓の手ほどきをしたのはアールだ。ビゼイルが護身術として剣を教えているが、ビレステは弓の方が性に合ったらしい。
「時間ある時に、ちょこちょこ頑張ってるよ。でもあの時は鍋蓋を掴んじゃったけど」
孤児院がスコルに襲われた時のことだ。
「次は弓を射ればいい」
ビレステは褒められて嬉しいのか、上機嫌な足取りで前を行く。
「杞憂か」
アールはビレステが倒れるのを危惧していた。周りを見る。他にルルビーはいない。魔物の気配らしきものも、なかった。




